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第五章 ‐ いつか星の海で ‐

054話「The World Ends With You」

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第54話「The World Ends With You」


 まだ憶えているとも、忘れたいと思ったわけでもない。


 あれは父親にひどく殴られた翌日のある朝だ。

「いつも辛い思いをさせてごめんなさい。これを、あなたの使いたいように使いなさい」
 そう言って、母は父にとっての端金を、僕にとっては大金を差し出した。

 あの頃の僕にとって福沢諭吉なんて見た事もない大金で、今僕が当たり前に使っているブラックカードよりも、ずっと凄かった。



 欲しかったゲームを二つは買う事が出来ただろう。買えなくてクラスの会話に入れなかったコマブレードと車のオモチャを揃える事も出来たろう。


 でも僕は迷わなかった。土曜日の朝一番に僕が目指したのはあの赤い屋根に、白い壁の、幼馴染の「ナツミちゃん」が住む……あの家だった。自分の家よりもずっと……かつての僕の、一番好きな場所だった。

 あの日、僕は、生まれて初めて女の子をデートに誘った。



 ――――ずっと死ねる場所を探していて、たまたま、今日まで死に損なった。

 あれからどれだけ死線を潜ってきたかわからない。僕は一体何本の刃物と向かい合ったのだろう、何発の9ミリパラベラムを避けたのだろう、そして何発避けそこなったのだろう。

 7.62ミリのライフル弾をぶち込まれたあの時、ボディーアーマーに当たって、射角も浅かったから何とか死なずに済んだ。即席爆弾に巻き込まれかけて間一髪、ただ「運が良かった」というだけで生き残って、近くに居た別の奴は死んだ。
 そういう、くたばりかけた経験は一度や二度じゃない。



 けれど、あの日が一番ドキドキして、緊張したよ。



 インターホンを押すと、ナツミちゃんは驚いた顔で母親に相談しにいって……戻ってきた時、彼女は笑顔で「いいよ」と言ってくれた。

 まだ小学生だった僕には、カワサキのバイクも、新車のレガシィも動かせなかった。今みたいに「射撃練習をしたい」と一言呟くと、頼んでもいなかったのに噂を聞きつけた在日米軍が将官の署名つきでグアム行きのファーストクラスの航空券を送ってくれる――――そういう特別な身分でもなかった。

 だから自転車と、居心地の大してよくない電車、それと二本の足だけが僕らが世界の果てを目指す道具のすべてだったんだ。

 あの日、僕らは二人で海を目指した。


 どうしてかって?
 ――――そんなもの、今日は海を見てみたい気分だったからに決まってるじゃないか。


 僕らは大人の同伴を必要とせず、内緒で横浜まで出かけた。一緒に海を見て、背伸びしてレストランで一枚のピザを一緒に食べた。

 それから僕らは、動きもしない帆船日本丸に乗り込んで、動かない海を眺めながら甲板でディカプリオとケイト・ウィンスレットの真似事をして遊んだ。

 84年の航海を最後に動く事の無くなった日本丸の船上で、僕らは勝手に世界一周の豪華クルーズをしている気分になって、まだ見た事もない、とても遠くて、それでいてとても広い世界の事を想像した。

 上海、高雄、パラオ、ハワイ、サイパン、サンフランシスコ……。
 頭の中にはアメリカの光り輝く摩天楼や、中国語の看板が立ち並ぶ上海の雑多な街並み、透き通った海を泳ぐイルカたちや、ハワイの美しい海や食べ物のイメージが次々に浮かんだ。

 僕らは見た事もない世界の事を一緒に想像し、共に空想の世界一周の旅に出て、あの子と一緒にその空想を共有した。

 世界で二人だけの、世界に一つしかない、世界一周の思い出を作った。



 それから、一緒に中華街に行ってかき氷を食べて、瓶コーラを飲んで、アジアンショップを次々に冷やかして、その後は一緒に映画を観て……。
 映画館を出て、傾く太陽の光を見た時、いつしか楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった事に僕たちは気が付いて――――










