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舌は故郷
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暑いという不快さで目が覚めた。
カーテンの隙間からは明るい日差しが入ってくる。
「あつい……」
ごろりとベッドの上で寝返りをうつと、髪は首に貼り付き、パジャマ代わりのティシャツはじっとりと濡れていた。
時計を見るとまだ起きるには早い時間だ。
だが部屋の中のあまりの暑さに観念して、茜はベッドからおりた。
まっすぐに窓に向かい、カーテンを開け、窓を開ける。涼しい風が入ってきて、心地が良い。
このまま二度寝をするかと、またベッドに戻ると、風が頬を撫でていった。
「きもち……」
睡魔はすぐにやってきて、あっという間に茜は二度寝が招くまま眠りに落ちていった。
それからどれくらい時間が経ったのか、次に茜が目を覚ましたときには、部屋の中の暑さはまた元に戻っていた。
「あつい!」
時計を見ると、あれから二時間経っていた。
二度寝をする前に茜の頬を撫でていた風はぴたりと止まり、強い日差しが部屋にそそぎ込まれていた。
もう初夏と言っていい時期だ。
ベッドには冷感敷布を敷いているし、着ているものもティシャツにショートパンツという涼しい格好。
いつクーラーをつけるかということで、茜は毎晩葛藤して、つけずに寝て、朝後悔するというのをここ数日繰り返していた。
社宅には入居したときから、クーラーが設置されている。あとはスイッチを入れるだけだ。だが、電気代がかかると思えば、躊躇う気持ちもある。
「なんで死んでまで暑い目にあわなきゃなんないのよ……」
そんな悪態をつきながら、身体に巻き付いたタオルケットをはがして、ベッドからおりる。そのまま台所に行くと、冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスにそそいだ。
寝起きに冷たい麦茶を一気飲みするのは、お腹に悪そうだが、もう死んでいる身だ。問題ない。
火照った身体に冷たい麦茶が美味しくて、飲み干したグラスに、二杯目の麦茶をそそいだ。それを飲み干すと、網戸を開けてベランダに出た。
風は部屋の中までは入ってこないが、ベランダに出れば時々吹いている。
町並みを眺めながら、今日一日のことを考えた。掃除をして、洗濯をして、シャワーも浴びたい。そしたら、買い出しに行こう。あの大型スーパーに行ってもいい。あそこはジャムの品揃えがいいから、次に食べるジャムを選びに行くのもいいだろう。
ラフランスのジャムも杏もいちじくも美味しかった。
次はなんにしよう。
そこまで考えて、あまりベランダにいると日に焼けてしまうなと思った。焼けたくない理由は特にないが、日に焼きすぎると痛くなると聞いた。それは避けたい。痛いのは好きではないし、熱中症とやらになるのも嫌だ。
「よお」
さて部屋に入るかと町並みに背を向けた時、天真の声がした。天真の家の方に顔を向けると、ベランダの仕切から顔を覗かせて、こっちを見ている。
「おはよう」
「おはよ」
「洗濯物干してあるかもしれないから、あんまり覗かないでくれる?」
「今日は天気がいいから、よく乾くな」
眩しそうに天真が空を見上げる。つられて茜も空を見ると、鳥が一羽飛んでるのが見えた。
「あの鳥も、転生するのかな?」
「らしいな」
ふと思ったことを口にしたら、天真はすぐに答えてくれた。
「来世は鳥じゃないかもしれないし、別の動物かもしれない。人間かもしれない。でもせっかく飛べてるんだから、ここでは目一杯飛んで欲しいよな」
「そうだね」
「なぁ、今日休みだよな」
「そうだよ。天真も?」
「うん」
シフト制の天真と休みがかぶるのは久しぶりだ。朝会うことは多いし、役所ですれ違うこともあるから、顔を合わせることは多い。
でも休みがかぶるのは一ヶ月に2、3回くらいだ。
「なぁ、昼飯食いにいかね?」
「いく」
休みが合って、こうやってベランダで出会えばこの会話は自然と出てくる。
友人というのはこういうことをいうのかもしれない。
「なに食う? いずみ屋?」
