海が囁く誓い ー冤罪で島流しになった令嬢は、初恋王子と戀に堕ちるー

まめなちゅせん

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吠える子犬の初陣

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 その夜。
 仕事を終えたエドワードが屋敷へ戻ってきた。

 出迎えに出たエリザベスは、廊下を進む彼の姿を見つけると、自然と頬を緩めて歩み寄る。

「おかえりなさいませ、エドワード様」

 エドワードは軽やかに外套を外し、彼女の手を取って口づける。
 その青い瞳には、いつもの冷徹さではなく、どこか愉快げな光が宿っていた。

「さて、我が愛しき婚約者よ」

 わざと芝居がかった声音で、彼は低く囁く。

「私に報告することはあるかな?」

 その調子に、エリザベスは肩を揺らし、にっこりと笑んだ。

「ふふ、それでは、夕食を頂きながらお話ししましょう」

 言葉と共に、彼女は自然な仕草で彼の手を引いた。
 その柔らかな手に導かれ、エドワードは満足げに唇の端を上げる。



 食堂。
 銀器が静かに音を立て、香り高い料理が二人の間を彩る。

 ワインを口に含みながら、エリザベスは今日あった出来事を語り始めた。
 新事業の進展――そして、風島の令息クラウディオ・フォン・シルフリードとの交渉の顛末を。

「ほう? 輸入品の価格と設置費用の再検討か」

「ええ。シルフリード公爵令息様が提示した新しい条件は“一割減にに留め、設置費用を半額負担にしてほしい”と」

「エリザベス、君の返事は?」

「お断りしましたわ。だって、わたくしはその件に関して何ら権利を持ちませんもの」

 エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら満足げに頷いた。

 ――そう、この貿易はあくまでシルフリード公爵家とヴァルメア侯爵家の取引。
 たとえ彼女がどれほど聡明で、どれほど交渉に長けていようと、交渉相手には「ならないし、ならせてはならない」。

 それは彼女を守るためでもあり、彼自身の領地と権威を守るためでもある。
 己の婚約者を商談の矢面に立たせるほど、エドワードは無責任ではなかった。

「それで、新事業の契約はどうなったんだ?」

 エドワードが問うと、エリザベスはにっこりと微笑んだ。

「侯爵様のお灸の熱を、少し緩くしてきましたわ」

 その穏やかな笑みには、相手を叱りすぎず、かといって甘やかさず、導く者だけが持つ余裕があった

 最後まで聞き終えたエドワードは、喉の奥で小さく笑い、やがて堪えきれずに「くくく……」と愉快そうな笑い声を零した。

「君もたいがい悪いひとだな」

 その言葉に、エリザベスはワインを傾けながら瞳を細める。

「ふふっ。つい、育てたくなってしまったのです」

 柔らかな声音でそう告げる彼女を見て、エドワードは青い瞳を細める。
 ――そうか、と彼は悟った。
 エリザベスはクラウディオを、一人の男としてではなく、弟のように可愛がっているのだと。

 嫉妬ではなく、むしろ心地よい余裕が胸を占める。

(やれやれ……あの風の坊やは、完全に君の掌の上か)

 エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら、唇に笑みを浮かべた。

「なるほど……つまり、君は彼を可愛い弟分のように扱ったわけだ」

「ええ。若さゆえの直情はありますけれど、とても真っ直ぐで、見ていて放っておけませんわ」

 エリザベスの声音は、実に楽しげだった。
 彼女にとってクラウディオは庇護の対象であり、未来を担うべき少年のひとり。

 けれど、エドワードは知っている。
 クラウディオの胸に燃えるものが、ただの憧れや従属ではないことを。

 彼はワインを口に含み、赤い液を喉に流し込んでから、ひそやかに言葉を紡いだ。

「……だが、エリザベス」

 その声音には、いつもの冷徹な響きが戻っていた。

「彼は君を“姉のように”見てなどいない」

 エリザベスは目を瞬き、思わずエドワードの横顔を見つめる。
 青い瞳は、まるで全てを見通すかのように光っていた。

「彼にとって君は……憧れを超えた存在だ。師であり、目標であり――そして、乗り越えたい壁でもある」

「……まあ」

 エリザベスは驚きに小さく息を呑み、やがてゆるやかに微笑んだ。
 思い返せば、クラウディオの言葉や視線の端々に、その色は確かに宿っていた。

 エドワードはグラスを置き、椅子の背に身を預ける。

「ふふ……君が育てるというのなら、私も異は唱えない。ただし」

 青き瞳が彼女を射抜く。

「いずれ、彼が本気で君を欲する時が来るかもしれない。そのときは――」

 言葉を切り、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。

「――その矛先ごと、私が叩き折ろう」

 エリザベスは一瞬、息を呑み、次いで小さく笑った。

「でしたら、そうならないよう育てますわ」

 二人の間に、盃を重ねる音が響いた。
 その静かな音色は、嵐の前触れのように甘美で、不穏でもあった。









 後日、クラウディオは胸を張り、エリザベスの前に一人の少女を伴って現れた。

「紹介いたします。私の婚約者、セシリア・ヴァンディール嬢です」

 セシリアは深々と裾を摘み、礼をした。
 亜麻色の髪が揺れ、翡翠の瞳が真っ直ぐにエリザベスを射抜く。

「お噂はかねがね伺っております、ヴァルメア侯爵様の婚約者エリザベス様。新事業の副責任者として、この場に加わることをお許しください」

 その声音には、凛とした誇りと、どこか挑むような響きが混じっていた。

 エリザベスは穏やかに微笑み、セシリアに向き直った。

「ようこそ、セシリア・ヴァンディール嬢。――未来のシルフリード公爵夫人がお力添えくださるのは、これ以上なく心強いことですわ」

 丁寧に差し伸べられた言葉に、セシリアは一瞬肩の力を抜き、微かに頬を染めて微笑んだ。
 翡翠色の瞳は清澄で、初夏の風を閉じ込めたように澄んでいた。

(……あら。思ったよりもずっと素直な方ですのね)

 クラウディオと同じ風色を宿すその瞳を見ながら、エリザベスは内心でそう思った。
 誇り高くとも、根は柔らかい。――そう感じた瞬間。

「――先日は、度重なるご無礼を……申し訳ありませんでした」

 クラウディオの低い声が割って入った。
 唐突な謝罪に、エリザベスはぱちりと瞬きをする。

「まあ……?」

 驚きの色を浮かべた彼女に、クラウディオは真剣な面持ちで続けた。

「父上に報告したところ、『この恥晒しが』と叱責されました。……契約相手はヴァルメア侯爵閣下であり、あなたではない。今回の結末は、ただ人魚姫の慈悲にすぎぬ、と」

 その声音には、屈辱と共に悔恨が滲んでいた。

 エリザベスは一瞬きょとんとした後、ふっと唇を綻ばせた。
 その笑みは、まるで厳しくも温かな教師が、子の成長を見届けるときのように柔らかい。

「……そうですか。公爵様も手厳しいですわね」

 その一言には、失敗すらも糧として育てたい――そんな愉悦すら滲んでいた。

(やはり、育て甲斐がありますわね)

 内心でそう楽しげに呟くエリザベスを、セシリアは目を丸くして見つめていた。

 クラウディオが、そんな表情を浮かべるのを初めて見たからだ。
 真剣で、悔恨を抱えながらも、どこか憧憬の色を混じらせて……まるで恋に落ちる直前のような、特別な眼差し。

(……そんな顔、私には向けてくださらないのに……!)

 胸の奥に熱い痛みが生まれ、セシリアは唇を噛みしめた。

「……っ! そ、それ以上は必要ありませんわ!」

 翡翠の瞳が潤み、感情のままに声を張り上げる。
 頬を赤らめ、必死に言葉を探す姿は――ギャンギャンと吠える子犬そのものだった。

 その様子を眺めながら、エリザベスは思わず微笑んだ。

(あらあら、可愛らしいこと)

