22 / 54
吠える子犬の初陣
しおりを挟む
その夜。
仕事を終えたエドワードが屋敷へ戻ってきた。
出迎えに出たエリザベスは、廊下を進む彼の姿を見つけると、自然と頬を緩めて歩み寄る。
「おかえりなさいませ、エドワード様」
エドワードは軽やかに外套を外し、彼女の手を取って口づける。
その青い瞳には、いつもの冷徹さではなく、どこか愉快げな光が宿っていた。
「さて、我が愛しき婚約者よ」
わざと芝居がかった声音で、彼は低く囁く。
「私に報告することはあるかな?」
その調子に、エリザベスは肩を揺らし、にっこりと笑んだ。
「ふふ、それでは、夕食を頂きながらお話ししましょう」
言葉と共に、彼女は自然な仕草で彼の手を引いた。
その柔らかな手に導かれ、エドワードは満足げに唇の端を上げる。
食堂。
銀器が静かに音を立て、香り高い料理が二人の間を彩る。
ワインを口に含みながら、エリザベスは今日あった出来事を語り始めた。
新事業の進展――そして、風島の令息クラウディオ・フォン・シルフリードとの交渉の顛末を。
「ほう? 輸入品の価格と設置費用の再検討か」
「ええ。シルフリード公爵令息様が提示した新しい条件は“一割減にに留め、設置費用を半額負担にしてほしい”と」
「エリザベス、君の返事は?」
「お断りしましたわ。だって、わたくしはその件に関して何ら権利を持ちませんもの」
エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら満足げに頷いた。
――そう、この貿易はあくまでシルフリード公爵家とヴァルメア侯爵家の取引。
たとえ彼女がどれほど聡明で、どれほど交渉に長けていようと、交渉相手には「ならないし、ならせてはならない」。
それは彼女を守るためでもあり、彼自身の領地と権威を守るためでもある。
己の婚約者を商談の矢面に立たせるほど、エドワードは無責任ではなかった。
「それで、新事業の契約はどうなったんだ?」
エドワードが問うと、エリザベスはにっこりと微笑んだ。
「侯爵様のお灸の熱を、少し緩くしてきましたわ」
その穏やかな笑みには、相手を叱りすぎず、かといって甘やかさず、導く者だけが持つ余裕があった
最後まで聞き終えたエドワードは、喉の奥で小さく笑い、やがて堪えきれずに「くくく……」と愉快そうな笑い声を零した。
「君もたいがい悪いひとだな」
その言葉に、エリザベスはワインを傾けながら瞳を細める。
「ふふっ。つい、育てたくなってしまったのです」
柔らかな声音でそう告げる彼女を見て、エドワードは青い瞳を細める。
――そうか、と彼は悟った。
エリザベスはクラウディオを、一人の男としてではなく、弟のように可愛がっているのだと。
嫉妬ではなく、むしろ心地よい余裕が胸を占める。
(やれやれ……あの風の坊やは、完全に君の掌の上か)
エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら、唇に笑みを浮かべた。
「なるほど……つまり、君は彼を可愛い弟分のように扱ったわけだ」
「ええ。若さゆえの直情はありますけれど、とても真っ直ぐで、見ていて放っておけませんわ」
エリザベスの声音は、実に楽しげだった。
彼女にとってクラウディオは庇護の対象であり、未来を担うべき少年のひとり。
けれど、エドワードは知っている。
クラウディオの胸に燃えるものが、ただの憧れや従属ではないことを。
彼はワインを口に含み、赤い液を喉に流し込んでから、ひそやかに言葉を紡いだ。
