一冬の糸

倉木 由東

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#6.paris 失踪

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「モーリスさ。犯人は君の上司だよ」
 男の言葉の意味が理解出来ずマルセルは呆然と立ち尽くしていた。
「おい、悪ふざけもいいかげんにしろ」
 マルセルはパイプ椅子に座っている男子学生の胸ぐらを掴み立たせると壁に勢いよく叩き付けた。背中を強く打った男は壁際で倒れこみながらも乾いた笑い声をあげて続ける。
「悪ふざけかどうか今にわかるよ。さっき彼に『俺はお前が犯人だということを知っているぞ』というサインを出したんだ。その直後だよ。彼がこの部屋から出て行ったのは。もうこの建物にもいないはずだよ」
 その言葉に思わずドアのほうを振り返る。モーリスは一服してくると言っていた。時間的にもそろそろ部屋に戻ってきてもいい頃である。部屋は沈黙と張りつめた緊張感に包まれていた。倒れ込んでいる男を見下ろしながらながらマルセルはもう一度尋ねた。
「お前はいったい何者だ?なぜ公園にいた?」
「公園に遺体を運んだのは俺だよ。頼まれたのさ。まぁコロネードに縛り付けるというのは俺のアイディアだけどな」
「なんだと」
「だからモーリスは遺体を見たとき驚いたはずさ。そりゃそうだよな。自分が殺した男が違った場所で違った形で発見されたんだから」
「彼はそんなことをする人間ではない」
「はは。それ本当に言っているのかい?モーリスも上司思いのいい部下を持ったな」
「頼まれたと言ったな?誰に頼まれた」
「・・・・・・・」
「またダンマリか。刑事を犯人と言ったり都合悪くなれば黙ったり。そんな人間の言うことを信用出来ると思うか」
「・・・・・・・」
 男を問いつめながらもマルセルに不安が全く無いわけではなかった。モーリスが部屋に未だに戻って来ていないことが、時間が経つに連れてマルセルの胸の中で不安の色をより濃くしていった。この男の言うことを信じているわけではない。むしろデタラメだということをモーリスがこの部屋のドアを開けることによって早く証明してほしかった。
 その時、部屋のドアが開かれた。
 モーリス!と期待をした視線の先に姿を現したのは、パリ警視庁遺失物係の女性警官だった。
「マルセルさん、ちょっとよろしいですか」
「なんだ?どうした」
 思わぬ横入りに少し苛立ちながら、マルセルは呼ばれるままに部屋の外を出た。女性警官はポケットから二つ折りのメモ用紙らしき紙を取り出しマルセルに差し出した。
「あの・・。これモーリス警部が渡してほしいと」
「なんだこれは」
 言いながらメモを受け取り、紙を開いた。

『マルセル、すまない。後は頼んだよ』

「これをどこで受け取った?」
「正面玄関前です。今、あなたが取調室で聴取をしているから部屋まで行って渡してほしいと言われました」
「彼はどこへ」
「そのまま早足で出て行きました。ついさっきです。あの・・・それどういう意味でしょうか」
 質問する女性警官を無視してマルセルは1階へ向かって庁内を駆け出した。何名かの署員や来庁者とぶつかりそうになりながら階段を駆け下りる。右手には受け取ったメモ用紙を握りしめ、呼吸を大きく乱しながら。
 正面玄関を出ると見慣れた車が警視庁の駐車場を出るところだった。黄色いプジョー。モーリスの車だ。
「待ってくれ!」
 車に向かって叫びながら走ってはみたものの、現実的に追いつく距離ではなく、マルセルは車が闇夜に消え行くのを黙って見ているしかなかった。
 呼吸を整え、駐車場から庁内に戻ると更なる異常事態がマルセルを待っていた。何やら上階が騒がしい。何事かとマルセルは階段を駆け上がった。どうやら騒ぎの火種は自分が先程までいた取調室のある4階らしい。嫌な予感がする。
 4階にたどり着くと取調室の前に人だかりが出来ていた。
「どうした」
 マルセルが群れに近寄ると、どこからか声が聞こえてきた。
「毒か・・・」
 人ごみをかき分け部屋に入る。そこには先程までマルセル自身が取り調べをしていた男が、壁際にへたりこんだまま口の端から少量の血を流しながら息絶えていた。横にはメグレ警視がいる。
「マルセル、いったい何があったんだ」
 マルセルの存在に気づいたメグレが尋ねる。何が起こったのか、起こっているのか。マルセル自身が聞きたいぐらいだった。
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