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第6話
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補習が再開してからも、なかなか白波瀬さんのお見舞いに行くことは、できなかった。一度間が空いてしまうと、戻ることはなかなか難しい。夏休みのプールだって、1日行かなくなってしまうと、次の日に行く自分の足が重くなって、それが積み重なって、プールの水飛沫が遠くなる。
はあ、と夕方の砂浜で一人でため息をつく。裸足で砂浜を歩いていると、一日中靴に閉じ込められていた足が息を吹き返したようだった。
白波瀬さんも、小さな頃に、こんな風に海を眺めていたのだろうか。どんな海だったんだろうか。何を、考えていたのだろうか。
会わなくなってからも、ふと白波瀬さんのことが心に浮かび上がってくる。夏休み明けの試験、夏休みの宿題、明日の補習、アイスクリーム、海、進路のこと。考えなければいけないこと、心を動かすことは、他にもたくさんあるはずなのに、ふとした隙間に、白波瀬さんのことが浮かび上がってくる。
大きく息を吸い込むと、もったりと分厚くて、まだ温度の高い空気が鼻に入り込んできた。
「あれ、飯野さん?」
聞こえた声に振り向くと、少し遠くで、こちらに手を振っている人がいた。黒色の半袖に、7分丈の太めのジーンズを履いている。見覚えのない人に、頭の中で必死に記憶をたぐり寄せている間にも、その人はどんどん近づいてきた。
「久しぶり、いやー暑いね」
「…あっ、藤代先生、ですか」
「え、忘れちゃったの? 泣いちゃうんだけど」
「いえ…」
白衣姿とかなりイメージが違っていたから、一瞬分からなかったけれど、近づいてよく顔を見てみると、藤代先生だった。私服姿だと、しっかりとした体格がよりはっきりとわかる気がする。
「勉強頑張ってる?」
「まあ、なんとか…」
最近やっと上向きになってきた学力も、白波瀬さんのお見舞いに行かなくなったあの日から、少しずつ身が入らなくなってしまっているけれど、そんなことを伝える必要もないだろう。
「進路のことさ、いつでも相談してよ。俺結構待ってたんだよ? 飯野さんから連絡くるの」
「…そう、なんですね」
「ひどいわ、本当に。俺みたいなイケメンを放っておいてさ、悪いひと」
「っふはっ…なんですか、それ」
思わず笑ってしまった自分に釣られるようにして、藤代先生も笑い出す。ひとしきり笑った後に、藤代先生が目を擦りながらリュックを背負いなおした。
「じゃあ俺、行くね。またね」
「はい、さようなら」
そういうと、藤代先生は背中を向けて、去っていく。まだ緩んでいる頬を、少し温度の下がった海風が気まぐれに撫でていった。
翌日、補習の後に足が向かった先は、白波瀬さんの病室だった。今日、担任にも進路を伝えられたということを、藤代先生に伝えようと思ったのだ。白波瀬さんに会えるのではないか、という期待が全くなかったわけではないけれど、嫌な思いをさせてまで報告することの程ではない。
エレベーターの中で息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。こんな時でもいつも通りの調子で、機械音声が目的の階に到着したことを告げた。
エレベーターホールから右に曲がれば自動ドアだ。緊張で指先が冷えていくのを感じながら、エレベーターホールをゆっくりと進む。自動ドアに辿り着くまでに、どうか誰にも会いませんように、と情けなく願いながら右に曲がる。
「あれ、飯野さん?」
かけられた声にはっと顔を上げると、そこには自動ドアからまさに出てこようとする藤代先生の姿があった。目当ての人に会えた嬉しさと、自分がここにいてもいいのだ、という免罪符をもらったような気がして、緊張が和らぐ。
「こんにちは」
「こんな暑い時にどうしたの?」
それは、と言いかけると、自動ドアの向こうに、車椅子に乗った白波瀬さんの姿が見えた。どうすればいいだろう、となぜかこわばる自分をよそに、白波瀬さんはこちらに顔を向ける。
「あれ、藤代先生、どうしたんですか」
「あっ、いえ、お昼を買いに行こうかな、と」
そうなんですね、と白波瀬さんは言っているのだろう。自動ドアは、自分を残して閉じてしまい、後ろを振り返った藤代先生と白波瀬さんが話している姿をガラス越しに眺めることしかできない。