「……だが、エリザベス」
その声音には、いつもの冷徹な響きが戻っていた。
「彼は君を“姉のように”見てなどいない」
エリザベスは目を瞬き、思わずエドワードの横顔を見つめる。
青い瞳は、まるで全てを見通すかのように光っていた。
「彼にとって君は……憧れを超えた存在だ。師であり、目標であり――そして、乗り越えたい壁でもある」
「……まあ」
エリザベスは驚きに小さく息を呑み、やがてゆるやかに微笑んだ。
思い返せば、クラウディオの言葉や視線の端々に、その色は確かに宿っていた。
エドワードはグラスを置き、椅子の背に身を預ける。
「ふふ……君が育てるというのなら、私も異は唱えない。ただし」
青き瞳が彼女を射抜く。
「いずれ、彼が本気で君を欲する時が来るかもしれない。そのときは――」
言葉を切り、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。
「――その矛先ごと、私が叩き折ろう」
エリザベスは一瞬、息を呑み、次いで小さく笑った。
「でしたら、そうならないよう育てますわ」
二人の間に、盃を重ねる音が響いた。
その静かな音色は、嵐の前触れのように甘美で、不穏でもあった。
◆
後日、クラウディオは胸を張り、エリザベスの前に一人の少女を伴って現れた。
「紹介いたします。私の婚約者、セシリア・ヴァンディール嬢です」
セシリアは深々と裾を摘み、礼をした。
亜麻色の髪が揺れ、翡翠の瞳が真っ直ぐにエリザベスを射抜く。
「お噂はかねがね伺っております、ヴァルメア侯爵様の婚約者エリザベス様。新事業の副責任者として、この場に加わることをお許しください」
その声音には、凛とした誇りと、どこか挑むような響きが混じっていた。
エリザベスは穏やかに微笑み、セシリアに向き直った。
「ようこそ、セシリア・ヴァンディール嬢。――未来のシルフリード公爵夫人がお力添えくださるのは、これ以上なく心強いことですわ」
丁寧に差し伸べられた言葉に、セシリアは一瞬肩の力を抜き、微かに頬を染めて微笑んだ。
翡翠色の瞳は清澄で、初夏の風を閉じ込めたように澄んでいた。
(……あら。思ったよりもずっと素直な方ですのね)
クラウディオと同じ風色を宿すその瞳を見ながら、エリザベスは内心でそう思った。
誇り高くとも、根は柔らかい。――そう感じた瞬間。
「――先日は、度重なるご無礼を……申し訳ありませんでした」
クラウディオの低い声が割って入った。
唐突な謝罪に、エリザベスはぱちりと瞬きをする。
「まあ……?」
驚きの色を浮かべた彼女に、クラウディオは真剣な面持ちで続けた。
「父上に報告したところ、『この恥晒しが』と叱責されました。……契約相手はヴァルメア侯爵閣下であり、あなたではない。今回の結末は、ただ人魚姫の慈悲にすぎぬ、と」
その声音には、屈辱と共に悔恨が滲んでいた。
エリザベスは一瞬きょとんとした後、ふっと唇を綻ばせた。
その笑みは、まるで厳しくも温かな教師が、子の成長を見届けるときのように柔らかい。
「……そうですか。公爵様も手厳しいですわね」
その一言には、失敗すらも糧として育てたい――そんな愉悦すら滲んでいた。
(やはり、育て甲斐がありますわね)
内心でそう楽しげに呟くエリザベスを、セシリアは目を丸くして見つめていた。
クラウディオが、そんな表情を浮かべるのを初めて見たからだ。
真剣で、悔恨を抱えながらも、どこか憧憬の色を混じらせて……まるで恋に落ちる直前のような、特別な眼差し。
(……そんな顔、私には向けてくださらないのに……!)