いずみ屋は天真行きつけのあの定食屋だ。一緒に何度も行ったし、一人でも行ったことがある。だけど、今日は暑いし、大盛りご飯を食べるのはなんとなくお腹が違うといってる気がする。
「あ、そうだ」
「ん? なんか食いたいものある?」
「とんこつラーメン食べに行こう」
「なんかオススメあんの?」
「この前見つけた」
あの安くて美味しくて替え玉一個無料のとんこつラーメン屋が頭をよぎる。店名は覚えていないが、場所は覚えているし、いずみ屋を教えてくれた天真に教えたいと思っていたのだ。
「替え玉一個無料!」
「いいじゃん! じゃあ十一時半にな」
「わかった!」
「じゃああとでな」
「うん」
そう言って二人ともそれぞれの家の中に入る。
時計を見ると十時過ぎ。
まだ時間に余裕はあるから、洗濯と掃除くらいはできるだろう。洗濯機に洗濯物を放り込んで、洗剤と柔軟剤を入れる。スイッチを入れると、掃除機をかけた。
部屋中に掃除機をかけて、電源を切ると、隣の天真の家からも掃除機の音が聞こえてきた。どうやら天真も時間まで掃除をしているようだ。
ふと茜は自分の格好を見た。
寝間着代わりのティシャツにショートパンツ。それに櫛でといてもいないぼさぼさの髪。
これを天真に見られたと、今更ながら恥ずかしく思えてきた。
休日の朝にベランダで会うときはいつも偶然だから、寝間着代わりのスウェットや部屋着で会うのがほとんどだ。だけど、こんな薄着で会うことはなかった。
(この格好はまずかったかな)
この考えが正しいかどうかはわからないが、そう思えてきたら恥ずかしくてたまらない。
隣から聞こえてきた掃除機の音が止まる。
今更ながら、こんなにも生活音が聞こえるほど近くにいるのだと思った。
(今度からベランダに出るときは気をつけよう)
天真がいつ休みか把握していない。だから、会うのはいつも急だ。いつ会ってもいいようにせめて露出の多い格好で出るのはやめようと思った。
そんなことを思いながら、今日の服装を考えていたら、洗濯機が終了の音楽を流す。なんとなくショートパンツをスウェットにはきかえて、ベランダに洗濯物を干した。
天真が出てくることはなかったけど、念には念を入れて、だ。
洗濯物を干し終えたら、出かける準備だ。
顔を洗って、薄く化粧をしたら、先日買ったばかりのワンピースを出した。一緒に買った薄手のカーディガンもあわせて。
夏物を全然持っていなかったから、少しずつ増やしている最中だ。サンダルも買ったし、日傘も買った。
休みの時に着るくらいの私服もあるが、それでも気に入った服を着るのは楽しい。
着替えて、スマホでニュースを見ていたら、そろそろいい時間だ。家を出て、天真の家のチャイムでも鳴らしてやろうかと思っていると、茜の家のチャイムが鳴った。
そういえばこの家のチャイムが鳴るのは初めてだ。
「はーい」
のぞき穴から外を見ると、天真が立っていた。鍵を開けてドアを開ける。
「よぉ、そろそろ行こうぜ」
「うん。ちょっと待って。すぐ行く」
急いで部屋の中に引き返すと、バッグにスマホを入れて、玄関に戻る。出しておいたサンダルを履いて、外に出ると天真が待っていた。
「お待たせ」
「……なんかいつもと違わね?」
「服?」
「馬子にも衣装ってやつか」
「ちょっと!」
「いやいや、似合ってるって。珍しいな、そういう格好」
「……うん」
似合っているという天真の言葉が嬉しい。いつもは麗や六花が新しい服を着ていったら誉めてくれる。いつもと違う人物からの賞賛も、意外と嬉しいものだ。
「行こうぜ。オレ、腹減った」
「私も」
「ラーメン屋この近く?」
「うん」
社宅を出て、ラーメン屋への道を歩く。いつもは夕方の薄暗い時間に歩く道を、昼間に歩くのは景色が違って見えて楽しい。
「この前さ、オレ初めてバス運転させてもらった」
「お迎えに?」
「そう。ミニバスだけど、色んな人乗せたよ」
「天真はさ、いつか自分の両親を乗せたいって思う?」
「そうだな。親はびっくりするだろうけど。あ、その前にじーちゃんばーちゃんたちだな」
