人災派遣のフレイムアップ

紫電改

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第1話:『副都心スニーカー』

◆01:ある大学生の日常−2

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「…………ふむ」

 手早く自己暗示を掛ける。――今日は大切な期末試験の日であり、模範的な生徒たるおれは万一にもアラームが鳴ることを恐れ自宅に携帯を置いた。従ってここに携帯端末などあるはずもなく、おれは何も見てないキイテナイ。

 ……着信音は、一向に鳴り止む気配が無い。だんだん交差点にたたずむ人々の視線が重くなってくる。……わかってはいるんだ。このままではたとえ一時間であろうが銭形警部のテーマが鳴り続けるだろう事は。保留にしてもいずれは同じ。周囲の冷たい視線に耐えかね、おれはついにフックボタンをタップした。

『亘理くーん』

 ためらわず『切』をタップ。

 あの人が出る以上、まちがいない。『仕事』の話だ。早い。早すぎる。もう試験が終わったことを嗅ぎ付けられたのだろうか!?

 一拍おいてまたもや、不吉なメロディーが鳴り響く。脳みその中でめまぐるしく行われる仮想演算。おれは大きく深呼吸をすると、意を決してもう一度フックボタンをタップした。

「はい、もしもし」

 こう見えても花の東京一人暮らしを生き延びている身、キャッチセールスや押し売りのあしらいかたは百通りも心得ている。大丈夫さ、もっと自信を持て。向こうがどんな仕事を押し付けてきたって、きっと断れるさ。……はかない期待。

『お久しぶり。用件はわかってるわよね?こっちはただでさえ人手が足りないんだから』

 電話の声は女性だった。別段媚びや甘ったるさを含んでいるわけではないのに、妙に艶がある。天性の色気というやつだ。時々お世話になるシティホテルのバーあたりで耳に入ったなら、喉をごろごろさせて喜びたい声色であるが、残念ながらそうするにはあまりにも辛い記憶が脳味噌深くに刻み込まれている。

「しょ、所長。お久しぶりですね。あぁ、人手が足りないって……夏休みだからみんなで軽井沢にキャンプに行くとかですか?ザンネンだなあ、ボク体が弱くてアウトドアはちょっと」

 さりげなく、さりげなく。

『夏休み?夏休みですって?ほほう、学生っていい御身分なのねぇ。世間では盆と彼岸を返上して働いている人がいるっていうのに』
「ええ、そうなんですよ。現行の社会制度は勉強してきた学生がつら~い社会人になる前にしばらくあま~い夢を見させてくれるそうでしてね、おれとしてはその権利を行使したい欲求に駆られているわけです」
『他人のノートのコピーの持ち込みなんていうあま~い目論見で文化人類学のテストを受けられるのも、権利なわけね』

 ……おい。一体いつのまにおれのテストの情報を把握しているんだ?

『今日からどうせ何もやる事のない夏休みに入るんでしょ。オーダーが一件。あなた向きのが入ったの。事務所に来て。詳細は後で話すわ』

 ちょちょちょ、ちょっと待て。

「所長。あのですね、いいですか。おれ、こないだ一ヤマ踏んだばかりなんですけど」
 そのために春季の単位をあやうく落としかけたのだ。遊ぶだけ遊んでも留年はしない、というおれの主義からすれば、かなり危ういヤマだったのである。
『あら、そうだったっけ』
「そうなんです!だから、おれとしては当分遠慮したいんですってば。だいたい、直樹だって仁先輩だっているでしょうに」
『彼等はねー。ちょっと別件で出てるのよ。ニュースでやってるでしょ?豚のジョナサン君の大脱走事件』
「ああ……ワイドショーで大騒ぎの」

 またウチの連中が関わってるのか。

『任務は緊急。ウチのメンバーで今動けるのは君だけなのよ』
「いやー、そう言われてももうテスト終わっちゃったし、いま実家なんですよね~」

 逃げ切れるか。

「ふーん。実家って高田馬場にあったんだ。それもこんな明治通りの真ん前にねぇ」

 受話器を当てている右耳、ではなく、無防備な左耳から心臓へ送り込まれた音声はおれを飛び上がらせるに十分な威力だった。あわてて振り返ると、そこには、明治通りを#睥睨__へいげい#するかのように路肩にうずくまっている真っ赤な……毒々しいまでの紅い外車。車に大して興味のないおれでも、このジャガーの値段が七桁ではすまないということくらいはわかる。そしてそのジャガーすらも圧倒するかのような存在感で、運転席のウィンドウに形の良いヒップを預けて、長い髪を夏の風になぶらせながら笑みを浮かべている優美な女性の姿が、そこにはあった。

「あ、浅葱あさぎさん……」

 おれは乾いた愛想笑いを唇に張り付けようとして失敗し、破滅的な色気を湛えた女性を見やった。テストの日程を把握されてた所で気づくべきだった。逃げ切れるどころではない。……最初から捕獲済みだったのだ。

「ハイ!亘理君。オーダーよろしく」

 こぼれおちる極上の笑み。がっくりと肩が落ちるのが、自分でもわかった。

『平和だねぇ……』

 数分前の台詞は、遥か遠くの時空へと呑みこまれていった。
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