胸の奥に熱い痛みが生まれ、セシリアは唇を噛みしめた。
「……っ! そ、それ以上は必要ありませんわ!」
翡翠の瞳が潤み、感情のままに声を張り上げる。
頬を赤らめ、必死に言葉を探す姿は――ギャンギャンと吠える子犬そのものだった。
その様子を眺めながら、エリザベスは思わず微笑んだ。
(あらあら、可愛らしいこと)
嫉妬に燃え、守りたいもののために牙を剥くその姿は、彼女にはむしろ愛らしく映るのだった。
セシリアは声を張り上げると、ぷいと顔を背けた。
耳まで赤く染めて、震える肩。嫉妬心が隠しきれず、ぎゅっとドレスの裾を握りしめている。
「セ、セシリア……」
クラウディオは慌てて彼女に近づき、必死に声をかける。
「誤解するな。私はただ、責任を――」
「誤解などしておりません!」
彼女はきっぱりと遮った。
翡翠の瞳は涙を湛えながらも、気丈にエリザベスを射抜く。
「わたくし、あなたが……そのような顔を他の方に向けるのは、我慢なりませんの!」
思わず告げてしまった言葉に、クラウディオは目を見開いた。
エリザベスは一瞬驚いたように瞬きをし、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「まあ……ふふっ、可愛らしい」
その声音は、決して侮蔑ではない。
むしろ慈しみに満ちていて、セシリアの頬はさらに真っ赤に染まった。
「セシリア嬢」
エリザベスは優雅に立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
そっとその手を取り、真っ直ぐに見つめた。
「女性の感性は、この新事業にこそ必要とされますわ。クラウディオ様にとって、そして私たちにとって、あなたの存在はかけがえのないもの」
「……っ」
セシリアは一瞬、言葉を失った。瞳が揺れる。エリザベスが嘘を言っていないことは、直感でわかる。
それでも、胸の奥のざわめきは収まらない。
(わたくしは……クラウディオ様のお役に立ちたい。ただ、それだけなのに……)
彼女は涙を堪え、唇を強く結んだ。
その姿を見つめながら、クラウディオは小さく息をつく。
だが、エリザベスの笑みは少しも揺るがなかった。
(やっぱり、可愛い子ですわね……)
嫉妬で吠える子犬のような少女を、彼女は心から微笑ましく思うのだった。
その場の空気をやわらげるように、エリザベスは軽やかに手を打った。
「では――せっかくですし、この場で試してみましょうか」
翡翠の瞳が不安げに揺れる。セシリアは思わず身を固くした。
「……試す、とは?」
「新事業の方向性ですわ。これは女性のための商品。ならば、女性の目線こそ何よりも必要になります。セシリア嬢、あなたに任せますわ」
「わ、わたくしに……!?」
セシリアの声が裏返り、クラウディオが慌てて口を開く。
「エリザベス様、それは……!」
「副責任者であるならば当然の役目ですわ」
エリザベスは穏やかに微笑んだ。
「クラウディオ様の補佐であり、かつ女性としての感性を持つ――あなたほど相応しい方はいらっしゃらないでしょう」
その一言に、セシリアの頬は真っ赤に染まった。
クラウディオの前で、ここまでまっすぐに期待を寄せられたことはなかったからだ。
(わ、わたくし……期待されているの? 本当に?)
胸がきゅっと高鳴る。
嫉妬心でいっぱいだったはずの心が、不意に別の熱で満たされていった。
「……わかりましたわ」
セシリアは深呼吸をし、姿勢を正した。
「女性にとって日常で最も気になるのは――香りと触感です。貴族の令嬢は化粧品に慣れておりますが、庶民の方々は“使いやすさ”を重視します。べたつかず、香りも穏やかで……しかし清潔感を与えるものが望ましいと」
言葉を重ねるにつれて、その瞳に強さが宿っていく。
エリザベスはにっこりと頷いた。
「まあ……素晴らしい発想ですわ。さすが風の令嬢。香りを重んじる感性は見事です」
「え、えっと……!」
褒められた瞬間、セシリアは頬に熱が集まり、慌てて視線を逸らした。
「べ、別に……普通のことを言っただけですわ!」
その仕草に、エリザベスは小さく笑みをこぼす。
(本当に、嫉妬心むき出しの子犬のよう……けれど、その吠え声の奥に確かな才を秘めているのね)
クラウディオは隣で唖然としていた。
普段は自分の前で気丈に振る舞うばかりのセシリアが、こんなふうに赤面して戸惑う姿など見たことがなかったからだ。
「……セシリア」
無意識に呼びかけると、彼女ははっとして、つんと顎を上げた。
「な、何ですの!?」
「いや……君が、そういうことを考えていたなんて、驚いた」
「そ、そうですの!? ……で、ですが! クラウディオ様に役立てるのなら、わたくしは……!」
言いかけて、顔を真っ赤にして口をつぐむ。
クラウディオは困惑したように笑い、エリザベスはますます微笑ましく思うのだった。
仕事を終えたエドワードが屋敷へ戻ってきた。
出迎えに出たエリザベスは、廊下を進む彼の姿を見つけると、自然と頬を緩めて歩み寄る。
「おかえりなさいませ、エドワード様」
エドワードは軽やかに外套を外し、彼女の手を取って口づける。
その青い瞳には、いつもの冷徹さではなく、どこか愉快げな光が宿っていた。
「さて、我が愛しき婚約者よ」
わざと芝居がかった声音で、彼は低く囁く。
「私に報告することはあるかな?」
その調子に、エリザベスは肩を揺らし、にっこりと笑んだ。
「ふふ、それでは、夕食を頂きながらお話ししましょう」
言葉と共に、彼女は自然な仕草で彼の手を引いた。
その柔らかな手に導かれ、エドワードは満足げに唇の端を上げる。
食堂。
銀器が静かに音を立て、香り高い料理が二人の間を彩る。
ワインを口に含みながら、エリザベスは今日あった出来事を語り始めた。
新事業の進展――そして、風島の令息クラウディオ・フォン・シルフリードとの交渉の顛末を。
「ほう? 輸入品の価格と設置費用の再検討か」
「ええ。シルフリード公爵令息様が提示した新しい条件は“一割減にに留め、設置費用を半額負担にしてほしい”と」
「エリザベス、君の返事は?」
「お断りしましたわ。だって、わたくしはその件に関して何ら権利を持ちませんもの」
エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら満足げに頷いた。
――そう、この貿易はあくまでシルフリード公爵家とヴァルメア侯爵家の取引。
たとえ彼女がどれほど聡明で、どれほど交渉に長けていようと、交渉相手には「ならないし、ならせてはならない」。
それは彼女を守るためでもあり、彼自身の領地と権威を守るためでもある。
己の婚約者を商談の矢面に立たせるほど、エドワードは無責任ではなかった。
「それで、新事業の契約はどうなったんだ?」
エドワードが問うと、エリザベスはにっこりと微笑んだ。
「侯爵様のお灸の熱を、少し緩くしてきましたわ」
その穏やかな笑みには、相手を叱りすぎず、かといって甘やかさず、導く者だけが持つ余裕があった
最後まで聞き終えたエドワードは、喉の奥で小さく笑い、やがて堪えきれずに「くくく……」と愉快そうな笑い声を零した。
「君もたいがい悪いひとだな」
その言葉に、エリザベスはワインを傾けながら瞳を細める。
「ふふっ。つい、育てたくなってしまったのです」
柔らかな声音でそう告げる彼女を見て、エドワードは青い瞳を細める。
――そうか、と彼は悟った。
エリザベスはクラウディオを、一人の男としてではなく、弟のように可愛がっているのだと。
嫉妬ではなく、むしろ心地よい余裕が胸を占める。
(やれやれ……あの風の坊やは、完全に君の掌の上か)
エリザベスの言葉に、エドワードはグラスを揺らしながら、唇に笑みを浮かべた。
「なるほど……つまり、君は彼を可愛い弟分のように扱ったわけだ」
「ええ。若さゆえの直情はありますけれど、とても真っ直ぐで、見ていて放っておけませんわ」
エリザベスの声音は、実に楽しげだった。
彼女にとってクラウディオは庇護の対象であり、未来を担うべき少年のひとり。
けれど、エドワードは知っている。
クラウディオの胸に燃えるものが、ただの憧れや従属ではないことを。
彼はワインを口に含み、赤い液を喉に流し込んでから、ひそやかに言葉を紡いだ。
「……だが、エリザベス」
その声音には、いつもの冷徹な響きが戻っていた。
「彼は君を“姉のように”見てなどいない」
エリザベスは目を瞬き、思わずエドワードの横顔を見つめる。
青い瞳は、まるで全てを見通すかのように光っていた。
「彼にとって君は……憧れを超えた存在だ。師であり、目標であり――そして、乗り越えたい壁でもある」
「……まあ」
エリザベスは驚きに小さく息を呑み、やがてゆるやかに微笑んだ。
思い返せば、クラウディオの言葉や視線の端々に、その色は確かに宿っていた。
エドワードはグラスを置き、椅子の背に身を預ける。