いつも行くスーパーを通り過ぎて、あの黄色い暖簾の店の前に行く。明るい中でゆっくりと店外を見たが、とんこつラーメンと書かれている以外、店名のようなものはなかった。もしかしたら「とんこつラーメン」というのが店名なのかもしれない。
「ここ」
「いいじゃん。雰囲気あるし」
茜と天真が店内に入ると、タオルを頭に巻いた店主が元気に挨拶してきた。
「いらっしゃいませ! お好きな席どうぞ」
店内はクーラーがきいていて、扇風機も回っている。でもカウンターのすぐ向こうにある厨房からの熱気が伝わってきて、少しだけ暑かった。
以前座った真ん中辺りの席に座ると、すぐにお冷やが出てくる。
「天真なにする?」
「ラーメン。お前は?」
「私もラーメン」
「じゃ、決まりな。すみません、ラーメン二つ」
「あいよ」
まだ混雑のピークではないのか、客は茜たちだけだ。
「とんこつラーメンとか久しぶり」
「生きてたときは、食べてた?」
「うん。大学の近くにあってさ。安いし、替え玉もできるしって、よく行ってた。お前、よくここ来んの?」
「この前初めて来た。ラーメン屋って初めてで、でもなんか肌に合うっていうか」
「じゃあ、お前、九州出身なのかもな」
「きゅうしゅう?」
日本地図は知識として知っている。でも行ったことがあるとか、住んでいたことがあるといったことはわからない。
「お前、まだ記憶ないまま?」
「うん」
「不安とかないの?」
「ない」
厨房から麺を湯切る音が聞こえてくる。もうすぐラーメンができてくるだろう。
「なにもなさすぎて、不安もないって感じ」
「そっか」
「はい! ラーメンお待ちどうさま」
カウンターの上に赤いどんぶりが二つ置かれる。それをテーブルにおろすと、二人でいただきますと言って食べ始めた。
「うめぇ。やっぱとんこつは店に限るな」
ずるずると麺をすすっていると、天真が感嘆の声を上げる。
「そうなの?」
「インスタントと全然違うしな。あ、紅ショウガある。いれよ」
嬉しそうに言って、天真が紅ショウガをどっさりとラーメンの中に入れる。スープの色が一気にピンクになった。
「そんなに入れるものなの?」
「美味いよ」
「へぇ」
そんなに入れてしまうと味が変わってしまいそうだ。流石に天真の真似をするのは怖くて、茜は少しだけ紅ショウガを入れた。
「おじさん、替え玉一つお願いします!」
隣で麺をほとんど食べた天真が注文する。
「あ、私もお願いします!」
「あいよ」
二人の声に、すぐに店主が麺を大鍋の中に放り込む。すぐにできあがるから、それまでに残った麺をすすった。
「お前、結構よく食べるよな」
「そう?」
「うん。大学の女子も替え玉するやつあんまりいなかったし」
「成長期だから?」
「外見年齢通りならな」
「替え玉おまち!」
店主の声がして、目の前に皿に乗った麺が差し出される。それを受け取ると、どんぶりの中に入れた。
麺とスープを馴染ませて、無心ですする。
「ごちそうさまでした」
「はやっ」
「こんなもんだろ。競うもんじゃねぇし、お前はゆっくり食えよ」
「うん」
店内はいつの間にか人が増えて、あちこちで注文が入る。ラーメンだったりチャーシュー麺だったし、ネギ抜きだり。それを一つずつ聞きながら、店主は確実にこなしていった。
「ごちそうさま」
天真に遅れて茜もラーメンを食べ終える。水を飲んで、口をさっぱりさせると、もう満腹だ。
「行くか?」
「そうだね」
ここに長居は無用だ。きっとまだ客は次から次へと来るだろうし、食べ終わったものは次の客へ席を譲るべきだろう。
天真がカウンターの上に食べ終わったどんぶりとお冷やの入っていたコップを置くのを見て、茜もそれに習う。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました!」
会計をして、外に出ると、背中に店主の声が追いかけてきた。
「またどうぞ!」
満腹な身体は、心も満たされている。
「はー食った食った。美味かったな」
「うん」
「お前これからどうする?」
「大型スーパー行こうかなって思ってるけど」
「それオレもついてっていい?」
「いいよ」
昼を食べたら、別行動と思っていた。だが、天真の申し出を断る理由も特にはない。あそこは近所のスーパーにはないものがたくさん売っているから、天真もなにか買いたいものがあるのかもしれない。
