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家の味
しおりを挟む目覚まし時計で起きて、カーテンを開けて天気を確かめる。そのまま台所に行くと、食パンをトースターに放り込む。
それが茜が起きてからの一連のルーティンだ。
オレンジジュースを飲むことも、焼けたトーストにマーガリンとジャムを塗ることも変わらない。
冷蔵庫を開けてジャムの瓶を出すと、意外と軽いことに気がついた。
「そういえば残り少なかった」
今食べているのはシャインマスカットのジャムだ。それを塗りながら、次はどうしようかと考える。
「まだ食べてないジャムあったっけ?」
トーストとオレンジジュースという朝食を続けて数ヶ月。そろそろ飽きてきたというのが本音だ。
お湯を注いでできるスープを作ってもいいが、真夏の今にはちょっと暑い。卵料理を作るというのも手だ。オムレツとかスクランブルエッグとかハムエッグとか。
それならご飯に卵料理と味噌汁とかの方が好きな気がする。
「卵かぁ」
どうしても卵となると、川井の件を思い出す。あの大型スーパーに行っても、高級卵売場は目を逸らしてしまいがちだ。
冷蔵庫にはたまに卵が入ることもある。
でも少し前みたいに毎日切らさず入っているということはない。毎朝の卵かけご飯を食べなくなって、賞味期限ぎりぎりに慌てて炒り卵にしたり、ゆで卵にしたりすることも少なくない。
「あ、やばっ、時間!」
色々考え込んでいたら、いつの間にか思っていた以上に時間が過ぎていた。
慌てて最後の一口になったトーストを食べ、オレンジジュースで流し込む。使った皿やグラスを流しに置くと、洗面所に飛び込んで歯磨きと洗顔を済ます。化粧と着替えをすると、いつも出社している時間だ。
バッグを手に取ると、玄関へ急ぐ。
いつも履いているパンプスに足を入れながら、ドアを開けた。
「うわっ」
「え?」
ドアの目の前にいたのは天真だった。どうやら通り過ぎるのと、茜がドアを開けるタイミングが重なってしまったらしい。
「おはよ」
「おはよう」
パンプスをきちんと履きながら、鍵を締める。天真は立ち止まっているから、一緒に出社するために待っていてくれるらしい。
「ずいぶん慌ててるけど、寝坊した?」
「そんなんじゃないけど、ぼーっとしてたら時間が過ぎちゃって」
「あーあるあるだな。朝の時間ってあっという間に過ぎるよな」
「そうなの!」
そんなことを話しながら社宅の階段を下り、役所への道を歩く。
「天真は今日も現世に行くの?」
「行くよ」
「現世ってどんな感じ?」
「ここと変わらない」
現世のテレビもニュースも映画もここで見られる。食べ物だって変わらないし、四季だってある。
ただ生きているか、死んでいるかの違いだけだ。
ここで暮らしているのも、生きているようなものなのに、違うものらしい。ここでの記憶しかない茜には、一度死んだという感覚も薄い。
「おみやげとか買えたらいいんだろうけど、できないしなぁ。写真も仕事中は撮れないし」
「いいよ、大丈夫。覚えてないだけだから」
「思い出したら、教えてよ」
「なにを?」
「色々。住んでた町のこととか」
「うん」
そう約束して、自分たちの課にそれぞれ歩いてく。天真と歩いているのを見ていたらしい麗に茶化されたが、それは適当にあしらっておいた。
交代制の昼休憩は、日替わりだ。
麗と白石が先の日もあれば、神代と茜が先の日もある。
今日は麗と白石が先の日だった。
昼になれば朝食べたトーストは消化されて、身体は空腹を訴えてくる。麗たちの昼休憩が終わるまで、飴を舐めてしのいだ。
(やっぱり朝はご飯の方がもつなぁ)
そんなことを思いながら、書類を折っては、封筒に入れる。
電話は鳴らないし、家永の来訪以来、ここを訪れる人もいない。相変わらず隣の生活案内課は昼だというのに、訪れる人が途切れない。
仕事の斡旋、今の仕事への不満、転職希望への案内、住居の近隣トラブルなど聞こえてくる内容は多岐に渡る。
大変そうだなと見ていると、ぐううっとお腹が鳴った。思わず隣に座る神代を見ると、目があった。
「今の、聞こえました?」
「腹減ってるのか?」
「ええ、まぁ」
「ちゃんと朝食べてるか?」
「食べてますよ」
お腹が鳴るのを神代に聞かれたことが恥ずかしすぎて、思わず手元に目を落とす。
「腹が鳴るのは健康の証だな」
そう言って神代が小さく笑うのが聞こえた。