「ふふ……君が育てるというのなら、私も異は唱えない。ただし」
青き瞳が彼女を射抜く。
「いずれ、彼が本気で君を欲する時が来るかもしれない。そのときは――」
言葉を切り、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。
「――その矛先ごと、私が叩き折ろう」
エリザベスは一瞬、息を呑み、次いで小さく笑った。
「でしたら、そうならないよう育てますわ」
二人の間に、盃を重ねる音が響いた。
その静かな音色は、嵐の前触れのように甘美で、不穏でもあった。
◆
後日、クラウディオは胸を張り、エリザベスの前に一人の少女を伴って現れた。
「紹介いたします。私の婚約者、セシリア・ヴァンディール嬢です」
セシリアは深々と裾を摘み、礼をした。
亜麻色の髪が揺れ、翡翠の瞳が真っ直ぐにエリザベスを射抜く。
「お噂はかねがね伺っております、ヴァルメア侯爵様の婚約者エリザベス様。新事業の副責任者として、この場に加わることをお許しください」
その声音には、凛とした誇りと、どこか挑むような響きが混じっていた。
エリザベスは穏やかに微笑み、セシリアに向き直った。
「ようこそ、セシリア・ヴァンディール嬢。――未来のシルフリード公爵夫人がお力添えくださるのは、これ以上なく心強いことですわ」
丁寧に差し伸べられた言葉に、セシリアは一瞬肩の力を抜き、微かに頬を染めて微笑んだ。
翡翠色の瞳は清澄で、初夏の風を閉じ込めたように澄んでいた。
(……あら。思ったよりもずっと素直な方ですのね)
クラウディオと同じ風色を宿すその瞳を見ながら、エリザベスは内心でそう思った。
誇り高くとも、根は柔らかい。――そう感じた瞬間。
「――先日は、度重なるご無礼を……申し訳ありませんでした」
クラウディオの低い声が割って入った。
唐突な謝罪に、エリザベスはぱちりと瞬きをする。
「まあ……?」
驚きの色を浮かべた彼女に、クラウディオは真剣な面持ちで続けた。
「父上に報告したところ、『この恥晒しが』と叱責されました。……契約相手はヴァルメア侯爵閣下であり、あなたではない。今回の結末は、ただ人魚姫の慈悲にすぎぬ、と」
その声音には、屈辱と共に悔恨が滲んでいた。
エリザベスは一瞬きょとんとした後、ふっと唇を綻ばせた。
その笑みは、まるで厳しくも温かな教師が、子の成長を見届けるときのように柔らかい。
「……そうですか。公爵様も手厳しいですわね」
その一言には、失敗すらも糧として育てたい――そんな愉悦すら滲んでいた。
(やはり、育て甲斐がありますわね)
内心でそう楽しげに呟くエリザベスを、セシリアは目を丸くして見つめていた。
クラウディオが、そんな表情を浮かべるのを初めて見たからだ。
真剣で、悔恨を抱えながらも、どこか憧憬の色を混じらせて……まるで恋に落ちる直前のような、特別な眼差し。
(……そんな顔、私には向けてくださらないのに……!)
胸の奥に熱い痛みが生まれ、セシリアは唇を噛みしめた。
「……っ! そ、それ以上は必要ありませんわ!」
翡翠の瞳が潤み、感情のままに声を張り上げる。
頬を赤らめ、必死に言葉を探す姿は――ギャンギャンと吠える子犬そのものだった。
その様子を眺めながら、エリザベスは思わず微笑んだ。
(あらあら、可愛らしいこと)
嫉妬に燃え、守りたいもののために牙を剥くその姿は、彼女にはむしろ愛らしく映るのだった。
セシリアは声を張り上げると、ぷいと顔を背けた。
耳まで赤く染めて、震える肩。嫉妬心が隠しきれず、ぎゅっとドレスの裾を握りしめている。
「セ、セシリア……」
クラウディオは慌てて彼女に近づき、必死に声をかける。
「誤解するな。私はただ、責任を――」
「誤解などしておりません!」
彼女はきっぱりと遮った。
翡翠の瞳は涙を湛えながらも、気丈にエリザベスを射抜く。
「わたくし、あなたが……そのような顔を他の方に向けるのは、我慢なりませんの!」
思わず告げてしまった言葉に、クラウディオは目を見開いた。
エリザベスは一瞬驚いたように瞬きをし、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「まあ……ふふっ、可愛らしい」
その声音は、決して侮蔑ではない。
むしろ慈しみに満ちていて、セシリアの頬はさらに真っ赤に染まった。
「セシリア嬢」
エリザベスは優雅に立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
