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第四章 ‐ 裏切者は誰だ ‐

036話「まだそこに在る者のために」

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第36話「まだそこに在る者のために」


 三人からすれば、全てが終わり死に体の学校に今頃になって群がってゆくパトカーや白バイたちの事はハゲタカか何かのようにも思えたが、警視庁の包囲網を抜けて遠ざかると、いつしかそういう気持ちよりは、早く休める場所に帰ってくつろぎたいという気持ちの方が一同強くなってくる。

 レモンスカッシュ色の軽自動車が信号を律儀に待っていると、また救急車のサイレン音が聴こえた。それが高雅高校に向かうものなのか、それとも単に別の急患のもとへ向かうのか判断する事は出来なかったが、雲母キララはその音を耳障りに感じたのか、無意識にラジオのスイッチをオンに入れた。

「あっ、ごめんなさい、つい手が勝手に……」
 44.4メガヘルツ、ラジオ局「FMハンムラビ」のいつものテーマソングが流れだすと、雲母は自分の手癖を詫びて、すぐにラジオのスイッチを切った。

「いやいいよ、もう危険域は抜けた。かけてくれないかな」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
 叱られるかと思ったものの、晴れて赦しを得た雲母が青信号の点灯と同時にラジオのスイッチを入れなおし、アクセルを踏んだ。


『時刻は17時を過ぎています。FMハンムラビ、44.4メガヘルツ。みなとみらいのスタジオから浅川 ケイと……』
『ハァーイ、エブリバディ! みんな元気かな!? ジメジメした日が続いてるけど、心は晴れやかで居てね! やなぎ ソフィアがお送りします』

 それは都内全域にまで届く横浜からのラジオ放送で、パーソナリティは”いつもの”人気女性パーソナリティの二人だ。仲の良いのか悪いのかわからない二人の毒の入ったやり取りがリスナーに好評で番組の人気を支えている。

「道、ちょっと混んでますね」
「無理もない、警察と救急が駆けまわってるだろうからな」
 少し車を動かすと、車が再び信号に捕まった。信号自体はすぐに青に戻るものの、前方の車は動きが鈍く、道路の詰まりを感じさせた。車内はラジオリスナーからのリクエストで「City Escape」が流れていたが、この道路の具合ではややミスマッチな選曲だった。

「事故もあるかもしれません」
 車が信号を通り抜ける時、レインコートを羽織り、誘導灯を光らせて交通指示を行う警察官の姿が見えた。この辺りで交通事故でもあったのかもしれない、それが今回の一件に関係するのかしないのか、因果関係はわからないが……。

「きららちゃん、近くに「エル・キホーテ」があるけどどうする」
 そんな思考を遮るように望見座モミザが後ろから声をかけると、雲母が言った。

「先生、道路がこれなんで、多少寄り道をしても?」
「エル・キホーテだな、替えの衣服があると助かる。寄って欲しい」
「何でもいいですか」
「ジャージでも何でも良い。着ぐるみでなければ」
「ちぇっ……。カピチュウの着ぐるみ着せようと思ったのに」
 思考を見抜かれたモミザがとても残念そうに言うのだった。


 ◆


「……はい、はい。こちらは問題ありません、少し道が混んでいるので、尾行を警戒しながら戻ります。はい、助かります。では詳しい事はまた支部で……はい、では……」
 後部座席で通話をしていた無間が丁度、簡素な連絡を終えて電話を切った所だった。

「どうです?」と運転席の雲母が尋ねると「問題ない」と無間の二つ返事が返って来る。

 レモンスカッシュ色のスバル「プレオ・プラス」は今、全国展開のディスカウントストア「エル・キホーテ」の駐車場でドライバーと共に一息ついている所だった。

「銀蘭と顕教の脱出も順調だと、月照師範が」
「良かった」
 そう返事する雲母は霧のような雨にさえ負けず、サイドガラスを全開にして外国煙草の「アークロイヤル」を運転席でふかしている。その中でもストロベリーにスパークリングワインの香りを加えたユニークなティーフレーバーの煙草を彼女は好んでいた。