「生きている証とも言うが、俺たちは死んでいるからな」
「そうですね」
「あと十分で麗さんたちの休憩は終わる。それまで頑張れ」
「はい!」
お腹が鳴るのを止められないまま、茜は作業を続けた。神代はそれを聞いていないふりをしているのか、なにも言わない。
そうしているうちに麗と白石が帰ってきた。
「ただいま」
「戻りました」
「おかえりなさい!」
待ってましたとばかりに茜が迎える。
「今日の食堂の定食はしょうが焼きよ」
「美味しそう」
「美味しかったからオススメよ。けんたろなんて冷やし中華よ? 確かに暑いけど、食堂のしょうが焼きは美味しいんだから」
「人の昼食にケチつけないでくださいよ」
そんなやりとりをする麗と白石を見ながら、茜は引き出しからランチトートを取り出して、バッグから財布とスマホを入れる。
「じゃあ、お昼休み行ってきます!」
そう宣言するように言って立ち上がると、神代も立ち上がった。
「?」
神代はいつも昼食を持ってきていて、茜が食堂に行っても自席で座っている。お茶でも淹れに給湯室に行くのだろうかと思っていると、神代は鞄から財布を取り出すと、ポケットに入れた。
「神代さんもどっかに行くんですか?」
「俺も食堂に行く」
「あら、珍しいわね。みちおが食堂なんて」
茜が役所で働くようになってから、神代が食堂に行くのは見たことがない。なんの心境の変化だろうかと思っていると、神代が少し恥ずかしそうに弁当袋を鞄から取り出した。
「昨日の夜炊飯器の電源入れるの忘れてて、米炊けてなくて。おかずだけ持ってきたから、ご飯を食堂で買おうかと」
「え、神代さんって自分でお弁当作ってるんですか?」
それは初めて知った事実だ。
茜はいつも食堂に行くし、神代が弁当を食べている姿を見たことはない。食堂から帰ってきたら、もう神代は食べ終わっていて、食後のお茶を飲んでいる。だから、いつも神代がなにを食べているのか知らなかったのだ。
「そうだが?」
驚く茜に、神代がさらりとそう返す。それがそんなに驚くことかと、困惑したような顔をして。
「ハチは空腹なのだろう? 早く食堂に行くぞ」
「あ、はい!」
食堂へ歩き出した神代に、茜も慌ててついて行く。背後から麗の「いってらっしゃーい」と言う声が聞こえた。
食堂につくと、一番混雑している時間帯は過ぎたのか、列は短かった。日替わり定食がなくならないようにと祈りながら、券売機にたどりつくとまだ売り切れのランプはついていなかった。
そのことに安堵して、お金を入れて日替わりのボタンを押す。隣の券売機では、神代がご飯と味噌汁の券を買っていた。
お盆を持って神代と一緒に列に並ぶ。
日替わりとご飯と味噌汁を受け取る場所は同じらしい。
「神代さんって、結構料理するんですか?」
「そうだな。朝昼晩作る」
「え、すごい」
「趣味みたいなものだ」
「へぇ」
朝はパンと焼いて、夜は適当にスーパーで総菜を買ってくるか、簡単な炒め物を作るくらいだ。とてもじゃないが、昼用に弁当を作るスキルなんてない。
「はい、日替わり定食とご飯大と味噌汁おまちどう!」
目の前に今日のメインであるしょうが焼きが置かれる。一緒に出されるご飯と味噌汁、それに小鉢を自分のお盆に移すと、水かお茶をコップに入れて席を探す。
早い時間に食堂を利用した職員たちがいなくなり、席は比較的空いていた。
「神代さん、あそこ空いてますよ」
ご飯と味噌汁だけ乗せられたお盆を持っている神代に声をかける。それだけしか食べない人のようで、ちょっと面白い光景だ。
「一緒に食べていいのか?」
「むしろなんでダメなんですか?」
「そうだな……」
「他に一緒に食べる人もいませんし、一緒に食べましょうよ。神代さんと昼ご飯食べるの初めてですし」
そう言って茜が空いている席に座ると、神代も目の前の席に座る。いつも横にいる人が目の前にいるのは不思議な感じがした。
「どうした?」
「い、いえ。どんなお弁当なのかなぁって」
「普通だが?」
神代がお弁当入れから四角いタッパーを取り出す。
「いつもは弁当箱なんだが、今日はおかずだけだからこんなのに入れてきた」
言い訳するように言って、蓋を開ける。
「わぁ」
現れたおかずに、茜は思わず声を上げた。
唐揚げに卵焼きにほうれん草のお浸し、それに彩りのプチトマト。思った以上にしっかりとしたメニューに驚きを隠せない。
「そんなに見るようなものじゃないと思うんだが」