 ――――さん?
 自分を呼ぶようなカスミの声に、清壱が反応して振り返る。抹茶ラテを飲み終えた三人は、赤レンガ倉庫内のショッピングエリアを観て回っていた。

「何を見てるんですか?」

 カスミが清壱の虚ろな瞳を覗き込んだ後、彼がさきほどまで見つめていたであろう物に視線を向けた。
 ガラス細工で出来た帆船の模型がショウケースに飾られていて、動かない紙の海の上に留まり続けている。帆船の甲板に載ったカスミの小指ほどの大きさの人形の男女は、これからもずっと永遠の刻の中に存在し、共に在り続けるのだろう。

「へえー……可愛い」
「行こうか、草薙さんが次に行きたがってそうだ」

 もうしばらくこれを眺めていても良かったが、翔子が次のお店を見たがっている事に気が付いて清壱はカスミの肩を叩く。清壱は最後にもう一度だけショーケースを振り返って、すぐにその視線を外した。



「筒井さんって……そんなに有名なんですか?」
 カスミが突如として尋ねたのは、次の店で女性もののハンカチであるとか動物のキーホルダーであるとかを女子二人で物色している時の事だった。

「別に、コカコーラのレシピの方が有名じゃないかな」
 と、謙虚なジョーク混じりに答えてみせるが、翔子はそっとカスミの耳に手を当ててこう囁くのだ。
「嘘ですよ、――――とか、――――の人に指導もした人なんですから」
 

「えー? 本当なんですか?」
「さあ……僕の口からは何も申し上げられない」
「マジっすよ」
 通りすがりの男性客――――を装った安斎が独り言のように呟くと、音も無くその場から歩み去ってゆく。カスミが驚いて振り返るが彼の姿はもうどこにも居ない、まるでニンジャのようだ。……清壱はその場でかぶりを振っていた。

 結局二人の少女が購入したのはハンカチとキーホルダー、それとペンギンの可愛いマグカップだ。清壱自身は何も買わずブラックカードで淡々と一括払いを済ませると荷物持ちを引き受ける。

『こちら顕教ニニギ1、異常無し』『こちら銀蘭ワカウカ2、同じく異常無しです』
 インカムに入って来る二人の報告に異常は無い。そもそも横浜まで出て来た理由が、リーヴァーズの活動が最も活発な都内から離れ、彼らの目の遠い所でカスミを遊ばせてやる事にある。幸いにしてリーヴァーズの団体と出くわす気配は無い、清壱もインカムに向かって一言「エンマ0、異常なし。順調」と答える。


 若い少女たちの好奇心は尽きる事を知らないようで、次のテナントから次のテナントへ渡り歩いて行く。

「筒井さん、置いてっちゃいますよ!」
「ああ、ごめん……、待ってくれ」
 筒井は困ったような笑顔を造ると、手招きするカスミの方へと向かう。学校で助け出して以来、こんなに元気な彼女を見るのは初めての事だ。この外出で彼女が元気を取り戻してくれているのならば、きっと銀蘭もよく喜んでくれるだろう。


 ――――ほらイチくん、置いてっちゃうよ。

 遥か遠くのあの暑い日、自分の手を引いて先に進もうとする幼馴染の少女の姿が脳裏に浮かぶ。中華街で彼女を一瞬見失いそうになった自分が、次に言った言葉も覚えている。「待ってよナツミちゃん、はぐれたら大変だよ」。
 あの日、どうしてあの子はあんなに急いで自分を連れて行こうとしたのだろう。好奇心のためだろうか、走り続ければ、沈む太陽にだって追いつかれないと、あの頃は考えていたのだろうか。

 でも


 考えても無駄だ。だって、答えを教えてくれる人は、もうどこにも居ない…………。




 エスカレーターを上がり、最上階の端のテナントまで踏破し終えた彼女らはひとまず満足したようで、購入したトートバッグに早速荷物を詰めて清壱に持たせている。片方のバッグには”黒猫テコンダー”、もう片方には”ペンギン古武術ソルジャー”の絵、何かの漫画のグッズのようだった。

 二人の少女はベンチに座り、一緒に購入した赤レンガ倉庫のオリジナルロゴ入り、オレンジの反射板ブレスレットを手首に嵌めながら談笑を交えつつ、これからの予定について話し合う。

