5 / 368
第1話:『副都心スニーカー』
◆01:ある大学生の日常−2
しおりを挟む
「…………ふむ」
手早く自己暗示を掛ける。――今日は大切な期末試験の日であり、模範的な生徒たるおれは万一にもアラームが鳴ることを恐れ自宅に携帯を置いた。従ってここに携帯端末などあるはずもなく、おれは何も見てないキイテナイ。
……着信音は、一向に鳴り止む気配が無い。だんだん交差点にたたずむ人々の視線が重くなってくる。……わかってはいるんだ。このままではたとえ一時間であろうが銭形警部のテーマが鳴り続けるだろう事は。保留にしてもいずれは同じ。周囲の冷たい視線に耐えかね、おれはついにフックボタンをタップした。
『亘理くーん』
ためらわず『切』をタップ。
あの人が出る以上、まちがいない。『仕事』の話だ。早い。早すぎる。もう試験が終わったことを嗅ぎ付けられたのだろうか!?
一拍おいてまたもや、不吉なメロディーが鳴り響く。脳みその中でめまぐるしく行われる仮想演算。おれは大きく深呼吸をすると、意を決してもう一度フックボタンをタップした。
「はい、もしもし」
こう見えても花の東京一人暮らしを生き延びている身、キャッチセールスや押し売りのあしらいかたは百通りも心得ている。大丈夫さ、もっと自信を持て。向こうがどんな仕事を押し付けてきたって、きっと断れるさ。……はかない期待。
『お久しぶり。用件はわかってるわよね?こっちはただでさえ人手が足りないんだから』
電話の声は女性だった。別段媚びや甘ったるさを含んでいるわけではないのに、妙に艶がある。天性の色気というやつだ。時々お世話になるシティホテルのバーあたりで耳に入ったなら、喉をごろごろさせて喜びたい声色であるが、残念ながらそうするにはあまりにも辛い記憶が脳味噌深くに刻み込まれている。
「しょ、所長。お久しぶりですね。あぁ、人手が足りないって……夏休みだからみんなで軽井沢にキャンプに行くとかですか?ザンネンだなあ、ボク体が弱くてアウトドアはちょっと」
さりげなく、さりげなく。
『夏休み?夏休みですって?ほほう、学生っていい御身分なのねぇ。世間では盆と彼岸を返上して働いている人がいるっていうのに』
「ええ、そうなんですよ。現行の社会制度は勉強してきた学生がつら~い社会人になる前にしばらくあま~い夢を見させてくれるそうでしてね、おれとしてはその権利を行使したい欲求に駆られているわけです」
『他人のノートのコピーの持ち込みなんていうあま~い目論見で文化人類学のテストを受けられるのも、権利なわけね』
……おい。一体いつのまにおれのテストの情報を把握しているんだ?
『今日からどうせ何もやる事のない夏休みに入るんでしょ。オーダーが一件。あなた向きのが入ったの。事務所に来て。詳細は後で話すわ』
ちょちょちょ、ちょっと待て。
「所長。あのですね、いいですか。おれ、こないだ一ヤマ踏んだばかりなんですけど」
そのために春季の単位をあやうく落としかけたのだ。遊ぶだけ遊んでも留年はしない、というおれの主義からすれば、かなり危ういヤマだったのである。
『あら、そうだったっけ』
「そうなんです!だから、おれとしては当分遠慮したいんですってば。だいたい、直樹だって仁先輩だっているでしょうに」
『彼等はねー。ちょっと別件で出てるのよ。ニュースでやってるでしょ?豚のジョナサン君の大脱走事件』
「ああ……ワイドショーで大騒ぎの」
またウチの連中が関わってるのか。
『任務は緊急。ウチのメンバーで今動けるのは君だけなのよ』
「いやー、そう言われてももうテスト終わっちゃったし、いま実家なんですよね~」
逃げ切れるか。
「ふーん。実家って高田馬場にあったんだ。それもこんな明治通りの真ん前にねぇ」
受話器を当てている右耳、ではなく、無防備な左耳から心臓へ送り込まれた音声はおれを飛び上がらせるに十分な威力だった。あわてて振り返ると、そこには、明治通りを#睥睨__へいげい#するかのように路肩にうずくまっている真っ赤な……毒々しいまでの紅い外車。車に大して興味のないおれでも、このジャガーの値段が七桁ではすまないということくらいはわかる。そしてそのジャガーすらも圧倒するかのような存在感で、運転席のウィンドウに形の良いヒップを預けて、長い髪を夏の風になぶらせながら笑みを浮かべている優美な女性の姿が、そこにはあった。
「あ、浅葱さん……」
おれは乾いた愛想笑いを唇に張り付けようとして失敗し、破滅的な色気を湛えた女性を見やった。テストの日程を把握されてた所で気づくべきだった。逃げ切れるどころではない。……最初から捕獲済みだったのだ。
「ハイ!亘理君。オーダーよろしく」
こぼれおちる極上の笑み。がっくりと肩が落ちるのが、自分でもわかった。
『平和だねぇ……』
数分前の台詞は、遥か遠くの時空へと呑みこまれていった。
手早く自己暗示を掛ける。――今日は大切な期末試験の日であり、模範的な生徒たるおれは万一にもアラームが鳴ることを恐れ自宅に携帯を置いた。従ってここに携帯端末などあるはずもなく、おれは何も見てないキイテナイ。
……着信音は、一向に鳴り止む気配が無い。だんだん交差点にたたずむ人々の視線が重くなってくる。……わかってはいるんだ。このままではたとえ一時間であろうが銭形警部のテーマが鳴り続けるだろう事は。保留にしてもいずれは同じ。周囲の冷たい視線に耐えかね、おれはついにフックボタンをタップした。
『亘理くーん』
ためらわず『切』をタップ。
あの人が出る以上、まちがいない。『仕事』の話だ。早い。早すぎる。もう試験が終わったことを嗅ぎ付けられたのだろうか!?