「そんなことないです!」
「空腹だろう。しょうが焼きが冷めるぞ」
「あ、そうですね。いただきます!」
「いただきます」
味噌汁を一口飲んで、しょうが焼きに手をつける。
「んー美味しい」
いつもは心の中で言う言葉も、今日は神代がいるから口に出した。しょうがのきいたタレが美味しい。ご飯が進むし、空腹の身体に染み渡る。
しょうが焼きをご飯の上に一度乗せて食べるとできる、ちょっとタレがついたご飯というのもまたたまらない。
目の前では神代が唐揚げを食べていた。
「神代さん、朝から揚げ物したんですか?」
「いや、前の日に作って置いておいた。ほうれん草も作り置きだし、朝作るのは卵焼きくらいだな」
「卵焼き、めちゃくちゃ綺麗ですね」
「慣れたらこのくらいできる」
神代の弁当箱に詰められている卵焼きは綺麗に巻かれていて、焦げたりしてもいない。茜自身自分で卵焼きは作らないし、食べたとしてもスーパーで売っている弁当についてくるやつくらいだ。
思わずその綺麗で美味しそうな卵焼きを見ていると、神代が笑った。
「一つ食べてみるか?」
「え! いいんですか? あ、しょうが焼き食べます?」
「いらない」
茜の提案をすぐさま断って、神代は箸を逆さまにして弁当箱から卵焼きを一つ取り、しょうが焼きが乗っている皿の端に置いた。
「ありがとうございます」
「卵焼きは各家庭の味が出るからな」
「じゃあ、これは神代さん家の味ですか?」
「できるだけ母の味には近づけているが、俺のいた時代は男子は厨房に入るなという時代だったからな。舌で覚えているだけ試行錯誤した」
「そんな時代があったんですねぇ」
いずみ屋の厨房にいるのも、ラーメン屋の店主も男性だ。そんな時代があったなんて、それはどれほど昔の話なのだろうか。
「いただきます」
「ああ」
ぱくりと卵焼きを食べる。ほんのり甘くてしっかりとした味付けの卵焼きだった。
「美味しいです」
「それはよかった」
「でも」
「ん?」
「知らない味ですね」
これは神代の家の味だ。スーパーの弁当についている卵焼きとも違っていて、記憶のどこにもない味だ。
「だったら、お前の家の味は違うんだろう」
「え?」
「卵焼きは各家庭で味の差があるが、地域差もある。俺とハチでは生まれ育った場所が大きく違うのだろう」
天真のカレーの肉に地域差があるという話を思い出した。卵焼きにもそんなものがあるのか。だったら、いつか自分の生まれ育った地域がわかるかもしれない。
「神代さんにとって卵焼きはお母さんの味なんですね」
「そうだな。当時卵は高級でなかなか食べられなかったが、たまに作ってくれる卵焼きが嬉しかったのを覚えている」
「私も、お母さんの卵焼き思い出したいです」
卵焼きの味もカレーの味も思い出したい。もしかしたら母親には、もっと別の得意料理があったかもしれない。
いつか思い出したときに再現できるように、もっと料理をしようと思った。
「神代さん。料理ってどうやったらできます?」
「そんなの作るしかないだろう。失敗して、成功して上達するもんだ」
「レシピとか」
「そんなもん本でもなんでも見ればいいだろう。今はレシピ用のアプリもあるし、どうにでもなる」
「アプリは盲点でした」
そんなアプリがあるなら、あとで入れよう。そうして今夜の夕食はなにか作ってみよう。
「このしょうが焼き美味しいので、あとで食堂のおばちゃんにレシピ聞いてみます」
「きっと適当に入れてるって言われるぞ」
「入れるものがわかればいいんです!」
日替わり定食を平らげて、茜は人の波がなくなって暇そうな食堂のおばちゃんを掴まえて、しょうが焼きのレシピを聞いた。
それは神代が言ったように調味料を適当に入れたものだったが、それでも知ることができただけいい。
「調味料がわかれば、どうにかなる気がします」
スマホのメモ帳に入れられている調味料を打ち込みながら茜が言うと、食後のお茶を飲んでいた神代が呆れたように言った。
「ちゃんと味見しろよ」
「わかってますって」
「しょうが焼きくらい、俺も作るが」
「もしかして、自分に聞いて欲しかったとか?」
「そんなことはない」
否定しながら、神代がお盆を持って席を立つ。茜も自分のお盆を持って、返却口に向かう神代を追う。
意外な神代の一面を見たなと思った昼休みだった。
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