「ね、センパイこの後どうしよっか? 映画までまだまだ時間あるよ」
「私中華街行ってみたいな」

 カスミが呟くと「本気か」と清壱が虚無の瞳をカっと見開く。
「……ん、映画も見に行く予定なのか……?」
 それから考え込んだ。いつからこの二人は映画を観に行くつもりだったのか? 聞かされていない、朝の段階ではなかったはずの話だが一体どこでそのような流れに……。

(まさか手洗い中に決まった話か……?)
「え、だめ……ですか?」
「いや、ダメとは言わないが、炎天下で人通りもあるし、あそこは華僑の縄張りだから……」

 清壱が何かと面倒くさそうな素振りを見せる。警護上気を遣う面も当然増えるし、もっと狭い範囲で満足してくれる事を望んでいたのだが……閻魔大王の見積もりよりもずっと、年頃の少女には行きたい所が多すぎる。

「センセイお願い、中華街行きたい。ね、代わりにセンセイの言う事、私聞くから……」



 ・夜陰流 人遁之術 色掛籠絡型イロカケロウラクガタ
 『古の時代より伝わる色香を使った人心掌握術、遥か古代の神代が射程数千キロの飛翔物を飛ばし合う現代へ移り変わっても、人間の本質は何一つ変わらない――――。』



 翔子が奇怪な猫撫で声を発しながら清壱の腕にしがみついてきた。通りがかった中年男性がこちらに向かってギョっと目を見開き、その場で足を止めた。

「とりあえず……草薙さんは何か違う呼び方にしてくれると助かるんだが……」
「中華街一緒に行ってくれるならいいですよ、センセ」
「先生、お願い! わたしも中華街、いってみたいな!」

「あー……君まで……全く……」
 清壱は片腕で翔子を引きはがそうとしていたが、カスミまでもが残りの片手を掴み、上目遣いでこちらを見て来るではないか。ついには三人の間にただならぬ禁断の関係を見出した男女カップルがこちらにカメラを向け撮影を始め出した。通りがかりの中年男性も未だにこちらを凝視している。

 挙句インカムに『おほほほほ、楽しんでいるようね』と京子の笑い声が響く。
「あー、状況聴いておられますか、そちらの――――」
『こちらワカウカ2、ニニギ1と共に既に中華街への移動準備を既に始めていますが?』
 皆まで言うよりも早く、銀蘭が愉快そうな声で言った。
『観念なされた方が人生愉しいですよ? 姉弟子からの助言です』
「チッ……助言ありがとうございます」
 そう言った後、清壱が無表情のまま微かに舌打ちしたせいで、一瞬翔子の笑顔は凍り付いた。

『あ! 今舌打ちしました!?』
「いえ、ノイズです」
『しましたよね、ひっどー……私、一応先輩ですよ……?』
「ノイズです」
 清壱は主張を貫いた。 

「台湾かき氷食べたいです、先生」
 変な呼び方して体に触れて来るせいで周囲の奇異の眼は集まって困るし、カスミは未だ見ぬ台湾マンゴーかき氷の姿を空想し、目を光らせながら物欲し気に清壱の手首を引っぱろうとする。

「……わかりました、中華街行きましょう! ……だから呼び方を変えてくれ、頼む……」
 清壱はいよいよ深い溜息をついてうなだれた。

「じゃあ何て呼んだらいいですか?」
「好きにしなさい」

 半ば投げやりに答えると、翔子は代案を示したのだが……。

「じゃあ――――清壱さんだから、イチくん!」
「私もイチ君って呼びますね」

「嗚呼……」
 カスミまで……。清壱が諦観とも悲しみともつかぬ、うめき声のような声を吐くと「好きにしなさい……」と、力なく答えた。

 二人の少女は清壱にしがみついたまま喜びのハイタッチを交わそうとしたのだが、その瞬間に合気道の名人が行うような二人同時組みほどきで清壱は逃れ、仕返しとばかりに少女二人を衝突させると、渋い顔で腕組みして唸る。

 どうやら今日はまだまだ長い一日になりそうだ。
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