社宅に行く道ではなく、駅への道へと歩いていく。来た電車に乗って、二駅。窓からはいつも見る大型スーパーの看板が見えた。
「天真はあそこよく行くの?」
「いや、全然。行ってみたいとは思ってたけど、いつものスーパーに行っちゃうんだよな。お前は?」
「たまに行く。ジャムの品揃えがいいんだ」
「朝パン派?」
「最近はね」
卵かけご飯を食べなくなってもうだいぶ経つ。卵は買う。近所のスーパーで六個入りの安いやつを。それを炒り卵にしたり、ラーメンや味噌汁に落とすのはよく食べた。
でもあの高級卵で食べる卵かけご飯は、まだ遠ざかったままだ。
電車を駅に着いて、外に出る。電車の中はクーラーがきいていたから、外の暑さが一気に押し寄せてくるようだった。
「あちぃ」
「そうだね」
「お腹もう少し落ち着いたら、アイス食わね?」
「食べたい」
「さっぱりしたやつ食いたいな」
「いいね。ソーダ味とか」
日差しを浴びながら、大型スーパーへの道を歩き、着いた先は天国だった。クーラーがきいていて涼しい。休日だからは人は多いが、混雑して大変というわけじゃない。
「私食品の買い物だけだけど、天真はどうする? なんか見てくる?」
ここには服屋も雑貨で本屋も揃っている。見たいものがあれば別行動して、時間を決めて集合すればいい。
「いや、オレも食品みたいから。ついてく」
そう言うと天真は買い物カゴを二つ取って、カートの上と下に乗せた。
「そんなに買うの?」
「違げぇよ。上がお前で、下がオレ」
「ああ」
どうやらカートを押してくれると言っているらしい。断る理由も特にないし、茜は天真の申し出を受け入れた。
「天真ってそんなに頻繁に自炊するの?」
「結構するよ。家の味再現するのに凝ってる」
「家の味?」
「まぁほとんど台所で手伝いってしたことないから、手探りだけどな」
そう言いながら、天真が茄子をカゴに入れる。その横で茜は安売りをしていたアボカドを手に取った。
「女子らしいチョイスだな」
「だっておいしいし」
「確かに美味い。オレも買おうっと」
アボカドもカゴに入れて、野菜売場を通り過ぎるだけで天真のカゴはすでに色々入っている。
「刺身いいのいっぱいあんじゃん!」
魚売り場に来ても天真の買う手は止まらなくて、鮭の切り身をカゴに入れていた。茜はここでいつも買うもずく酢をカゴに入れる。
「渋いな」
「近所のスーパーだとからし入りが多いんだよ。ここのはそういうの入ってなくて美味しい」
「からし嫌い?」
「まぁ得意ではないかな」
お子様だと揶揄されるかと思ったが、天真はそれ以上なにも言わず、肉売場へと歩いていく。その途中、茜は醤油を買って、天真は油を買った。
レトルト売場で、中華の素でも買いたいなと茜が思っていたら、不意にいい匂いが鼻をくすぐった。
「カレーの匂いがする」
「あ、本当だ」
二人でカレーの匂いの発生源を探すと、レトルト売場の前で、カレーの試食をしているのが見えた。
「あの匂いか」
「カレーの匂いって満腹忘れさせるね」
「確かに」
二人ともついさっきラーメンを食べて、替え玉までしたのだ。それでもカレーの匂いは食欲を刺激する。
「今日カレーにすっかな」
天真はそう言うと様々なメーカーのカレールーが並ぶ売場に行くと、迷わず一つを手にとってカゴに入れた。
「そのルーでいいの?」
ここには色んなカレールーが揃っている。近所のスーパーにないものだってある。たまには珍しいメーカーのものを使ってもいいんじゃないかと言外に潜ませて茜が言うと、天真はあっさりと頷いた。
「うん。うちのカレーはこれだし」
「それってお母さんの味ってやつ?」
「まぁそうだな」
「いいねそういうの」
茜がカレールーの棚を見上げる。カレーを作ったことは何度ある。だけど、どのカレールーがいいのかわからなくて、近所のスーパーでは並んでいる順に買っていったし、ここに来ると美味しそうなものを手に取った。
「お前はなに使ってる? カレーのルー」
「適当に買ってる。自分の家の味とかないし」
「じゃあ、今度これ買ってみろよ。美味いから」
そう言って天真が自分が買ったものと同じカレーのルーを、茜のカゴに入れる。
