人災派遣のフレイムアップ

紫電改

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第2話:『秋葉原ハウスシッター』

◆14:『深紅の魔人』−1

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 月が翳り、辺りを闇が満たしてゆく。

 鉄骨の林の中、限られた空間を無数の線が貫き埋め尽くす。今やそこは、『蛭』の五指両手が織り成す蜘蛛の巣と化していた。その指はどれほど長く、迅く伸びるというのか。変幻自在に放たれ捻じ曲がる無数の槍衾の渦を、直樹はコートをなびかせながらひたすらに避ける。

「なかなか素早い。しかし、所詮人間の動きでは避け切れませんよ」

 『蛭』が言うや、さらにその攻撃の速度は上昇。もはや刺突ではなく銃弾に匹敵する速度で打ち出される攻撃を、それでも直樹はかわし続ける。

 真凛と異なり、奴には弾道を見切るなどと行った超人的な芸当は不可能だ。それでも奴が避けきれているのは奴自身の戦闘能力と、それなりに培った戦闘経験によるところが大きい。だが、それにも限度がある。

「……ちぃっ!」

 肩口を貫かんと閃いた薬指の一撃は、かわしきれるものではなかった。咄嗟にコートの裾をはねあげ、捌くようにその軌道を逸らす。胸板をすれすれにかすめていく薬指。危機が一転して好機となる。逃すものかとそのままコートの布地を巻きつけ、自由を奪い引き抜いた。力が拮抗したのは一瞬。

「何と!?」

 『蛭』が驚愕するのも無理は無い。直樹は奴の指を掴んだ左腕一本だけで、成人男性としても大柄の部類に入るはずの『蛭』の体を引っこ抜き宙に舞わせたのだ。体勢を崩したのを見逃すはずも無い。間髪居れず、こちらに飛んでくる『蛭』に向けてパンチを繰り出す直樹。だが。

「ぐうっ……」

 交差の後、吹き飛んだのは直樹の方だった。路地のゴミを舞い上げ、剥き出しの鉄骨にたたき付けられる。

「……ふん、そんなところからも出せるとはな。大した大道芸だ」
「困りますねえ。物価高のこの国では靴を調達するのも大変だと言うのに」

 それは、あまり正視したくない光景だった。『蛭』の右の革靴が破れ、さらに中から一メートル余りも延びた五本の足指が、獲物を狙う海洋生物のようにゆらゆらと直立して蠢いている。片や直樹はといえば、その新たな五指に貫かれたのであろう、腹部に幾つかの穴が穿たれ、そこから血を流していた。

「ふふ。貴方の能力は『怪力』でしょうかね。いずれにしてもその貫通創ではまともに戦えますまい」
 直樹は興味なさげに己の腹に開いた穴をみやる。それほどの負傷を追い、かつ今まであれほどの激闘を演じていたと言うのに、その額には汗一つ浮いていない。一つ小鼻を鳴らすと、インバネスのコートのボタンを外し、懐に左手を突っ込む。

「そろそろ本気で行くぞ」

 そんなコメントともに、ぞろり、とコートから何かを抜き出した。

「!?」

 『蛭』の表情が変わる。直樹がコートの中から抜き出したのは、サーベル。

 月明かりをその白刃に反射して冴え冴えと輝く、抜き身の一本の騎兵刀だった。その長さ、その大きさ。明らかにコートの中に隠しおおせるものではない。鞘も無く、剥き出しの刀身から柄まで銀一色の片手剣を、奇術師よろしく抜いた左手に構える。右手はコートの袖の中に隠したまま。先ほどの怪力に斬撃の威力が加わればどうなるか。直樹が間合いを詰める。『蛭』は咄嗟に後退。そのまま右の五指で直樹の心臓を貫きに掛かる。

 ――ずんばらりん。

 安易に擬音で表現すればそんなところか。高速で振るわれた騎兵刀の一閃は、肉をも貫く鋼の指を、五本まとめて両断していた。怯む『蛭』。追う直樹。『蛭』の左の革靴が爆ぜ、新たな五指が走る。しかし二度目の奇手は直樹には通じない。

 余裕を持って回避、なおかつロングコートの裾をその一指に絡める暇さえあった。捕らえられ、刀で断たれる指。しかし、それは囮に過ぎなかった。『蛭』はその一指を犠牲にして跳躍。仮組の鉄骨にその指を巻きつけ、あっという間に上へ上へと登ってゆく。たちまちその姿は月の隠れた夜の闇に隠れて見えなくなった。

「ふん。卑劣な振る舞いが身上の秘密警察崩れか。逃げの一手は常套手段よな」

 直樹の痛罵が届いたか、闇の向こうから『蛭』の声がする。

「おや。貴方のようなお若い方とは前職の時にはそれほど関わり合いになったことはございませんが」

 余裕を装っているが、自慢の両手両足の二十指のうち、六指を使い物にならなくされているのだ。指に痛覚が通っているのかどうかはわからないが、ダメージが無いとは思えない。とはいえそれも、腹に大穴が開いている直樹に比べればさしたる事は無いはずなのだが。

「ごく一般的な心情だ。人の庭先で詰まらぬ真似をされれば懲らしめてやりたくもなる」
「はて。東欧にお住まいでしたかな?」

 言葉はそこで途切れた。続けて上がる、無数の鈍い音。

「……!!」

 前後左右、そして上方から延びた十四本の『指』に、直樹が貫かれていた。
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