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第五章 ‐ いつか星の海で ‐
067話「気怠いあの夏に」
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第67話「気怠いあの夏に」
庭での訓練はしばらく続いたが、日が傾く頃には終わりを迎えた。
「今日はもう、これぐらいにしましょう。少し疲れちゃいました」
Tシャツにジャージズボン姿の菊華がタオルで汗を拭くと、息を切らせてベンチにもたれかかった。
「はい……ありがとうございました」
清壱は納刀し、深く頭を下げる。彼も汗で濡れ、肩で荒く息をしていた。
「ごめんなさいね、私、体力が全く無くて……」
「いえ、済みません。わざわざ稽古をつけて頂いて、感謝しています」
清壱は深く頭を下げ感謝を口にすると、もう一度、軽く頭を下げた。
「……本当に済みません」
「なあに、気にしないで。私の練習でもあるんだから」
「私の考えの事でも。その、ご迷惑をかけているので……。判ってます、「ガキの癖に生意気」だって事は」
「そんな風には思ってないわ」
「そう思ってる人も居るのは知ってます。そうした事が理由で、昇段の可否で物凄く”割れた”事も……」
「そういう人だっているけど……だって仕方がないわ、皆色々事情があるもの。特に筒井さんの場合は…………」
菊華は、目を伏せて呟いた。
「……誰だって辛いわ」
すると、彼は暗い瞳を浮かべたまま言った。日が沈み始めたせいで、清壱の表情は影に染まっていた。
「辛かったのは、俺じゃありません」
「……あなただって辛くなかったら、そんな顔はしないんですよ」
影に堕ちた少年の表情をただ一人、菊華が見つめて言った。
鐘が鳴ったのはその時の事だ。空に響き渡るのは自治体が鳴らす防災無線チャイム、いわゆる「ウエストミンスタの鐘」で、日本に生まれ育ったのならきっと多くの人が聴いた覚えのある音色だろう。
「あれ、今何時かな……? 筒井くん、わかる?」
「もう6時ですね」
筒井が折り畳み式の携帯電話を開いて、小さな液晶に浮かんだ時刻を見た。
「カスミ、ちょっと遅いわね」
「娘さんですか」
「うん、近所の子に誘われて遊びに行ってるんだけど……」
「どちらまで?」
「公園よ、ちょっと行ったところの」
「少し探して来ます」
「平気よ、私と京子ちゃんで探しに行くから……」
菊華が息を切らしたまま立ち上がったが、その足元がふらついた。剣技にかけては月照支部屈指の技量を持つ菊華であったが病弱で身体が弱く、長時間の歩行には杖の補助が欠かせない身だった。
「無理をしないでください」
少年が菊華の肩を抑えて座りなおさせると「参ったわね、こんな身体だから」と菊華が苦笑いを浮かべる。
「私が行きます。代わりに自転車をお借りしてもよろしいですか」
◆
清壱は汗を拭き水分補給だけを済ませると服装は黒い柔術ズボンにシャツのまま、菊華から借りたオレンジ色のママチャリを走らせる。
カラスが空に鳴き、空の色は茜色に染まりつつあるが真夏の日差しと酷暑は厳しく、ワークキャップを被っていても目がチカチカとしそうだった。
前カゴには白いMP3プレイヤーが置いてあって、100均の安い小型スピーカーと接続されている。夜陰流からはそれなりの生活資金が提供されていて、それで買った第五世代のE-PAD。従来のMDプレイヤーやCDプレイヤーよりもずっと使い勝手が良い。E―PADからはローリングストーンズの往年の名曲が流されていた。
自転車を走らせること数分、彼は近隣の公園へと辿り着いた。緑が多く、水も流れており、地元の少年野球やサッカーの練習にも使えるであろう広大なグラウンドもある。小さな子供が帰って来ないと言われれば「さもありなん」といった場所だった。