「あ、ちょっと勝手に」
「いいじゃん。日持ちするものだし。もしかしたらお前ん家のカレーの味と同じかもじゃん?」
「そんなこと」
「忘れてるなら、思い出すかもしれないし」
「そうだね」
天真に入れられた緑色のカレーのパッケージに見覚えはない。もちろん近所のスーパーで売ってるのを見たことはあるが、遠い記憶の中にあるかと言われたら、そこはただ真っ白な場所があるだけだ。
「今日カレーにするなら肉も買わないとな。お前はカレーになんの肉入れる?」
「牛肉」
「やっぱお前西日本出身だよ」
「なんで?」
「東日本は豚肉で作るのが多いんだよ。うちも豚肉だったし」
「カレーって牛肉で作るんじゃないの?」
「別になんでもいいらしいぜ。手羽元でチキンカレーにしても美味いし」
カレーに牛肉を入れると思っていたのは、パッケージにそう書いてあったからだ。なんとくそういうものだと思っていたし、食べても違和感を感じなかった。
それは忘れてしまった生前の記憶の端っこなのだろうか。
「お前、記憶なくて料理どうしてんの?」
「焼くとかしかできないけど」
通りすがりの中華レトルトコーナーで、茜は麻婆豆腐の素と回鍋肉の素をカゴに入れる。こういうのは便利で美味しくて助かる。
「じゃあ、カレー作ったらお裾分けしてやるよ」
「でも私も同じルー買うし」
「別に今日作るわけじゃないだろ。カレーって鍋いっぱいにできるし、しばらく続くんだよな。もらってくれるとありがたいし」
「それなら……」
作る分量がわからなくて、大量に作ってしまったことは、茜にもある。それならばと天真の申し出をありがたく受け入れることにした。
「天真の家の味かぁ」
「まぁな」
「家庭料理って記憶にないから、楽しみかも」
「大丈夫だって。お前は忘れてるだけだから」
「え?」
「お前の生前は確かにあったんだから、そのうち思い出すって」
生前は確かにあったのだ。だから死んで、ここにきた。
たったそれだけの言葉なのに、いつも時々くすぶってくる気持ちが吹き消された気がした。
「天真って、いいやつね」
「なんだそれ」
それから肉売場に行って、豚肉を選んだ。茜も炒め物に使えそうな豚肉をカゴに入れる。
最後にアイス売場に行って、ソーダ味のアイスをそれぞれ買った。
別々に会計して、いっぱいになった買い物袋を持って、空いているソファーでアイスを食べた。
「そういえば、誰かと買い物って初めてかも」
「まじか。でもそういえばオレもここに来てからは一人で買い物してたもんなぁ」
「友達とかいたのかな。生きてた頃の私は」
「いたんじゃねぇの。葬式で泣いてくれるようなやつ」
「いたらいいな」
「いたって」
アイスをガリガリ食べながら、天真が言う。それは知っているかのように断定的で、ちょっと笑ってしまった。
「ここでは天真が友達なのかな」
「まぁ同期だしな」
「隣人だし」
食べ終えたアイスの棒を傍らにあったゴミ箱に入れて、天真が立ち上がる。
「そろそろ帰るか。カレー作らないといけないし」
「うん」
「そういえば」
「なに?」
「お前、ベランダにショートパンツで出るのはいいけど、あれでゴミ捨てとか行くなよ」
「は?」
天真が言うのは今朝の茜の格好のことだ。あれはまずかったかなと思ってはいたが、直接言われるとも思わなかった。
「い、今頃言わないでよ!」
「あははっ」
「デリカシーとかないの!?」
「ない」
怒る茜と笑う天真は、そのまま駅へと歩き出した。どんなに茜が言っても、天真には響いてないようで、それが悔しい。それは生前の記憶があるなしの差か、それとも年齢の差なのかわからないけど、まるで響いていない雰囲気に腹が立つ。
電車に乗っているうちに、怒るのも馬鹿らしくなって黙ると、まるで気にしていない天真が言う。
「カレー作ったら持ってくから、ご飯炊いとけよ」
「……わかった」
「お腹空かせて待ってろ」
「美味しいの作ってよ」
「もちろん」
仏頂面のまま天真と家の前で別れて、家に入ると茜はクーラーのスイッチを入れた。涼しい風が、気持ちを落ち着かせてくれる気がする
ワンピースを脱いで、ティシャツとスウェットに着替えると、米を研いで炊飯器にセットした。