白波瀬さんに気がついて欲しい、気がついて欲しくない。何を話せばいいかわからない、話しかけてほしい。
矛盾する感情が体の中を巡り、体の表面がじっとりと汗ばんでいく。動けないまましばらく時間が経ち、藤代先生がガラスの向こうでお辞儀をした。どうやら会話が終わったのだろう。藤代先生を見上げていた白波瀬さんの目線がガラス扉に映り、その瞬間に視線が交わる。
咄嗟に目を逸らしてしまった自分の耳に、自動ドアが開いた音が聞こえた。
「それじゃあ、失礼します」
「売店、混まないといいですね」
エアコンで冷やされた空気とともに、懐かしい病棟の匂いと、久しぶりに聞く白波瀬さんの声がした。しかし、白波瀬さんの声はそれきりで、自動ドアは無情にも閉まってしまう。藤代先生が近づいてくる気配がするけれど、固まったまま、動くことができなかった。
「飯野さんさあ、アイス、食べる?」
何も言えなくなった自分を連れて、藤代先生が1階の売店でアイスを買ってくれた。そのまま中庭に出ると、ベンチに座るように促される。
「はい、これ」
「…ありがとうございます」
「それで? 今日はどうしたの?」
ベンチの背もたれに腕を乗せて、藤代先生が笑顔でこちらを見ていた。
「いえ、大したことじゃ、ないんですけど…進路のこと、やっと担任の先生に伝えられたので」
「それはめでたいね」
そう言いながら、藤代先生は背もたれに体を持たせかけなおして、空を見上げながらソーダ味のアイスの袋を開けた。
「あのさ、白波瀬さんのことなんだけどね」
「…っ」
「飯野さんがいない間に、実は頭に血液が溜まってることがわかってさ、軽い認知症みたいな状態になってたんだよ」
「…そう、なんですね」
「先週手術して、今は治ってるみたいなんだけど、最初は俺のことも忘れちゃってたみたいでさ…この間こっちの病棟に戻ってきたところなんだよ」
「忘れ、てる…」
「さっきもさ、飯野さんに声をかけなかったのは、わざとじゃないと思うんだ。事故のせいで、多分飯野さんのことを忘れちゃっているんだと思う」
内容に似つかわしくない軽い調子の声を出した後、藤代先生はアイスをかじり、おいしい、と独り言のようにつぶやいた。
「白波瀬さんがさ、事故にあった直後に、飯野さんに何か聞かれたら、自分の病状のことも話していい、って言ってくれててさ。本当は事前にちゃんと伝えとくべきだったかもしれない」
だから、ごめんね、と再び藤代先生が顔をこちらに向けてくる。一口だけ齧った自分の分のアイスが、暑さに緩んで、地面へと滑り落ちた。
はあ、と夕方の砂浜で一人でため息をつく。裸足で砂浜を歩いていると、一日中靴に閉じ込められていた足が息を吹き返したようだった。
白波瀬さんも、小さな頃に、こんな風に海を眺めていたのだろうか。どんな海だったんだろうか。何を、考えていたのだろうか。
会わなくなってからも、ふと白波瀬さんのことが心に浮かび上がってくる。夏休み明けの試験、夏休みの宿題、明日の補習、アイスクリーム、海、進路のこと。考えなければいけないこと、心を動かすことは、他にもたくさんあるはずなのに、ふとした隙間に、白波瀬さんのことが浮かび上がってくる。
大きく息を吸い込むと、もったりと分厚くて、まだ温度の高い空気が鼻に入り込んできた。
「あれ、飯野さん?」
聞こえた声に振り向くと、少し遠くで、こちらに手を振っている人がいた。黒色の半袖に、7分丈の太めのジーンズを履いている。見覚えのない人に、頭の中で必死に記憶をたぐり寄せている間にも、その人はどんどん近づいてきた。
「久しぶり、いやー暑いね」
「…あっ、藤代先生、ですか」
「え、忘れちゃったの? 泣いちゃうんだけど」
「いえ…」
白衣姿とかなりイメージが違っていたから、一瞬分からなかったけれど、近づいてよく顔を見てみると、藤代先生だった。私服姿だと、しっかりとした体格がよりはっきりとわかる気がする。
「勉強頑張ってる?」
「まあ、なんとか…」
最近やっと上向きになってきた学力も、白波瀬さんのお見舞いに行かなくなったあの日から、少しずつ身が入らなくなってしまっているけれど、そんなことを伝える必要もないだろう。
「進路のことさ、いつでも相談してよ。俺結構待ってたんだよ? 飯野さんから連絡くるの」
「…そう、なんですね」
「ひどいわ、本当に。俺みたいなイケメンを放っておいてさ、悪いひと」
「っふはっ…なんですか、それ」