清壱は自転車を停め、カスミの捜索を開始する。
「公園内に居るなら良いが……」
清壱は静かに呟く。少女がまだ公園で遊んでいるだけならば杞憂で済むのだ。カスミはまだ幼稚園児、大人の悪人に対峙した時、その善悪を判断する能力もなければ抵抗するだけの力も無く、逃げるだけの脚も無いのだ。
可能性の話、もし、誰かに連れ去られていたら……。そんな考えが清壱の脳裏をよぎるのも無理からぬ事だった。
突如、清壱は強烈なスポットライトの光を浴びせられたかのような錯覚を覚えた。
………………
…………
……
――――ロウ
イチロウ
「一郎! 何度言ったら覚えるんだ!」
憤怒の形相の中年男が、少年を殴りつける。
「ウウウー……。痛い、痛いよお父さん……」
少年は涙と共に、血の混じった鼻水を垂らして流血した額を必死に抑える。
「泣くな! 泣くならもっと殴るぞ!」
……
…………
………………
「うっ……おえっ……うええ………! げぼっ……ごぼっ……ウゥゥゥ……!」
突如体調不良を感じた清壱が、公園の茂みに向かって走ると、その中で思い切り吐瀉した。フラッシュバックが終わっても視界の点滅は続き、襲って来た立ちくらみは酷暑と蝉の五月蠅さのせいで余計に悪化したようさえ感じられる。
――――ああ、クソ。
清壱は悪態をつきながらフラフラと元の自転車駐輪スペースに戻り、気を取り直して駐輪スペースの捜索からまず開始する。すると……あった、一台の自転車が。
青と黄色のカラフルな子供用自転車で、清壱の年頃ではもうこぐこともままならない小ささ。補助輪がまだ外れて居なくて、後輪カバーには「ひろせ かすみ」の名前と自宅の電話番号が……。
清壱自身もこの自転車には見覚えがある。彼女は少なくとも、この公園に来ていたようだった。
「まだ公園に居れば良いが……」
再び呟いた清壱は、額の汗を拭って日の傾き始めた公園内へ進んでいった。
庭での訓練はしばらく続いたが、日が傾く頃には終わりを迎えた。
「今日はもう、これぐらいにしましょう。少し疲れちゃいました」
Tシャツにジャージズボン姿の菊華がタオルで汗を拭くと、息を切らせてベンチにもたれかかった。
「はい……ありがとうございました」
清壱は納刀し、深く頭を下げる。彼も汗で濡れ、肩で荒く息をしていた。
「ごめんなさいね、私、体力が全く無くて……」
「いえ、済みません。わざわざ稽古をつけて頂いて、感謝しています」
清壱は深く頭を下げ感謝を口にすると、もう一度、軽く頭を下げた。
「……本当に済みません」
「なあに、気にしないで。私の練習でもあるんだから」
「私の考えの事でも。その、ご迷惑をかけているので……。判ってます、「ガキの癖に生意気」だって事は」
「そんな風には思ってないわ」
「そう思ってる人も居るのは知ってます。そうした事が理由で、昇段の可否で物凄く”割れた”事も……」
「そういう人だっているけど……だって仕方がないわ、皆色々事情があるもの。特に筒井さんの場合は…………」
菊華は、目を伏せて呟いた。
「……誰だって辛いわ」
すると、彼は暗い瞳を浮かべたまま言った。日が沈み始めたせいで、清壱の表情は影に染まっていた。
「辛かったのは、俺じゃありません」
「……あなただって辛くなかったら、そんな顔はしないんですよ」
影に堕ちた少年の表情をただ一人、菊華が見つめて言った。
鐘が鳴ったのはその時の事だ。空に響き渡るのは自治体が鳴らす防災無線チャイム、いわゆる「ウエストミンスタの鐘」で、日本に生まれ育ったのならきっと多くの人が聴いた覚えのある音色だろう。
「あれ、今何時かな……? 筒井くん、わかる?」
「もう6時ですね」
