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三章
帰宅を待つ間
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馬の足音がしたような気がして、俺は立ち上がり、戸を開けて縁側に出、耳を澄ませた。
縁側の戸をあけ放った向こうには、広い庭があり、満月の下、丁寧に刈り込まれた草木がはっきりと濃い陰を作る様は、まるで一つの絵のようだ。
しかし、辺りから聞こえるのは、控えめな虫の音だけだった。
俺は春の夜の肌寒さに耐えながら、しばし息を詰め、耳を澄ませる。だが、何も聞こえないと分かると、ふうと息を吐き、後ろ手に戸を閉めた。俺は袴を裁きながら、縁側に胡坐をかいて座り、烏帽子を被った首の後ろを掻いた。
――やっぱり、どっか、落ち着かねえ。
俺は今、とてつもなく立派な屋敷にいた。ここは丹原国の名家である日吉家の家であり、俺が今いる縁側の後ろには、八畳の広い部屋がある。そこは忠頼の隣の部屋で、俺用の部屋だ。敷地は七百坪あり、本殿の他に、馬場、使用人の間、農作地もある。
戦が終わり、俺は、他の数十人の仲間たち――孝太郎や、五郎兵衛、清之助もその中に含まれた――とともに、忠頼に付いて行った。
最初、山奥の小さな村出身の俺には、忠頼の持っている全てが、圧倒されるほど、膨大で、豪勢に感じられた。
忠頼がここに帰ってくると、数十人の従者が道に整列し出迎えていた。忠頼が着物を脱ぎ着する度、飯を食う度、何か書きものをする度に、従者が二人以上集まり、なにくれと忠頼の世話をする。
俺はただただ、唖然とするばかりだった。部屋に入った後で『お前、お殿様なんだな』と、俺が忠頼に言うと、忠頼は『数多いる土地の士族の一つにすぎん』と言った。
数多あるとしても、やはり高七百石、町村数二十一、家数六八十戸、人数二千人の日吉郡が、直轄地として小さいとは到底思えない。
――あれから、約一年が経った。
戦はなくなったが、忠頼と共にいる時間が増えたわけではなかった。忠頼は、会議の為、南波殿に同行し、中央の会議に出ることが多くなったからだ。
だが、それでも俺は、今までで一番と言っていいほど、幸せを感じながら毎日を過ごしていた。戦を経験したあとでは、普通に生きていられる日々は極楽のように感じた。
その上、雨を凌げる立派な屋敷と、毎日食べられる飯がある。なにより、敵襲を知らせる銅鑼の音に、日々戦々恐々とする必要もない。
俺は従者として、屋敷に出入りするようになり、頭に烏帽子を載せ、周防を着るようになった。忠頼の部下たちに、武術の稽古もつけてもらうようになった。時には屋敷を抜け出し、畑や田んぼの野良仕事に精を出しもした。
俺は空を見上げる。遠く遠くにある月を見ていると、心がふと、遠くに沈んでいく気がした。
空に浮かぶ星は、死んだ奴らの眼を思い出させた。隊列を組んですすみ、獲物に群がるアリたちは、過去の戦の戦法について、考えさせた。
だが、俺は、その記憶を、あえてそのまま、頬っておく。俺は葉がさわさわと揺れる音を聞きながら、頬に当たる風を感じ、目を閉じる。
すると、心は星の間に浮かび、月に届く。そうすると、いつの間にか、記憶は波となって、深い夜の闇に溶けていく。
――一年前は、こんな穏やかな日が来るなんて、思いもしなかった。毎日、これからどうなるのか、戦々恐々として――。
俺は目を閉じた。心は自然と、一年前の日々を辿っていく。
縁側の戸をあけ放った向こうには、広い庭があり、満月の下、丁寧に刈り込まれた草木がはっきりと濃い陰を作る様は、まるで一つの絵のようだ。
しかし、辺りから聞こえるのは、控えめな虫の音だけだった。
俺は春の夜の肌寒さに耐えながら、しばし息を詰め、耳を澄ませる。だが、何も聞こえないと分かると、ふうと息を吐き、後ろ手に戸を閉めた。俺は袴を裁きながら、縁側に胡坐をかいて座り、烏帽子を被った首の後ろを掻いた。
――やっぱり、どっか、落ち着かねえ。
俺は今、とてつもなく立派な屋敷にいた。ここは丹原国の名家である日吉家の家であり、俺が今いる縁側の後ろには、八畳の広い部屋がある。そこは忠頼の隣の部屋で、俺用の部屋だ。敷地は七百坪あり、本殿の他に、馬場、使用人の間、農作地もある。
戦が終わり、俺は、他の数十人の仲間たち――孝太郎や、五郎兵衛、清之助もその中に含まれた――とともに、忠頼に付いて行った。
最初、山奥の小さな村出身の俺には、忠頼の持っている全てが、圧倒されるほど、膨大で、豪勢に感じられた。
忠頼がここに帰ってくると、数十人の従者が道に整列し出迎えていた。忠頼が着物を脱ぎ着する度、飯を食う度、何か書きものをする度に、従者が二人以上集まり、なにくれと忠頼の世話をする。
俺はただただ、唖然とするばかりだった。部屋に入った後で『お前、お殿様なんだな』と、俺が忠頼に言うと、忠頼は『数多いる土地の士族の一つにすぎん』と言った。
数多あるとしても、やはり高七百石、町村数二十一、家数六八十戸、人数二千人の日吉郡が、直轄地として小さいとは到底思えない。
――あれから、約一年が経った。
戦はなくなったが、忠頼と共にいる時間が増えたわけではなかった。忠頼は、会議の為、南波殿に同行し、中央の会議に出ることが多くなったからだ。
だが、それでも俺は、今までで一番と言っていいほど、幸せを感じながら毎日を過ごしていた。戦を経験したあとでは、普通に生きていられる日々は極楽のように感じた。
その上、雨を凌げる立派な屋敷と、毎日食べられる飯がある。なにより、敵襲を知らせる銅鑼の音に、日々戦々恐々とする必要もない。
俺は従者として、屋敷に出入りするようになり、頭に烏帽子を載せ、周防を着るようになった。忠頼の部下たちに、武術の稽古もつけてもらうようになった。時には屋敷を抜け出し、畑や田んぼの野良仕事に精を出しもした。
俺は空を見上げる。遠く遠くにある月を見ていると、心がふと、遠くに沈んでいく気がした。
空に浮かぶ星は、死んだ奴らの眼を思い出させた。隊列を組んですすみ、獲物に群がるアリたちは、過去の戦の戦法について、考えさせた。
だが、俺は、その記憶を、あえてそのまま、頬っておく。俺は葉がさわさわと揺れる音を聞きながら、頬に当たる風を感じ、目を閉じる。
すると、心は星の間に浮かび、月に届く。そうすると、いつの間にか、記憶は波となって、深い夜の闇に溶けていく。
――一年前は、こんな穏やかな日が来るなんて、思いもしなかった。毎日、これからどうなるのか、戦々恐々として――。
俺は目を閉じた。心は自然と、一年前の日々を辿っていく。
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