思わず笑ってしまった自分に釣られるようにして、藤代先生も笑い出す。ひとしきり笑った後に、藤代先生が目を擦りながらリュックを背負いなおした。
「じゃあ俺、行くね。またね」
「はい、さようなら」
そういうと、藤代先生は背中を向けて、去っていく。まだ緩んでいる頬を、少し温度の下がった海風が気まぐれに撫でていった。
翌日、補習の後に足が向かった先は、白波瀬さんの病室だった。今日、担任にも進路を伝えられたということを、藤代先生に伝えようと思ったのだ。白波瀬さんに会えるのではないか、という期待が全くなかったわけではないけれど、嫌な思いをさせてまで報告することの程ではない。
エレベーターの中で息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。こんな時でもいつも通りの調子で、機械音声が目的の階に到着したことを告げた。
エレベーターホールから右に曲がれば自動ドアだ。緊張で指先が冷えていくのを感じながら、エレベーターホールをゆっくりと進む。自動ドアに辿り着くまでに、どうか誰にも会いませんように、と情けなく願いながら右に曲がる。
「あれ、飯野さん?」
かけられた声にはっと顔を上げると、そこには自動ドアからまさに出てこようとする藤代先生の姿があった。目当ての人に会えた嬉しさと、自分がここにいてもいいのだ、という免罪符をもらったような気がして、緊張が和らぐ。
「こんにちは」
「こんな暑い時にどうしたの?」
それは、と言いかけると、自動ドアの向こうに、車椅子に乗った白波瀬さんの姿が見えた。どうすればいいだろう、となぜかこわばる自分をよそに、白波瀬さんはこちらに顔を向ける。
「あれ、藤代先生、どうしたんですか」
「あっ、いえ、お昼を買いに行こうかな、と」
そうなんですね、と白波瀬さんは言っているのだろう。自動ドアは、自分を残して閉じてしまい、後ろを振り返った藤代先生と白波瀬さんが話している姿をガラス越しに眺めることしかできない。
白波瀬さんに気がついて欲しい、気がついて欲しくない。何を話せばいいかわからない、話しかけてほしい。
矛盾する感情が体の中を巡り、体の表面がじっとりと汗ばんでいく。動けないまましばらく時間が経ち、藤代先生がガラスの向こうでお辞儀をした。どうやら会話が終わったのだろう。藤代先生を見上げていた白波瀬さんの目線がガラス扉に映り、その瞬間に視線が交わる。
咄嗟に目を逸らしてしまった自分の耳に、自動ドアが開いた音が聞こえた。
「それじゃあ、失礼します」
「売店、混まないといいですね」
エアコンで冷やされた空気とともに、懐かしい病棟の匂いと、久しぶりに聞く白波瀬さんの声がした。しかし、白波瀬さんの声はそれきりで、自動ドアは無情にも閉まってしまう。藤代先生が近づいてくる気配がするけれど、固まったまま、動くことができなかった。
「飯野さんさあ、アイス、食べる?」
何も言えなくなった自分を連れて、藤代先生が1階の売店でアイスを買ってくれた。そのまま中庭に出ると、ベンチに座るように促される。
「はい、これ」
「…ありがとうございます」
「それで? 今日はどうしたの?」
ベンチの背もたれに腕を乗せて、藤代先生が笑顔でこちらを見ていた。
「いえ、大したことじゃ、ないんですけど…進路のこと、やっと担任の先生に伝えられたので」
「それはめでたいね」
そう言いながら、藤代先生は背もたれに体を持たせかけなおして、空を見上げながらソーダ味のアイスの袋を開けた。
「あのさ、白波瀬さんのことなんだけどね」
「…っ」
「飯野さんがいない間に、実は頭に血液が溜まってることがわかってさ、軽い認知症みたいな状態になってたんだよ」
「…そう、なんですね」
「先週手術して、今は治ってるみたいなんだけど、最初は俺のことも忘れちゃってたみたいでさ…この間こっちの病棟に戻ってきたところなんだよ」
「忘れ、てる…」
「さっきもさ、飯野さんに声をかけなかったのは、わざとじゃないと思うんだ。事故のせいで、多分飯野さんのことを忘れちゃっているんだと思う」
内容に似つかわしくない軽い調子の声を出した後、藤代先生はアイスをかじり、おいしい、と独り言のようにつぶやいた。
「白波瀬さんがさ、事故にあった直後に、飯野さんに何か聞かれたら、自分の病状のことも話していい、って言ってくれててさ。本当は事前にちゃんと伝えとくべきだったかもしれない」
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