一拍おいてまたもや、不吉なメロディーが鳴り響く。脳みその中でめまぐるしく行われる仮想演算。おれは大きく深呼吸をすると、意を決してもう一度フックボタンをタップした。
「はい、もしもし」
こう見えても花の東京一人暮らしを生き延びている身、キャッチセールスや押し売りのあしらいかたは百通りも心得ている。大丈夫さ、もっと自信を持て。向こうがどんな仕事を押し付けてきたって、きっと断れるさ。……はかない期待。
『お久しぶり。用件はわかってるわよね?こっちはただでさえ人手が足りないんだから』
電話の声は女性だった。別段媚びや甘ったるさを含んでいるわけではないのに、妙に艶がある。天性の色気というやつだ。時々お世話になるシティホテルのバーあたりで耳に入ったなら、喉をごろごろさせて喜びたい声色であるが、残念ながらそうするにはあまりにも辛い記憶が脳味噌深くに刻み込まれている。
「しょ、所長。お久しぶりですね。あぁ、人手が足りないって……夏休みだからみんなで軽井沢にキャンプに行くとかですか?ザンネンだなあ、ボク体が弱くてアウトドアはちょっと」
さりげなく、さりげなく。
『夏休み?夏休みですって?ほほう、学生っていい御身分なのねぇ。世間では盆と彼岸を返上して働いている人がいるっていうのに』
「ええ、そうなんですよ。現行の社会制度は勉強してきた学生がつら~い社会人になる前にしばらくあま~い夢を見させてくれるそうでしてね、おれとしてはその権利を行使したい欲求に駆られているわけです」
『他人のノートのコピーの持ち込みなんていうあま~い目論見で文化人類学のテストを受けられるのも、権利なわけね』
……おい。一体いつのまにおれのテストの情報を把握しているんだ?
『今日からどうせ何もやる事のない夏休みに入るんでしょ。オーダーが一件。あなた向きのが入ったの。事務所に来て。詳細は後で話すわ』
ちょちょちょ、ちょっと待て。
「所長。あのですね、いいですか。おれ、こないだ一ヤマ踏んだばかりなんですけど」
そのために春季の単位をあやうく落としかけたのだ。遊ぶだけ遊んでも留年はしない、というおれの主義からすれば、かなり危ういヤマだったのである。
『あら、そうだったっけ』
「そうなんです!だから、おれとしては当分遠慮したいんですってば。だいたい、直樹だって仁先輩だっているでしょうに」
『彼等はねー。ちょっと別件で出てるのよ。ニュースでやってるでしょ?豚のジョナサン君の大脱走事件』
「ああ……ワイドショーで大騒ぎの」
またウチの連中が関わってるのか。
『任務は緊急。ウチのメンバーで今動けるのは君だけなのよ』
「いやー、そう言われてももうテスト終わっちゃったし、いま実家なんですよね~」
逃げ切れるか。
「ふーん。実家って高田馬場にあったんだ。それもこんな明治通りの真ん前にねぇ」
受話器を当てている右耳、ではなく、無防備な左耳から心臓へ送り込まれた音声はおれを飛び上がらせるに十分な威力だった。あわてて振り返ると、そこには、明治通りを#睥睨__へいげい#するかのように路肩にうずくまっている真っ赤な……毒々しいまでの紅い外車。車に大して興味のないおれでも、このジャガーの値段が七桁ではすまないということくらいはわかる。そしてそのジャガーすらも圧倒するかのような存在感で、運転席のウィンドウに形の良いヒップを預けて、長い髪を夏の風になぶらせながら笑みを浮かべている優美な女性の姿が、そこにはあった。
「あ、浅葱さん……」
おれは乾いた愛想笑いを唇に張り付けようとして失敗し、破滅的な色気を湛えた女性を見やった。テストの日程を把握されてた所で気づくべきだった。逃げ切れるどころではない。……最初から捕獲済みだったのだ。
「ハイ!亘理君。オーダーよろしく」
こぼれおちる極上の笑み。がっくりと肩が落ちるのが、自分でもわかった。
『平和だねぇ……』
数分前の台詞は、遥か遠くの時空へと呑みこまれていった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
負けヒロインに花束を!
遊馬友仁
キャラ文芸
クラス内で空気的存在を自負する立花宗重(たちばなむねしげ)は、行きつけの喫茶店で、クラス委員の上坂部葉月(かみさかべはづき)が、同じくクラス委員ので彼女の幼なじみでもある久々知大成(くくちたいせい)にフラれている場面を目撃する。
葉月の打ち明け話を聞いた宗重は、後日、彼女と大成、その交際相手である名和立夏(めいわりっか)とのカラオケに参加することになってしまう。
その場で、立夏の思惑を知ってしまった宗重は、葉月に彼女の想いを諦めるな、と助言して、大成との仲を取りもとうと行動しはじめるが・・・。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる