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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う
目覚めて夢の中 7
しおりを挟む忙しなく歩き回る看護師、患者同士の世間話、病床の老女の前で元気に語らう見舞客たち。パワハラで泣く研修生とセクハラで憤る看護師。
病院での日常のひとコマを眺めていると「生きるのは大変そうだな」と赤眼の少年は達観した気持ちで呟く。
嬉しく笑う風景も辛くて泣く風景も少年には眩しく見えたしまう。
ハザマから現世と逆流してきたものの、流れ着いた場所は各人ばらついていた。
赤目の少年が着いたのは駅に近い歩道橋の足元でまだ昼間だというのに雨雲のせいで暗かった。蝶男と光弥にはそこで合流したが、清音とカンダタは未だ見えない。
光弥は少年に素っ気ない別れの挨拶をすると「もう用はない」と蝶男たちのもとを離れた。
蝶男から少年に対して指示は出さなかった。ハザマから現世きたのだから目的があるはずなのだが、彼は何も告げない。何も教えてくれなかった。
彼の右目はあいつによって潰され、黒い空洞となっていた。遠慮がちにそこを見ていると蝶男は左目で見つめ返してきた。
「痛い?」
そう聞いてみてもなんともないよと首を振る。
「痛みを持っていないからね。でも視界が半分なくなるのは不便だね」
「白い刀で切られたから再生できないの?」
「代替品はあるよ。そこは塊人と変わらない」
なら、白い刀を蝶男が恐れるのはなぜだろう。
蝶男はケイと直接会う機会は少なかった。あったとしてもそれは洗脳した直後か、眠っている時だろう。彼は話そうとしなかったが、白い刀と黒猫を彼は恐れていたように見える。
そんな疑問を聞くのもいけない気がして少年は光弥を指を差しながら聞いてみる。
「あの、ついて行っても?」
変わらない微笑で頷き、黒蝶の群れへと姿を変え、赤眼の少年から去る。
好きにしても良いのだと解釈した少年は光弥の後を追う。
だからといって光弥に声をかける勇気はなく、隣を歩く図々しさもない。遠くから光弥の背後をついていき、着いたのは街で一番大きな病院だった。
清音に寄生し、共に行動していた時でもこんなに人が集まり、こんなに大きな建物には入らなかった。カウンセリングとして通っていた心療内科のクリニックもこんなに人だってこんなに集まらない。
人が多いというだけで魔窟に見えてしまい、玄関口にも立てない。少年が尾行しているとも知らずに光弥は大型病院へと入っていく。
光弥の姿が見えなくなるとますます不安になる。
蝶男も清音もいない。指示する人がいない。大型病院のバス停で右往左往してしまう。
時刻は過ぎていき、バスに乗る人たちも増えていく。見えていないと分かりきっても目と目が合わない視線にも怯える。
迷っていても蝶男は伝えてこない。その場で留まるのも居心地悪い。そうなると「光弥を追う」という最初の目的に戻る。
迷いのある足取りで病院に入る。現世だと少年は実体がない。歩行人にも少年が見えていないのですり抜けてしまう。そこにお互いのダメージはないのだが、少年はどうしても行き交う人々を避けてしまう。
光弥はずっと帰る場所を探していた。それをやっと見つけた。優しく辛抱強く息子を想い待ち続けられる母親のところだ。
病室から高い鉄塔が見えると楽しく話していたのを覚えている。それだけを頼りに虱潰しでたくさんの部屋を回る。
日常のひとこまを覗き見るのはなかなかに楽しい。人が密集しているからと特に意味のない理由でこの空間を嫌煙していたが、悪くない気がしてくる。
気がつけば人の目線よりも病院の日常風景に目移りするようになり、一時だけ光弥を探すの忘れていた。
そうして探索しているうちに夕暮れとなった。
すれ違う人の顔がわからなくなる時間帯だ。電気を開発した現代では黄昏の言葉の意味がなくなる。
人の行き交いも少なくなった。
赤眼の少年は西側の棟の3階の角の部屋の前に立つ。
引き戸を開けると黄昏の闇を照らす電光の下で白鬼が女性を食べていた。
転がった花瓶が花と水で床を汚し、広がる水溜りに女性の血が混ざり合って命の赤を薄めていった。散った竜胆が薄紅の水の上ではかなく揺らいだ。
ぶつり、と天井の照明が消えた。
病院全体が停電し、忙しく働いていた看護師や医師が更に忙しなく走り回るのが気配でわかる。
明かりがなくなり、本物の黄昏時になった。薄暗い病室の真ん中で星空が浮かんでいた。
コウノトリの形をしているが、羽毛や顔がない。物質を吸い込んでしまいそうな星空が鳥のシルエットに収まっている。こうのとりの頭部には1等星のように輝く南十字座があった。
「コウヤ?」
星空を描いたコウノトリは白鬼と女性の遺体をじっと見下ろしている。姿が泣いているようにも見えたせいか、直感で光弥だと口走った。
「そうだよ」
正解だと教えてくれたのはいつの間にか背後に立っていた蝶男だった。
「なんで、蝶を?」
光弥に、黒蝶を、いつどこで、仕込んだのだろう。
そうした前兆はなかった。自分に黒蝶があるとも話していない。本人にも気付かれずにどうやったのだろう。
彼がそれを望んだはずはない。だって、母と暮らせるのをずっと夢見ていたのだから。
「彼が病院に入った時に」
困惑している赤目の少年に蝶男は淡々と答える。静かな彼と裏腹に病院の関係者たちは停電の影響で動かなくなった機械やパニックになる患者たちの対応に追われ慌ただしい。
「塊人と人間半分ずつ混ぜ合わせた存在は珍しいじゃないか」
最初からそうするつもりだったのか。蝶男の言い分ではわからないが、彼ならそう考えてもおかしくない。
「コウヤの約束は?守る気がなかった?」
少年の疑問を理解できずに蝶男は首を傾げる。
「ちゃんと果たしているよ。ほら見てみなよ」
病室にある風景が証拠だと蝶男が指差したのは白鬼に食われた女性の残骸とただそれを見つめるコウノトリの形をした星空がいる。
赤眼の少年は蝶男との決定的なずれを感じながら花瓶の水が濃い赤に変わっていくの呆然と見つめる。
「明日の昼頃になったら清音と彼を迎えに行くが、アカメ君は病院で留守番を頼むよ」
「明日の昼まで、この病院で何をするの?」
「わかるだろ?」
蝶男は無駄な会話はしない。赤眼の少年がわかっていることはいちいち説明してくれない。
分かり切っていることを質問したのはこのあと行う惨殺を受け入れられないからだ。だが、少年が拒否できる権利はない。
自由があるようでない。この息苦しさが少年の居場所を奪っていた。
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