透明な世界でふたり

たけむら

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第3話

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「こんにちは」
翌日も、性懲りもせずに、白波瀬さんの病室へとやってきていた。

「これ、貝殻拾ってきました」

ベッドに備え付けのテーブルに、貝殻を置く。昨日の今日で俺が来ると思っていなかったのか、部屋に入っていく俺を、白波瀬さんはきょとんとした顔で見ている。しかし、貝殻を見た途端、その顔がほころんだ。

「これ、僕に? ありがとう」

そう言いながら、白いまるまるとした貝殻をひとつ手に乗せて、眺めている。

「貝殻、好きなんですか」
「うん、小さい頃に海の近くに住んでて、しょっちゅう砂浜で遊んでたから」
「そうなんですね」
「これ、どこで拾ったの?」
「そこの砂浜で…昨日たまたま行ったので」

昨日砂浜を見ているうちに、白波瀬さんを思い出した。白波瀬さんが砂浜に直接行くことは、すぐにはできないだろうけれど、貝殻の指ざわりで、少しでも海の匂いを思い出してもらえればいいと、勝手に願いを込めた。

「砂浜に遊びにいくこと、結構あるの?」
「はい。でも、特に何もしてなくて、海を眺めてるだけなんですけど」
「海好き?」
「ぼーっと眺めるのは好きです。なんか生き物みたいで」
「そうなんだ、それは結構好きってことだね」

話しながら、白波瀬さんは、大事なものに触るかのように貝殻の表面や内側を人差し指で撫でている。ほっそりとした白い指が、優しく貝殻を撫でていく。出会って間もないけれど、この穏やかな時間は、何だか泣きたくなるくらいに居心地が良かった。


「小さい頃はさ、海を眺められる仕事につきたいなって思ってたんだよね」
「そうなんですね」
「ずっと忘れてたんだけど、貝殻見てたら、小さい頃の夢を思い出しちゃった」
「…夢、ですか」
「高校生だと進路決める頃だっけ。決まってる?」
「…まだ、わかんなくて…早く決めなさいとは、言われているんですけど…」
「興味があることとかは、まだ分からない?」
「なかなか、難しくて…仕事にできるものが、ないというか…」
「じゃあ、なりたかったけど、諦めたことってある?」
「っ…」

それは、医師、だった。小さい頃、病気で亡くなった祖父を見て、医師に興味を抱くようになった。小学生の将来の夢では、自信満々に医師と書いていたし、もう将来の夢を持っているなんてすごい、と周りの大人から褒められて、その夢を持っていることを誇っていた。けれど、中学校に上がって、大学受験の偏差値を見て、周りの友達の話を聞いて、自分がいかに無謀な夢を掲げていたのか、気がついてしまった。小さな頃からの夢をビンの底に押し込めた。しかし、そう決めた心はあまりにも空っぽで、友達と遊んだり、ピアスを開けたりしたけれど、その穴は埋まらなかった。

今までぐちゃぐちゃだったピースがあるべきところへはまっていく。そうだ、自分は、本当は、人を救える医師の姿に憧れていたのだ、と不思議なほどしっくりと、胸に馴染んだ。

「白波瀬さん、こんにちは…って、あれ、面会中でしたか」

黙りこくった俺と、それを心配そうに見つめる海里さんとの部屋に、首に聴診器をかけた医師がやってきた。名札には、藤代、と書いてある。確か、白波瀬さんの手術を担当した人だった。

初めまして、と俺に話しかけながら、藤代先生がテーブルの上に広げられていた貝殻に目を止めた。

「わあ、貝殻ですね。君が持ってきてくれたの? 白波瀬さん、よかったですね」
「小さい頃、海辺に住んでたから、何だか懐かしい気持ちです」
「そうなんですね、どこら辺にお住みだったんですか?」
「うーん、どこだったでしょう…」

話しかけられた白波瀬さんが、曖昧に笑う。自分の小さい頃住んでいたところを忘れるなんてあり得ないから、もしかして、あまり聞かれたくないのかもしれない。

「白波瀬さんはお名前に『海』が入っていらっしゃるので、イメージ通りですね」

気まずくなって、黙ってしまった俺とは異なり、先生がすかさずフォローを入れた。

「そうですね、両親が海が好きだったので。その影響もあるかもしれません」
「なるほど」

両親、という言葉を白波瀬さんが口にしたとき、少しだけ、表情に陰りが出たような気がした。先ほど曖昧に笑った時とも若干異なる、わずかな顔の強ばり。色々と考えそうになったけれど、自分の眼だけを手がかりに、あれこれと考えるのは、やめることにした。いくら連日会っているからといって、白波瀬さんの骨折が治って、退院すれば、彼との縁はこれきりだ。いや、退院よりも前に、俺がここにくるのをやめてしまえば、お見舞いを拒否されたら、白波瀬さんと会うことはもう無いだろう。この関係がいかに不確かで、あやふやで、指で触れたら弾けてしまう、シャボン玉のようなものなのかと痛感する。手を伸ばしたら届きそうなほど近くにいるのに、白波瀬さんは、やっぱり遠い気がした。

目の前で言葉を交わす白波瀬さんと藤代先生は、そんな遠さを感じさせない。きっと白波瀬さんにとって、ただの傍観者だった自分とは異なり、藤代先生はいつまでも恩人として記憶に刻まれるのだろう。それに、重傷を負った人を助けることができるなんて、やっぱり医師はすごいな、と憧れてしまう。小さな頃の自分も、祖父を助ける医師の姿を見て、将来の夢を決めたのだ。補習にすら引っかかってしまう自分には、到底届かない夢だろうけれど、今まで何を見てもしっくりとこなかった自分の心が、こんなにも動かされているのは、もう答えが出ているような気がして、少しだけ、悔しかった。
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