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 初めて立ち寄って、野菜サンドとハムサンドを買った。
 購入を禁止する校則は、もう自分には関係ない。
 あとで食べようと鞄に入れて、また歩き始めた。
 学校も街も、いつも通りだった。
 世界はなにも変わらないのに、響だけが違う。
 響だけ、全てが終わって、変わって、そして勝手にまた始まった。
 ――マジで良かった。オメガじゃなくて。
 同級生たちの声が聞こえる。
 寒さに、身体が震えた。
 見上げた空は重い灰色で、舞うように雪が落ちてきた。
 ……そうだ。あの日は、雪が降ってたんだ。
 雪が降っていて、それで――
「響。着いたよ」
 壱弥の声に、顔を上げた。
 見ていたはずのタブレットの画面は、膝の上で暗くなっている。
 エンジン音と、わずかな振動が緩やかに消える。ポルシェはいつの間にか、目的地である訪問先企業の地下駐車場に停車していた。
 五分か十分か、うつらうつらとしていたらしい。昔の夢を見ていた気がする。
 寂しさとか悲しみといった、湿った感情の余韻が残っている。
 頭を切り替えるように息を吐き、タブレットをブリーフケースにしまった。
 壱弥が運転席から車外に降り、響の座る後部座席の扉を開く。
 まるで専属運転手のようにスマートな動きを見せる男に、「ありがとう」と礼を言って、車から降りた。
 エレベーターへ向かう響の隣を歩く壱弥は、ジョルジオアルマーニのスーツをさらりと着こなし、車内に流れていたブルーノ・マーズをご機嫌に口ずさんでいる。
 スーツは英司が選んだものだ。
 英司は「似合うから選び甲斐がある」と、スーツ二着とアウター二着を壱弥のために購入していた。響の友人は、自分が着飾るのも人を着飾らせるのも大好きだ。
「壱弥、約束覚えてる?」
 二人だけのエレベーターに乗り込んで、響は壱弥を見上げる。
「……うん。仕事の時は、響に抱きついちゃいけない」
 壱弥はそう答えたくせに、次の瞬間には響の腰を引き寄せる。
「おい」
「エレベーターが止まるまで。仕事中は、我慢する」
 さっきまでの、まるで海外セレブ然とした雰囲気なんて跡形もない男に、仕方ないなと息を吐く。
「響、疲れてる?居眠りするの、珍しかったから」
 壱弥の手が伸びてきて、頬を撫でられた。ふわりとジャスミンが香る。響が壱弥にプレゼントしたハンドクリームの匂いだ。
「……ああ、うん……少し。それに、ドライバーが優秀で、運転が快適過ぎたってのもあるかも」
 優秀だと言われ、壱弥が嬉しそうに笑う。その屈託のない笑顔に、響も自然に笑みが浮かぶ。
 目的の階に到着すると、頬を撫でていた壱弥の指は響の耳を掠め、名残惜しそうにしながらも離れていった。
 壱弥の温度が消えると、自分のまわりの空気が、二、三度ほど冷えたように思える。
 到着階が、あと二十階くらい上だったらよかったのに。
 そんなふうに思う自分には、気づかない振りをする。
「……よし。行こう」
 顔を上げ、背筋を伸ばしてエレベーターを出た。
 
「……それにしても、あの地下鉄に一条さんもいらしてたなんて。本当に大変でしたね」
 ソファの向かい、小森という管理職の男がハンカチを額に当てる。
 今日、この話題を彼に振られるのは二回目だ。
 響はにこりと笑い、温くなったコーヒーを飲んだ。
 響達が訪れているこの『バイオセキュアテック』は、生体認証技術と位置情報機能を研究・開発している会社で、コンペ用カラーのセキュリティ部分の開発を依頼をしている。
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