久しぶりに誰かとご飯を食べて、初めて誰かと買い物をした。楽しくなかったというわけじゃない。
思い返せば純粋に楽しかった。
それを生前の自分はしていたのだろうか。
そういう疑問の方が先に出てくる。
天真が言ったとおり、確かに自分には生きていた頃があるはずなのだ。
どうして忘れてしまったのかはわからないけど、思い出したい気持ちはここに来たときより強くなった気がする。
洗濯物を畳んでいると、チャイムが鳴って、小鍋を持った天真が立っていた。お裾分けのカレーを茜に渡すと、すぐに帰って行こうとする天真を、茜は呼び止めた。
「天真!」
「ん?」
「今日楽しかった。ありがと」
「そりゃよかった」
「カレーもありがと」
「おう」
「じゃあ」
「じゃあな」
ドアを閉めると、隣からもパタンというドアを閉める音がした。鍵をしめて、鍋の蓋を開けると予告通りカレーが入っていた。茄子の入ったカレーだった。
炊きあがったご飯にかけて食べると、それは役所の食堂で食べるのより優しくて、これが家庭の味かと思った。
カーテンの隙間からは明るい日差しが入ってくる。
「あつい……」
ごろりとベッドの上で寝返りをうつと、髪は首に貼り付き、パジャマ代わりのティシャツはじっとりと濡れていた。
時計を見るとまだ起きるには早い時間だ。
だが部屋の中のあまりの暑さに観念して、茜はベッドからおりた。
まっすぐに窓に向かい、カーテンを開け、窓を開ける。涼しい風が入ってきて、心地が良い。
このまま二度寝をするかと、またベッドに戻ると、風が頬を撫でていった。
「きもち……」
睡魔はすぐにやってきて、あっという間に茜は二度寝が招くまま眠りに落ちていった。
それからどれくらい時間が経ったのか、次に茜が目を覚ましたときには、部屋の中の暑さはまた元に戻っていた。
「あつい!」
時計を見ると、あれから二時間経っていた。
二度寝をする前に茜の頬を撫でていた風はぴたりと止まり、強い日差しが部屋にそそぎ込まれていた。
もう初夏と言っていい時期だ。
ベッドには冷感敷布を敷いているし、着ているものもティシャツにショートパンツという涼しい格好。
いつクーラーをつけるかということで、茜は毎晩葛藤して、つけずに寝て、朝後悔するというのをここ数日繰り返していた。
社宅には入居したときから、クーラーが設置されている。あとはスイッチを入れるだけだ。だが、電気代がかかると思えば、躊躇う気持ちもある。
「なんで死んでまで暑い目にあわなきゃなんないのよ……」
そんな悪態をつきながら、身体に巻き付いたタオルケットをはがして、ベッドからおりる。そのまま台所に行くと、冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスにそそいだ。
寝起きに冷たい麦茶を一気飲みするのは、お腹に悪そうだが、もう死んでいる身だ。問題ない。
火照った身体に冷たい麦茶が美味しくて、飲み干したグラスに、二杯目の麦茶をそそいだ。それを飲み干すと、網戸を開けてベランダに出た。
風は部屋の中までは入ってこないが、ベランダに出れば時々吹いている。
町並みを眺めながら、今日一日のことを考えた。掃除をして、洗濯をして、シャワーも浴びたい。そしたら、買い出しに行こう。あの大型スーパーに行ってもいい。あそこはジャムの品揃えがいいから、次に食べるジャムを選びに行くのもいいだろう。
ラフランスのジャムも杏もいちじくも美味しかった。
次はなんにしよう。
そこまで考えて、あまりベランダにいると日に焼けてしまうなと思った。焼けたくない理由は特にないが、日に焼きすぎると痛くなると聞いた。それは避けたい。痛いのは好きではないし、熱中症とやらになるのも嫌だ。
「よお」
さて部屋に入るかと町並みに背を向けた時、天真の声がした。天真の家の方に顔を向けると、ベランダの仕切から顔を覗かせて、こっちを見ている。
「おはよう」
「おはよ」
「洗濯物干してあるかもしれないから、あんまり覗かないでくれる?」
「今日は天気がいいから、よく乾くな」
眩しそうに天真が空を見上げる。つられて茜も空を見ると、鳥が一羽飛んでるのが見えた。
「あの鳥も、転生するのかな?」