「ごめんなさい、吸わせて貰っちゃって」
 雲母が喫煙を詫びた。
「別にいいさ、一本ぐらい」
「無間先生は……確かお吸いにならないんでしたっけ」
「ああ、僕は吸わない」
 それを聞いて「ごめんなさいね」と再び詫び、「別にいいさ」と同じやり取りが繰り返される。

望見座のぞみちゃんといる時に吸うと、彼女すっごい怒るから中々吸えなくて……」
「仲が良いな」
 ルームミラーに映った無間の口元は、微かにであるが微笑んだように見えた。

「楽しい子ですよ、頼りになりますしね」
「僕が直接鍛えたからな」
「そうでしたね。ごめんなさい、後一本だけ……」
 一本吸い終えた雲母が、口惜しそうにアークロイヤルをもう一本取り出した。モミザは二人の代わりに買い出しに行っておりまだ戻って来ない。

「急に来るのも大変だったろう、好きにするといい」
「すみません、ではお言葉に甘えて……」

 車内灰皿の上で軽く葉を落とした雲母がもう一本に点火し、甘いフレーバーを満喫する。最初の煙を窓の外に向かって吐くと、彼女はこう切り出した。

「びっくりしましたよ。非常招集なんて。私なんかそういうの、滅多にないですからね」
「そうかい? 僕の頃は散々こき使われたよ。――――ところで、銀蘭や顕教の所には、別の奴が行ってると聞いたが」
「ええ、そうです」
「誰が行ったか知ってるかい?」

 尋ねると、雲母はこう答える。
「途中、門倉先生と、日比谷の四葉さんにお会いしました」
「二人とも本業があるのに……悪いなあ」
 そういうと、雲母はちょっとだけ渋い顔して、アークロイヤルの甘い香り漂う煙草から口を少しだけ離す。
「私達だって本業ありますよお……」
「それは悪かった」
「まあ、私は飲食で、のぞみちゃんは在宅だから良いんですけど……。まあ、あのお二方は超強いんで、私達二人なんかは足手まといですね。敵、秒殺してましたよ……」

「君たちだって大分強くなった」
「ありがとうございます。でも指導者クラスの人達と比べたらまだまだですね……」
 雲母が煙を吐いて苦笑する。
「門倉先生は顕教さんの方に、四葉さんは銀蘭さんの方に行ったみたいですね」
「彼らなら安心だな」
 無間は内心安堵した。二人とも相当な組織の実力者で、当然の如く段位は表五段以上、即ち指導者資格を有する事を意味している。並の有段者が5~6人束で護衛につくよりもよっぽど安心できる人材だった。

「そういうわけです。なので余り者の私達はこっちに送られました」
「とんでもない、お陰で助かった。迎えのあったお陰でとても楽させて貰っている。――――おっと、雲母さん、望見座が帰ってきたぞ」
「いっけない、すぐ消そ」

 無間が買い物袋を手に店を出て来るモミザの姿を見掛け、知らされた雲母はまだ半ばほど残っているにも関わらず、煙草を車内灰皿に押し込んで、その蓋を強引に閉じた。

「先生、お待たせしました~。ジャージ、買ってきましたよ~」
 ニコニコ上機嫌で帰ってきたモミザが車内ドアを開けるが、車内の匂いをくんくんと嗅ぐと、その表情を曇らせて不機嫌となった。

「きららちゃん、煙草吸ってた?」
「吸ってない」
「吸ってたよね」
「吸ってない」
「吸った」
「車の前の持ち主だと思う」
 押し問答の中で、雲母がすっとぼける。

「このニオイ、アークロイヤルのベリー・ロゼ・ティー。これはきららちゃんしか吸わないし、無間先生も煙草吸わない」
「も~、なんで銘柄までわかんのよ……」
 バカじゃないの。と、暴力的な論破を前にして雲母がうなだれた。

「やっぱり吸ってたじゃん。身体に悪いからだめって言ってるでしょ」
 無間は二人の口論を「仲が良いな」と腕組みし見守っている。月照や銀蘭なら、既に噴き出していた事だろう。
「一本だけです~~~! もう消しました~~~! ほらあ! 着替え、先生に渡してあげて」
「もー……。そうそう、これです。こんなんでいいですか?」
 已む無く口論を切りあげたモミザが、買い物袋の中から黒い上下のフード付きジャージを出して手渡した。無間はそれを一瞥して頷く。血の目立たない色、不足は見当たらなかった。

