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ご主人様は苦労性
仰せのままに。
しおりを挟む「それで、下僕って、具体的に何をすればいいの?」
自分の変化に戸惑いながらも、唇の端に笑みを残し、ずっと気になっていたことへと話題を変えた。
渡辺が怪訝そうな顔で視線を戻す。
「この弁当が口止め料なんだろ? それで下僕の話はチャラにしてほしいってことじゃないの?」
「これは俺がパンを食べたくて代わりに食べてもらってるだけだから、ウィンウィンだろ? 下僕になれって言ってたくらいだから、他になんかやらせたいことがあるんじゃないの?」
なんだかまるで、「下僕にしてください」と言っているみたいだ。気恥ずかしさを誤魔化すために、大きくパンに齧りついた。
「それなら……」
一瞬迷うように視線を揺らし、渡辺は箸を置いて再びかしこまった。
「さっきの数学、ちょっとわからないところがあって……。もし、このあと川嶋が時間があるなら、昼休みの間、教えてもらえませんか……?」
敬語な上に、恐る恐る、といった感じのかなり控えめな頼み方だった。
「やりなおし」
「え?」と顔を上げた渡辺に、俺はニヤリと片頬を吊り上げてみせた。
「それだとご主人様っぽくないから、やり直し。ご主人様なら、頼むんじゃなく命令しないとな」
「な、なんだよ、それ」
渡辺は再び頬を赤らめたが、俺の言いたいことは察したらしい。
「お前、なんなん? マゾなの?」
ドン引いた視線でそんなことを言われても、わくわくして仕方ないのだから、確かにそういう一面はあるのかもしれない。でも、どちらかというとサドのほうかも、とも思う。渡辺をもっと困らせたいし、なんなら泣かせたいような欲求も、胸の奥にくすぶっている。
渡辺はしばらくの間、「うー」と呻いていたが、口元をにやつかせたままの俺を見て、「やり直し」しないことには数学を教えてもらえないと悟ったらしい。渋々といった感じで口を開いた。
「もし、このあと川嶋が時間があるなら……、俺に数学を教えろ。シュ、シュジンメイレイダ」
茹でダコみたいに顔を真っ赤にし、最後は片言の日本語みたいな棒読みだった。
「御意」
答えると同時に、自然と相好が崩れていた。笑うつもりも、笑いたいとも思わなかったのに。俺の意志に関係なく、表情筋が一気にゆるんだ感じだった。
俺がそんな顔をするのが意外だったのか、渡辺はぽかんと口を半開きにし、呆けたような顔をしている。
仰せのままに。ご主人様――。
周りに人がいなければ、次はそんな口上で彼の手を取り、手の甲にキスをするのもいい。そんな自分と今以上に慌てふためく渡辺を想像し、俺はいつまでも笑みを消せないでいた。
その日はいつもより授業が一コマ少なかったので、渡辺がバイトに行くまでの1時間ほど、図書室で一緒に試験勉強した。主に、俺が予想問題を出して渡辺の理解が不十分なところを教える形だったが、どう説明すれば理解してもらえるかを考えるのは、自分で解くより頭を使い、俺にとっても有意義だった。
俺と渡辺が地元が近く同じ駅を利用していることは、通学途中で見かけたことがあるため知っていた。駅まで一緒に帰る流れになり、道すがら、現金の持ち合わせがないのは困るだろうから、いくらか金を貸すことを申し出たが、電子マネーはあるから大丈夫だと断られた。母親が帰ってくれば現金ももらえるが、最近、恋人ができて、帰ってこない日のほうが多いのだという。
「普段もすれ違い生活だから顔を見ないのは気楽でいいんだけど、金もらえないのは困るよな」
そう言った声は彼が普段は使わない明るい調子で、俺は何も言葉を返すことができなかった。
担任から「渡辺のことを気にかけてやってくれ」と言われていたのに、何も知ろうとしなかったことへの後悔が、胸の中に渦巻いていた。
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