糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

魂のプログラム 15

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 馴染みのある風景。毎日見る黒板と机。教室の真ん中であたしは席に座っていた。
 あまりにもリアルで、馴染みのある風景だったから今まで白昼夢を見ていたのかと錯覚しそうになる。
「人が死ぬ夢を毎夜見て、人を傷つけるのにも躊躇いがなくなったか」
 声がした。担任の坂本のもの。彼は教壇に立ち、あたしを見据える。
「カンダタが死んだ時、何を思った?傷つけられた時は?襲われた時は?」
 あたしは席を立って坂本から目を逸らす。幻を相手にするつもりはない。
「人との付き合いは鏡だ。付き合えば鏡と向き合うのと同じだ」
 耳を傾ける価値は無い。教室から出ようと後ろのドアに向かう。
 その進行を阻止しようと坂本はあたしの手首を掴む。反射的に振り払おうとすれば想像以上の握力で捕まり、逃げられない。
 坂本の顔半分がヘドロになって、溶けて床に落ちた。その異常さにあたしの逃げたい本能は強まって、後退る。掴んでくる坂本の手がそれを許さない。
「鏡と向き合う時、君は何が思う?」
 手首に触れているものが柔らかい泥になる。肌に残ったヘドロ払って、急いで教室を出た。
 手首にはヘドロの一滴も残っていないのにまだ触れられているみたいで気持ち悪い。
 階段を降りて職員室の前を通り過ぎれば正面玄関になる。
 なのに、どんなに段を降りても一階につかない。いまだにやらヘドロが追いかけているみたいで、振り返ればすぐそこにいそうな焦燥があたしを走らせた。
 これは光弥が見せている夢。焦る必要はない。
 あたしは恐怖心を殺して立ち止まると思い切って振り返る。そこにヘドロ人間はいなかった。
 恐怖や焦燥は消えて、走ってで荒くなった息を整えようと深呼吸を繰り返す。
 身体が落ち着いても無限ループの階段は変わらない。
 踊り場で立ち尽くしているとあるものが目に入った。壁にかけられた大きな鏡。
 おかしい。ここには窓があった。鏡じゃない。
 鏡に触れてみる。指先から水面の波紋が広がっていく。
 指を沈ませてみればすんなり中に入れて、あたしは鏡を潜った。
 その先は駅のホームだった。あたしの自宅の最寄り駅。
 このくらいで驚かなくなったわね。現実のほうが現実離れしている。
 人の行き交いで騒がしいはずのホーム。今は終末のような静寂があって和やかな居心地になる。
「私の話をしなさいっ!」
 新興宗教をメガホンで広める迷惑おばさんが改札の向こう側に居心地の良さを台無しにする。
「聞かないやつは地獄に落ちればいい!」
 とても理不尽なことを言われている。
 距離があるのにメガホンのノイズも合わさって耳にキン、とした刺激を与えてくる。
 あたしは背を向けて、うざったい幻から視界を外そうとした。
「また目を逸らすっ!いつもいつも!目の前の事象を受け入れようとしない!現実から逃げるっ!だからお前は地獄に落ちたっ!」
 あたしには関係ないもの。
 背を向けたまま内心で言い返す。
「苦しいの苦しいと認めないまま痛いもの痛いと認めないままっ!ならっ!もっと苦しめ!私たちは止まらない!認めるまで!苦痛をっ!もっと苦痛をっ!」
 聞かなくていい。
 足は駅の出口へと向かっていた。なのにぬかるみに放ったように足を取られ、這いつくばる。硬い素材で作られた床なのに。
 あたしの足を絡め取ったのは教室にいたヘドロ人間だった。
「話を、きけ、ササズカ」
 ヘドロから漏れる歪な声は坂本のもの。足をとられた事実よりも名字で呼ばれたのが不快だった。
 ヘドロを蹴り飛ばすようにして立ち上がる。走り出そうとした一歩は別のヘドロによって妨げられた。すぐに立ち上がらないといけないのにヘドロはあたしの脚、膝を絡め取り、その場に留まらせようとする。
 ヘドロから影のような手が伸びて、それは首を撫で、頭を撫で、あたしを中に沈ませませようとする。
「異常者」「頭おかしい」「サイコ野郎」「死ねばいいのに」
 ヘドロの中からクラスメイトたちの声がする。
「一人ぼっちはかわいそう」「羨ましいんでしょう?」「くりっちゃえばいいのに」
 ヘドロからの声は止まない。どれも耳障りでまた外したものばかり。
「何なのよ!」
 身体を大きく振り回して絡まるヘドロから逃れる。必死に走るもクラスメイトや教師や大人の声が頭に響く。
 ハクもいない、カンダタもいない。一番弱いあたしが一人。追い詰められてる。
   これは光弥の罠なんだ。脚を止めるな。ただひたすらに走れ。
 頭がおかしくなりそうだった。ヘドロが迫り、重なり追い詰める声があたしを責める。
「卑怯者!卑怯者!」
「頭おかしい!」
「嘘つきめ!」
「愛してるわ」
 あたしの脚を止めさせたのは懐かしい母の声だった。
 「ママ?」
 久しく呼んでいなかったその名前を呟いて振り返る。
 当然のように、そこに母はいない。代わりに鬼が立っていた。悍ましい鬼が母の声色であたしを呼びかける。
 母の声を真似た鬼があたしを押し倒し、鋭く尖った牙があたしの目前に迫る。あたしを追っていたヘドロがあたしの身体を包み、再び沈ませようとしてくる。
 鬼の形相で囁く母の声は優しく、捨てたはずの暖かさを思い出させた。
 「可愛い瑠璃。ホットチョコレートを飲みましょう。とろみのあるチョコレートにナッツを入れて、あなたの好きなコンフィも入れましょう。3時のテーブルでビスケットと一緒にあたしたちだけの女子会を楽しみましょう」
 よく覚えている。幼いあたしは母との菓子作りが何よりの楽しみだった。母と二人、コンロの前で「いい匂いね」と言って笑い合う優しい記憶。ビスケットとホットチョコレートを食べて「おしいね」と言い合う記憶。
 あたしが失った記憶。愛に満ちた日々。でも、今のあたしには必要ないものだ。
「あんたは母親じゃなかった」
 白糸を指に挟み、黄色い目に突き刺す。どんなに母の声を似せても鬼は鬼なんだ。もう惑わされたりしない。
 片目を失った鬼はもう誰の声真似もしなかった。金切り声で痛みを訴えて、あたしから離れるも、その形相は怒りの色を見せる。
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