「バッチリだ、ありがとう。ハサミか何か、あるかな」
「これ、使ってください」
 ハサミは生憎無かったが、雲母はダッシュボードの中からコールドスチール社の折り畳みフォールディングナイフを出して渡した。
「借りる」
 受け取った無間は慣れた手つきでナイフを展開させると値札のついたタグを外し、血まみれの清掃ズボンを脱いだ状態で車外に出ると、素早くジャージに着替える。雲母は一緒に買って来たウェットティッシュで車内シートの血痕を拭き取り、ズボンと一緒に買い物袋の中に放り込んだ。

 彼はあっという間に上下黒のジャージを着て、エル・キホーテ購買層によくある格好の民間人の姿となった。こういう格好の客はエル・キホーテにはよく来るもので、あとは髪を明るく染めて、シルバーアクセサリーを首につけて、似たような女を連れて入店すると更に丁度良かっただろう。

「ありがとう。費用は月照先生に突き付けといてくれ」
「勿論そうします」
「はい、それと差し入れです」

 無間が車内に戻るなり、モミザはよく冷えた缶ジュースを彼の頬に押し当てた。無間がそれを手に取って確認するが製品名は「ほろよいカクテルパートナー ソルティドッグ」……よく見なくてもジュースではない、酒だ。ご丁寧にアルコール分3%を示す表記もある。

「酒じゃないか……」
「先生お疲れでしょ、殺人しごと上がりにはまず一杯どうぞ」
「まったく……時間かかってると思ったら、そんなの買って来たの?」
「3%はお酒の内に入らないからヘーキですよ」
「どんな理屈だか……」

 雲母はすっかり呆れ返った様子で、それをよそにモミザは酒のつまみになる、イカピーやカニピーなどの詰まった海鮮ピーナッツの詰め合わせまで買ってきていて、得意気に無間に見せびらかす。いずれも彼の好みを知ってのチョイスで、無間も「仕方がないな」と口ではいいつつも、それほどまんざらではないようだった。

「せっかくだ、貰おうか」
「じゃあ私も、これ飲みます」
 モミザも同じ缶カクテルの「マンゴーオレンジ味」を自分用に買ってきていて、そのプルタブを早くも開いた。

「私は?」
「きららちゃんは運転するからダメ、酒気帯びはマズイでしょ」
「望ちゃん、こういう時全うな事言うよね……」
「すねないすねない、代わりにちゃーんと、これありますから」
 そう言ってモミザは雲母の分の缶を手渡した。彼女の受け取ったのは一見スパークリングワインのようで……実際の所、アルコール含有0%の完全なジュースだった。

「乾杯とかします?」
「乾杯? ううむ……」
「望、それは空気読めてない」
 雲母はやや声を低くしてモミザを咎めた。この中で一人、地獄の最前線ど真ん中で孤軍奮闘していた彼の心中、目にしたであろう、体験したであろうものを想像すると、ここで一つ自分が彼女にブレーキをかけねばならないと感じたのだ。

「うっ……ごめんなさい、ちょっと、調子乗りすぎました……」
 モミザも、雲母がブレーキをかけた事と、自分のそれが失言だった事にすぐ気づいてみるみる萎縮した。自分がひどくがさつで無神経だったような気がして、モミザは自分自身がとても恥ずかしくなった。

「いや、平気だ。それより、やっぱり乾杯しよう」
 無間はそうした事すら気にしなくていいと言った風で、何を思ったか自分から乾杯を提案しなおした。

「えっと……何に乾杯しますか?」
 モミザがおそるおそる尋ねると、彼は「そうだな……」と少しの思案の後、言葉がまとまるとスチール缶のプルタブを開いた。それを見て女性二人も彼の乾杯に合わせようとする。

 何かを祝うには、その日はあまりに後ろ暗い事が多すぎた。それでもせめて、一人の立派で勇敢だった人間の行いと、この激しい一日を無事生き延びた命がここに在る事のために、このたった一本100円程度の酒が必要に感じたのだった。



「一人の老人が命と引き換えに守った未来と、我々三人と護衛対象、そして影の仲間たちが今日も一日生き永らえた事に……」
「「乾杯!」」
「乾杯」
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