そっとその手を取り、真っ直ぐに見つめた。
「女性の感性は、この新事業にこそ必要とされますわ。クラウディオ様にとって、そして私たちにとって、あなたの存在はかけがえのないもの」
「……っ」
セシリアは一瞬、言葉を失った。瞳が揺れる。エリザベスが嘘を言っていないことは、直感でわかる。
それでも、胸の奥のざわめきは収まらない。
(わたくしは……クラウディオ様のお役に立ちたい。ただ、それだけなのに……)
彼女は涙を堪え、唇を強く結んだ。
その姿を見つめながら、クラウディオは小さく息をつく。
だが、エリザベスの笑みは少しも揺るがなかった。
(やっぱり、可愛い子ですわね……)
嫉妬で吠える子犬のような少女を、彼女は心から微笑ましく思うのだった。
その場の空気をやわらげるように、エリザベスは軽やかに手を打った。
「では――せっかくですし、この場で試してみましょうか」
翡翠の瞳が不安げに揺れる。セシリアは思わず身を固くした。
「……試す、とは?」
「新事業の方向性ですわ。これは女性のための商品。ならば、女性の目線こそ何よりも必要になります。セシリア嬢、あなたに任せますわ」
「わ、わたくしに……!?」
セシリアの声が裏返り、クラウディオが慌てて口を開く。
「エリザベス様、それは……!」
「副責任者であるならば当然の役目ですわ」
エリザベスは穏やかに微笑んだ。
「クラウディオ様の補佐であり、かつ女性としての感性を持つ――あなたほど相応しい方はいらっしゃらないでしょう」
その一言に、セシリアの頬は真っ赤に染まった。
クラウディオの前で、ここまでまっすぐに期待を寄せられたことはなかったからだ。
(わ、わたくし……期待されているの? 本当に?)
胸がきゅっと高鳴る。
嫉妬心でいっぱいだったはずの心が、不意に別の熱で満たされていった。
「……わかりましたわ」
セシリアは深呼吸をし、姿勢を正した。
「女性にとって日常で最も気になるのは――香りと触感です。貴族の令嬢は化粧品に慣れておりますが、庶民の方々は“使いやすさ”を重視します。べたつかず、香りも穏やかで……しかし清潔感を与えるものが望ましいと」
言葉を重ねるにつれて、その瞳に強さが宿っていく。
エリザベスはにっこりと頷いた。
「まあ……素晴らしい発想ですわ。さすが風の令嬢。香りを重んじる感性は見事です」
「え、えっと……!」
褒められた瞬間、セシリアは頬に熱が集まり、慌てて視線を逸らした。
「べ、別に……普通のことを言っただけですわ!」
その仕草に、エリザベスは小さく笑みをこぼす。
(本当に、嫉妬心むき出しの子犬のよう……けれど、その吠え声の奥に確かな才を秘めているのね)
クラウディオは隣で唖然としていた。
普段は自分の前で気丈に振る舞うばかりのセシリアが、こんなふうに赤面して戸惑う姿など見たことがなかったからだ。
「……セシリア」
無意識に呼びかけると、彼女ははっとして、つんと顎を上げた。
「な、何ですの!?」
「いや……君が、そういうことを考えていたなんて、驚いた」
「そ、そうですの!? ……で、ですが! クラウディオ様に役立てるのなら、わたくしは……!」
言いかけて、顔を真っ赤にして口をつぐむ。
クラウディオは困惑したように笑い、エリザベスはますます微笑ましく思うのだった。
0
あなたにおすすめの小説
城伯末女だけど、案外したたかに生きてます
遥風 かずら
恋愛
城ゲーの城主キャラ、ルーシャ・ホワイトとして寝る間も惜しんで活動する真白光莉は、女友達から心配されるほど沼ってしまい、体調を崩しがちだった。
そんなある日、今日こそやめると決意した光莉はゲームを始めた途端、猛烈な眠気に襲われる。
深い眠りに落ちていた光莉は誰かの声にしつこく起こされている気がして、声を張り上げながら目を開ける。するとそこにいたのはゲームでよく見る女将軍の姿だった。沼っていた城ゲームのキャラになっていた光莉は、自分の身分が城伯爵の末女だったことに嘆くも強固な娘として生きていくことを決意。
期待されているかなんて関係ない、不器用でも城伯の娘として手強く生きてみせる――そう思いながら、戦いと恋愛が繰り広げられる世界に身を委ねるのだった。
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。
「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる