ナナシ荘の料理係

天原カナ

文字の大きさ
上 下
1 / 12

雨の日に、猫と彼女と

しおりを挟む

 死んだ猫を見ていた。
 交通事故なのか、誰かが歩道に避けたそれは、見るからに毛並みが悪くそして硬そうだった。きっと触ると冷たく、そしてぎこちない硬さが手に伝わるのだろう。
 さっさと立ち去るのが普通なのだろうが、篁四郎はどうしてもその死んだ猫から目が離せなかった。
 見ている間にも周りの人たちは篁四郎の横を過ぎていく。誰も死んだ猫のことなど気にしていないようで、立ち止まる人などいなかった。
 時々足を止める人がいたが、猫が死んでいると分かるとすぐに足を動かした。
 今朝は小雨が降っていて、右手には傘を持っている。それでつついてみても、やはり死んだ感触が手に伝わってくるのだろうか。それともなにか硬いものが傘に当たったときと同じだろうか。
 そこに生死はあるのか、ただ単に興味本位だった。
「ダメよ、そんなことしちゃ」
 楽しげな女性の声だった。
 振り返れば、傘をさした同じ年頃の女性が立っていた。
「もう死んでるの」
「多分」
「お墓作らなきゃ」
「え?」
「お墓。死んだら埋めてお墓作るでしょ?」
 にっこり笑う女性の言葉には、それがさも当たり前だと言わんばかりの力がある。
 人が死んだらお墓に入れる。だが、飼い猫なのか野良猫なのかすら分からない、縁のない死んだ猫の墓を作るのは篁四郎の頭にはなかった。
「お墓、作るんですか?」
「そうよ」
「君の猫?」
「違うわよ」
「可愛がってた野良猫とか?」
「いいえ。初めて見るわ」
「じゃあ」
「でも、お墓を作るの」
 柔らかな物言いだけど反論は許さない強さを含んで、女性が鞄からタオルを取り出す。
 流れるような仕草で、タオルで死んだ猫を包むとそれを胸に抱いた。
 あまりにそれが自然な行為で、道ばたで死んだ猫はタオルに包んで抱き上げないといけないという決まりでもあるかのようだった。通りを歩く人たちも、女性の行為に誰も気がつかず、そこに死んだ猫がいたことも知らない顔をして歩いていた。
「死んでるわね」
「そりゃ……」
「かたい」
 タオルの上から猫を撫でながら、哀れむのでもなく、悲しむのではなく、ただ淡々とそう言った。
 死んだ生き物は死後硬直すると聞いているから、きっとそれなのだろう。触れば硬く、冷たいものが手に感じられるのかもしれないが、触る気にはなれなかった。
「君、暇でしょ」
「いや、これから講義」
「昼休み終わって今頃って授業中でしょ。ここにいるってことはサボりか、授業がこの後ってことじゃないかしら」
 答えられなかったのはその通りだったからだ。目の前にあるのは篁四郎の通う大学で、キャンパスの中に人はまばらだ。それは今講義中で、真面目な大学生はみな教室で大人しく講義を聴いているからだ。
「授業まで付き合って」
「なにに?」
「一緒にお墓を作りましょう」
「え」
「この猫のお墓」
「どこに?」
「大学の中は土が多いからどこでも」
「人が来る」
「みんな授業中なんでしょ。大丈夫よ」
 そう言うと彼女は躊躇いなく大学のキャンパスの中に入っていった。
 その中を熟知しているように、淀みなく歩いていくと人の少ない校舎の裏地にある林に向かっていった。
「この大学の人? 学部は?」
「違うわよ」
 さらりと言って、彼女がタオルに包まれた猫を土の上に下ろす。
「私ここの大学生じゃないわ。そんな年でもないしね」
「じゃあ職員?」
 今年大学に入学したばかりの篁四郎と彼女は同じ年くらいに見えて、社会人には見えなかった。
 四年生の先輩よりもクラスの女子の雰囲気に近くて、白いブラウスも小花柄のフレアスカートも、毛先を緩く巻いた長い髪に薄い化粧も、クラスの女子の中にいてもおかしくなかった。
「いいえ。ただの通りすがり」
「……卒業生、ですか?」
「大学はいってないわ」
「……」
 だったら何故キャンパスの中に詳しいのか、そもそも自分は何故付いてきてしまったのか、自分から浮き出た問いの答えを、篁四郎は少しも分かる気がしなかった。
 ただ、はいっと渡された木の棒を受け取った事実だけがある。
「え?」
「これで穴を掘りましょ。猫一匹分なんてすぐよ」
「スコップとかシャベルとか持ってきた方が」
「ないもの。これで大丈夫よ。堅い木の棒だし。二人でやればすぐできるわ」
 しゃがんで、彼女は木の棒で土を掘り出した。仕方ないので篁四郎も一緒に掘る。朝降った雨のおかげで土は軟らかく、手を泥で汚しながら二人で掘っていった。
「埋めたら、石に名前を書いてあげよう」
「名前?」
「そう」
「この猫名前あるんですか?」
「さぁ。野良猫っぽいからないかもね。だったら私たちでつけてあげればいいじゃない」
「名前を」
「なにかいい名前ない?」
「猫っていうとタマ?」
「白い猫だからシロ?」
「安直っすね」
「君もね。じゃあ、雨の日に死んだからアメ」
 ちらりと土から目を離して彼女を見ると、出会ったときと変わらない表情をしている。悲しみも哀れみもなく、ただ土を掘って、手を汚している。
「アメでいいんじゃないですか。甘そうだし」
「よかったねぇ、名前がついたよ」
 彼女が白いタオルの上から死んだ猫を撫でる。案の定タオルに泥がついた。それでも彼女は木にする様子はなく、その塊を撫でていた。
「私、潤子(じゅんこ)って言うんだけど、君の名前は?」
「佐々木田篁四郎(こうしろう)」
「なんか長い」
「テストの時書くの大変っす」
「こうしろうってどんな字書くの?」
「たかむらにしろう。あんまり分かる人いないけど」
 泥で汚れた指で空中に「篁」と書く。その動く指先を潤子がじっと見ていた。
「小野篁?」
「そうです」
「かっこいいねぇ」
「ただ四番目ってだけっすよ」
「兄弟いるんだ」
「兄が三人も」
「賑やかそうで楽しそう」
「年離れてるんで、あんまり」
 篁四郎の一番上の兄は十ほど年が離れているし、すぐ上の兄も六歳離れていて、一緒に遊んだ記憶は薄い。面倒を見て貰ったことはあっても、喧嘩をしたり遊んだりといったことはほとんどなかった。
「そういうもの?」
「そういうものですよ。しかも出来のいい兄三人なんて」
「優秀な兄弟なんだ」
「僕以外は」
 6月のもうすぐ夏という涼しさの中の、湿った暑さがじっとりと汗をかかせる。
 無心で穴を掘るという行為を一緒にしていたら、先ほど会ったばかりということを忘れそうになった。
「あの、潤子さんは名字……」
「潤子って呼んで。名字で呼ばれるの好きじゃないの」
 にっこりと笑っているが、それ以上は聞けない雰囲気で、篁四郎は名前で呼ぶことを決めた。
「篁四郎くんは、サボリ?」
「潤子さんは?」
「今日休みだから、なんとなく遊びに来てみたの。大学って通ったことないから」
「目的があるやつにはいいかもしれないけど、なんとなく入っただけじゃつまらないですよ」
「篁四郎くんはなんで入ったの?」
「兄たちがここの大学出てるので、それで」
「やっぱり優秀じゃない」
「兄たちは、です」
 掘った場所はかなりの深さになっていた。これなら猫を入れて土をかぶせても、その姿が隠れるだろう。
「じゃあ、潤子さん。そろそろ入れますか?」
「そうだね」
 ぽっかりと開いた穴の中に、潤子がタオルに包まれた猫を入れる。それは誂えたようにぴったりだった。
「うん。ちょうどいい」
 二人で土をかけて、潤子が少し大きめの石に「アメ」とマジックで書いて土の上に置いた。それは十分立派なお墓に見えた。
 土をかけるときは木の棒ではなく手を使ったから、二人とも手が泥だらけだった。潤子は建物の中までは熟知しているわけではないらしく、手を洗うべく一番近いトイレに案内した。
 石鹸を大目に出しながら、見も知らずの女性と死んだ猫の墓を作る羽目になるとは思わなかったなと思った。泥は爪の中まで入っており、しばらくこのままなのは仕方ないだろう。
 泥がすっかり落ちたことを確認して、水道を止めると、洗い立てのハンドタオルで手を拭いた。
 トイレを出ると、潤子が傍の自動販売機でコーラを買って待っていた。
「はいこれ、手伝ってくれたお礼」
「ありがとうございます」
 渡されたコーラは冷たくて、潤子の爪にも泥が入っているのが見えた。
「しばらく爪の中に泥入ったまんまかな」
「ですね」
「その間はあの猫を思い出そう」
「アメ、ですか?」
「そう、アメ」
 貰ったコーラを飲んで、この場を立ち去れば潤子とはもう二度と会うことはないだろう。彼女はここの学生でも職員でもないのだから、会う機会はないはずだ。
 それを残念がる理由は篁四郎にはない。だが、死んだ野良猫の墓を作ってやったことは忘れられない気がした。
「いいことしたね」
「え?」
「野良猫のお墓作ってあげたんだよ。きっといいことがあるよ」
「猫の恩返し、みたいな?」
「そうそう」
「今月ツイてないから、いいことあるかな」
 思わずこぼれたのは、本音だった。
 六月に入ってから篁四郎は大きな不運が重なっていた。
「ツイてないってなにがあったの?」
「下宿先がなくなるって言われて、バイト先も閉店するって」
「あら」
 大学に入学して、篁四郎は一人暮らしを始めた。家から通えないわけではないが、ただでさえ目的なく兄たちと同じ大学に入ったのだから、なにか変えたくて一人暮らしを選んだ。
 それは大学近くの定食屋の住み込みのバイトで、住む場所もバイトも得られて一石二鳥だった。
 そうして春から働いて今月の初めに、店主であり下宿先の大家から店も下宿先も閉じることを告げられた。下宿先のアパートは壊して息子夫婦の家を建てるらしい。他の住人はさっさと次の住む場所を決めているようだが、仕送りを実家に頼んでない身としてはすぐに動けない状態だった。
「実家から通うって手もあるんですけど、それはしたくないし。でも敷金礼金を払うほど貯金も貯まってないし。今のとこはバイトすれば敷金礼金いらなかったんですよ。家賃もバイト代から引かれるし安いし、まかないはつくし」
「他に似たような物件探した?」
「探してるんですけどなかなか。授業があるからあんまり遠いとこでバイトもできないし」
「サボってるのに?」
「まぁ、一応出なきゃなとは思ってるんで」
「真面目だねぇ」
 篁四郎は真面目な自分が少しだけ嫌いだった。サボると言っても何度もサボる勇気はなかったし、退屈な授業も一番後ろの席で受けることはしていた。
 バイトは探せばどうにかなるとしても、住む場所を探すのに難航している現在、どうしても講義を受ける気がしなくて午後一の講義に出なかったのだ。
 そうして潤子に会って、死んだ猫の墓を作ることになったのだから、なにが起こるか分からないものだ。
 そう思いながら最後のコーラを飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
「じゃあ、そろそろ行きます。次の講義は出るし」
 きっと一番後ろの席で聴くのだろうが、それでもサボるよりはマシだろうと思った。今の講義が終わるまであと十分。それまで学部棟まで移動しても十分に間に合う時間だ。
「ねぇ、篁四郎くん」
「なんですか?」
「バイト先ってなにしてたの?」
「定食屋です。正門出てすぐのとこの」
「あそこかぁ。でも住むとこないよね?」
「店長がアパート経営もしてるんですよ。めちゃくちゃ古いけど」
 大学の門を出たらすぐにラーメン屋やコンビニやおにぎり屋が並んでいる。その中で定食屋といえば一つしかない。一階建てのその店は大きな台風が来ると飛んでいきそうな古さだった。
 同窓である兄も父も叔父もこの定食屋は通ったらしく、その当時からなにも変わっていないらしい。
 潤子の言うとおり店の二階があるわけでもなく、そこに住み込むのは無理な話だ。実際には近くに古いアパートがあって、そこに住んでいるのだが。
「定食屋で働いてて、一人暮らしなら、料理できる?」
「バイト先ではご飯よそいだり、味噌汁ついだりとかしかやってないですよ。料理は店長が作るし」
「でも一人暮らしなんでしょ?」
「目玉焼きとかなら作れますけど」
「ふぅん」
 潤子はちょっと考えて、軽く篁四郎の肩を叩いた。それはなにか良いことを思いついたといった顔だった。
「ねぇ、篁四郎くん」
「なんですか?」
「うちでバイトしない? もちろん住むところもあるよ」
「……はい?」
「ね、そうしよ?」
 早く次の住む場所を探して欲しいとは店長から何度も言われている。定食屋も夏休み前に閉店すると張り紙が張られている。
 色々と決めないといけないことはある。目の前にそれを手助けするためのものが差し出されたなら、手を取ってもいい気がした。
 バイトの内容も住む場所も聞かないなんて、真面目な篁四郎からするとあり得ないことだが、たまには飛び込むのもいいかもしれない。
 野良猫の墓を作ってやったのだ。
 これは猫の恩返しかもしれない。
「詳細聞いてないですけど、大丈夫なバイトですよね?」
「もちろん。ホワイトだよ。お風呂もトイレもあるし、しかもウォシュレット付き」
「やります」
「採用!」
 詳しいことは講義が終わってから話すと言って潤子が立ち上がる。篁四郎も講義のある学部棟に行こうと立ち上がると、潤子が笑った。
「篁四郎くん」
「なんですか?」
「ようこそ、ナナシ荘へ」
 それは篁四郎の新しい住処で、バイト先の名前だった。
しおりを挟む

処理中です...