 嫉妬に燃え、守りたいもののために牙を剥くその姿は、彼女にはむしろ愛らしく映るのだった。

 セシリアは声を張り上げると、ぷいと顔を背けた。
 耳まで赤く染めて、震える肩。嫉妬心が隠しきれず、ぎゅっとドレスの裾を握りしめている。

「セ、セシリア……」

 クラウディオは慌てて彼女に近づき、必死に声をかける。

「誤解するな。私はただ、責任を――」

「誤解などしておりません!」

 彼女はきっぱりと遮った。
 翡翠の瞳は涙を湛えながらも、気丈にエリザベスを射抜く。

「わたくし、あなたが……そのような顔を他の方に向けるのは、我慢なりませんの!」

 思わず告げてしまった言葉に、クラウディオは目を見開いた。
 エリザベスは一瞬驚いたように瞬きをし、やがて柔らかな笑みを浮かべた。

「まあ……ふふっ、可愛らしい」

 その声音は、決して侮蔑ではない。
 むしろ慈しみに満ちていて、セシリアの頬はさらに真っ赤に染まった。

「セシリア嬢」

 エリザベスは優雅に立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
 そっとその手を取り、真っ直ぐに見つめた。

「女性の感性は、この新事業にこそ必要とされますわ。クラウディオ様にとって、そして私たちにとって、あなたの存在はかけがえのないもの」

「……っ」

 セシリアは一瞬、言葉を失った。瞳が揺れる。エリザベスが嘘を言っていないことは、直感でわかる。
 それでも、胸の奥のざわめきは収まらない。

(わたくしは……クラウディオ様のお役に立ちたい。ただ、それだけなのに……)

 彼女は涙を堪え、唇を強く結んだ。
 その姿を見つめながら、クラウディオは小さく息をつく。
 だが、エリザベスの笑みは少しも揺るがなかった。

(やっぱり、可愛い子ですわね……)

 嫉妬で吠える子犬のような少女を、彼女は心から微笑ましく思うのだった。

 その場の空気をやわらげるように、エリザベスは軽やかに手を打った。

「では――せっかくですし、この場で試してみましょうか」

 翡翠の瞳が不安げに揺れる。セシリアは思わず身を固くした。

「……試す、とは?」

「新事業の方向性ですわ。これは女性のための商品。ならば、女性の目線こそ何よりも必要になります。セシリア嬢、あなたに任せますわ」

「わ、わたくしに……!?」

 セシリアの声が裏返り、クラウディオが慌てて口を開く。

「エリザベス様、それは……!」

「副責任者であるならば当然の役目ですわ」

 エリザベスは穏やかに微笑んだ。
「クラウディオ様の補佐であり、かつ女性としての感性を持つ――あなたほど相応しい方はいらっしゃらないでしょう」

 その一言に、セシリアの頬は真っ赤に染まった。
 クラウディオの前で、ここまでまっすぐに期待を寄せられたことはなかったからだ。

(わ、わたくし……期待されているの? 本当に?)

 胸がきゅっと高鳴る。
 嫉妬心でいっぱいだったはずの心が、不意に別の熱で満たされていった。

「……わかりましたわ」

 セシリアは深呼吸をし、姿勢を正した。

「女性にとって日常で最も気になるのは――香りと触感です。貴族の令嬢は化粧品に慣れておりますが、庶民の方々は“使いやすさ”を重視します。べたつかず、香りも穏やかで……しかし清潔感を与えるものが望ましいと」

 言葉を重ねるにつれて、その瞳に強さが宿っていく。
 エリザベスはにっこりと頷いた。

「まあ……素晴らしい発想ですわ。さすが風の令嬢。香りを重んじる感性は見事です」

「え、えっと……!」

 褒められた瞬間、セシリアは頬に熱が集まり、慌てて視線を逸らした。

「べ、別に……普通のことを言っただけですわ!」

 その仕草に、エリザベスは小さく笑みをこぼす。

(本当に、嫉妬心むき出しの子犬のよう……けれど、その吠え声の奥に確かな才を秘めているのね)

 クラウディオは隣で唖然としていた。
 普段は自分の前で気丈に振る舞うばかりのセシリアが、こんなふうに赤面して戸惑う姿など見たことがなかったからだ。

「……セシリア」

 無意識に呼びかけると、彼女ははっとして、つんと顎を上げた。

「な、何ですの!?」

「いや……君が、そういうことを考えていたなんて、驚いた」

「そ、そうですの!? ……で、ですが! クラウディオ様に役立てるのなら、わたくしは……!」

 言いかけて、顔を真っ赤にして口をつぐむ。
 クラウディオは困惑したように笑い、エリザベスはますます微笑ましく思うのだった。
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