筒井が折り畳み式の携帯電話を開いて、小さな液晶に浮かんだ時刻を見た。
「カスミ、ちょっと遅いわね」
「娘さんですか」
「うん、近所の子に誘われて遊びに行ってるんだけど……」
「どちらまで?」
「公園よ、ちょっと行ったところの」
「少し探して来ます」
「平気よ、私と京子ちゃんで探しに行くから……」
菊華が息を切らしたまま立ち上がったが、その足元がふらついた。剣技にかけては月照支部屈指の技量を持つ菊華であったが病弱で身体が弱く、長時間の歩行には杖の補助が欠かせない身だった。
「無理をしないでください」
少年が菊華の肩を抑えて座りなおさせると「参ったわね、こんな身体だから」と菊華が苦笑いを浮かべる。
「私が行きます。代わりに自転車をお借りしてもよろしいですか」
◆
清壱は汗を拭き水分補給だけを済ませると服装は黒い柔術ズボンにシャツのまま、菊華から借りたオレンジ色のママチャリを走らせる。
カラスが空に鳴き、空の色は茜色に染まりつつあるが真夏の日差しと酷暑は厳しく、ワークキャップを被っていても目がチカチカとしそうだった。
前カゴには白いMP3プレイヤーが置いてあって、100均の安い小型スピーカーと接続されている。夜陰流からはそれなりの生活資金が提供されていて、それで買った第五世代のE-PAD。従来のMDプレイヤーやCDプレイヤーよりもずっと使い勝手が良い。E―PADからはローリングストーンズの往年の名曲が流されていた。
自転車を走らせること数分、彼は近隣の公園へと辿り着いた。緑が多く、水も流れており、地元の少年野球やサッカーの練習にも使えるであろう広大なグラウンドもある。小さな子供が帰って来ないと言われれば「さもありなん」といった場所だった。
清壱は自転車を停め、カスミの捜索を開始する。
「公園内に居るなら良いが……」
清壱は静かに呟く。少女がまだ公園で遊んでいるだけならば杞憂で済むのだ。カスミはまだ幼稚園児、大人の悪人に対峙した時、その善悪を判断する能力もなければ抵抗するだけの力も無く、逃げるだけの脚も無いのだ。
可能性の話、もし、誰かに連れ去られていたら……。そんな考えが清壱の脳裏をよぎるのも無理からぬ事だった。
突如、清壱は強烈なスポットライトの光を浴びせられたかのような錯覚を覚えた。
………………
…………
……
――――ロウ
イチロウ
「一郎! 何度言ったら覚えるんだ!」
憤怒の形相の中年男が、少年を殴りつける。
「ウウウー……。痛い、痛いよお父さん……」
少年は涙と共に、血の混じった鼻水を垂らして流血した額を必死に抑える。
「泣くな! 泣くならもっと殴るぞ!」
……
…………
………………
「うっ……おえっ……うええ………! げぼっ……ごぼっ……ウゥゥゥ……!」
突如体調不良を感じた清壱が、公園の茂みに向かって走ると、その中で思い切り吐瀉した。フラッシュバックが終わっても視界の点滅は続き、襲って来た立ちくらみは酷暑と蝉の五月蠅さのせいで余計に悪化したようさえ感じられる。
――――ああ、クソ。
清壱は悪態をつきながらフラフラと元の自転車駐輪スペースに戻り、気を取り直して駐輪スペースの捜索からまず開始する。すると……あった、一台の自転車が。
青と黄色のカラフルな子供用自転車で、清壱の年頃ではもうこぐこともままならない小ささ。補助輪がまだ外れて居なくて、後輪カバーには「ひろせ かすみ」の名前と自宅の電話番号が……。
清壱自身もこの自転車には見覚えがある。彼女は少なくとも、この公園に来ていたようだった。
「まだ公園に居れば良いが……」
再び呟いた清壱は、額の汗を拭って日の傾き始めた公園内へ進んでいった。
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