「らしいな」
ふと思ったことを口にしたら、天真はすぐに答えてくれた。
「来世は鳥じゃないかもしれないし、別の動物かもしれない。人間かもしれない。でもせっかく飛べてるんだから、ここでは目一杯飛んで欲しいよな」
「そうだね」
「なぁ、今日休みだよな」
「そうだよ。天真も?」
「うん」
シフト制の天真と休みがかぶるのは久しぶりだ。朝会うことは多いし、役所ですれ違うこともあるから、顔を合わせることは多い。
でも休みがかぶるのは一ヶ月に2、3回くらいだ。
「なぁ、昼飯食いにいかね?」
「いく」
休みが合って、こうやってベランダで出会えばこの会話は自然と出てくる。
友人というのはこういうことをいうのかもしれない。
「なに食う? いずみ屋?」
いずみ屋は天真行きつけのあの定食屋だ。一緒に何度も行ったし、一人でも行ったことがある。だけど、今日は暑いし、大盛りご飯を食べるのはなんとなくお腹が違うといってる気がする。
「あ、そうだ」
「ん? なんか食いたいものある?」
「とんこつラーメン食べに行こう」
「なんかオススメあんの?」
「この前見つけた」
あの安くて美味しくて替え玉一個無料のとんこつラーメン屋が頭をよぎる。店名は覚えていないが、場所は覚えているし、いずみ屋を教えてくれた天真に教えたいと思っていたのだ。
「替え玉一個無料!」
「いいじゃん! じゃあ十一時半にな」
「わかった!」
「じゃああとでな」
「うん」
そう言って二人ともそれぞれの家の中に入る。
時計を見ると十時過ぎ。
まだ時間に余裕はあるから、洗濯と掃除くらいはできるだろう。洗濯機に洗濯物を放り込んで、洗剤と柔軟剤を入れる。スイッチを入れると、掃除機をかけた。
部屋中に掃除機をかけて、電源を切ると、隣の天真の家からも掃除機の音が聞こえてきた。どうやら天真も時間まで掃除をしているようだ。
ふと茜は自分の格好を見た。
寝間着代わりのティシャツにショートパンツ。それに櫛でといてもいないぼさぼさの髪。
これを天真に見られたと、今更ながら恥ずかしく思えてきた。
休日の朝にベランダで会うときはいつも偶然だから、寝間着代わりのスウェットや部屋着で会うのがほとんどだ。だけど、こんな薄着で会うことはなかった。
(この格好はまずかったかな)
この考えが正しいかどうかはわからないが、そう思えてきたら恥ずかしくてたまらない。
隣から聞こえてきた掃除機の音が止まる。
今更ながら、こんなにも生活音が聞こえるほど近くにいるのだと思った。
(今度からベランダに出るときは気をつけよう)
天真がいつ休みか把握していない。だから、会うのはいつも急だ。いつ会ってもいいようにせめて露出の多い格好で出るのはやめようと思った。
そんなことを思いながら、今日の服装を考えていたら、洗濯機が終了の音楽を流す。なんとなくショートパンツをスウェットにはきかえて、ベランダに洗濯物を干した。
天真が出てくることはなかったけど、念には念を入れて、だ。
洗濯物を干し終えたら、出かける準備だ。
顔を洗って、薄く化粧をしたら、先日買ったばかりのワンピースを出した。一緒に買った薄手のカーディガンもあわせて。
夏物を全然持っていなかったから、少しずつ増やしている最中だ。サンダルも買ったし、日傘も買った。
休みの時に着るくらいの私服もあるが、それでも気に入った服を着るのは楽しい。
着替えて、スマホでニュースを見ていたら、そろそろいい時間だ。家を出て、天真の家のチャイムでも鳴らしてやろうかと思っていると、茜の家のチャイムが鳴った。
そういえばこの家のチャイムが鳴るのは初めてだ。
「はーい」
のぞき穴から外を見ると、天真が立っていた。鍵を開けてドアを開ける。
「よぉ、そろそろ行こうぜ」
「うん。ちょっと待って。すぐ行く」
急いで部屋の中に引き返すと、バッグにスマホを入れて、玄関に戻る。出しておいたサンダルを履いて、外に出ると天真が待っていた。
「お待たせ」
「……なんかいつもと違わね?」
「服?」
「馬子にも衣装ってやつか」
「ちょっと!」
「いやいや、似合ってるって。珍しいな、そういう格好」
「……うん」
似合っているという天真の言葉が嬉しい。いつもは麗や六花が新しい服を着ていったら誉めてくれる。いつもと違う人物からの賞賛も、意外と嬉しいものだ。
「行こうぜ。オレ、腹減った」
「私も」
「ラーメン屋この近く?」
「うん」
社宅を出て、ラーメン屋への道を歩く。いつもは夕方の薄暗い時間に歩く道を、昼間に歩くのは景色が違って見えて楽しい。
「この前さ、オレ初めてバス運転させてもらった」
「お迎えに?」
「そう。ミニバスだけど、色んな人乗せたよ」
「天真はさ、いつか自分の両親を乗せたいって思う?」
「そうだな。親はびっくりするだろうけど。あ、その前にじーちゃんばーちゃんたちだな」
いつも行くスーパーを通り過ぎて、あの黄色い暖簾の店の前に行く。明るい中でゆっくりと店外を見たが、とんこつラーメンと書かれている以外、店名のようなものはなかった。もしかしたら「とんこつラーメン」というのが店名なのかもしれない。
「ここ」
「いいじゃん。雰囲気あるし」
茜と天真が店内に入ると、タオルを頭に巻いた店主が元気に挨拶してきた。
「いらっしゃいませ! お好きな席どうぞ」
店内はクーラーがきいていて、扇風機も回っている。でもカウンターのすぐ向こうにある厨房からの熱気が伝わってきて、少しだけ暑かった。
以前座った真ん中辺りの席に座ると、すぐにお冷やが出てくる。
「天真なにする?」
「ラーメン。お前は?」
「私もラーメン」
「じゃ、決まりな。すみません、ラーメン二つ」
「あいよ」
まだ混雑のピークではないのか、客は茜たちだけだ。
「とんこつラーメンとか久しぶり」
「生きてたときは、食べてた?」
「うん。大学の近くにあってさ。安いし、替え玉もできるしって、よく行ってた。お前、よくここ来んの?」
「この前初めて来た。ラーメン屋って初めてで、でもなんか肌に合うっていうか」
「じゃあ、お前、九州出身なのかもな」
「きゅうしゅう?」
日本地図は知識として知っている。でも行ったことがあるとか、住んでいたことがあるといったことはわからない。
「お前、まだ記憶ないまま?」
「うん」
「不安とかないの?」
「ない」
厨房から麺を湯切る音が聞こえてくる。もうすぐラーメンができてくるだろう。
「なにもなさすぎて、不安もないって感じ」
「そっか」
「はい! ラーメンお待ちどうさま」
カウンターの上に赤いどんぶりが二つ置かれる。それをテーブルにおろすと、二人でいただきますと言って食べ始めた。
「うめぇ。やっぱとんこつは店に限るな」
ずるずると麺をすすっていると、天真が感嘆の声を上げる。
「そうなの?」
「インスタントと全然違うしな。あ、紅ショウガある。いれよ」
嬉しそうに言って、天真が紅ショウガをどっさりとラーメンの中に入れる。スープの色が一気にピンクになった。
「そんなに入れるものなの?」
「美味いよ」
「へぇ」
そんなに入れてしまうと味が変わってしまいそうだ。流石に天真の真似をするのは怖くて、茜は少しだけ紅ショウガを入れた。
「おじさん、替え玉一つお願いします!」
隣で麺をほとんど食べた天真が注文する。
「あ、私もお願いします!」
「あいよ」
二人の声に、すぐに店主が麺を大鍋の中に放り込む。すぐにできあがるから、それまでに残った麺をすすった。
「お前、結構よく食べるよな」
「そう?」
「うん。大学の女子も替え玉するやつあんまりいなかったし」
「成長期だから?」
「外見年齢通りならな」
「替え玉おまち!」
店主の声がして、目の前に皿に乗った麺が差し出される。それを受け取ると、どんぶりの中に入れた。
麺とスープを馴染ませて、無心ですする。
「ごちそうさまでした」
「はやっ」
「こんなもんだろ。競うもんじゃねぇし、お前はゆっくり食えよ」
「うん」
店内はいつの間にか人が増えて、あちこちで注文が入る。ラーメンだったりチャーシュー麺だったし、ネギ抜きだり。それを一つずつ聞きながら、店主は確実にこなしていった。
「ごちそうさま」
天真に遅れて茜もラーメンを食べ終える。水を飲んで、口をさっぱりさせると、もう満腹だ。
「行くか?」
「そうだね」
ここに長居は無用だ。きっとまだ客は次から次へと来るだろうし、食べ終わったものは次の客へ席を譲るべきだろう。
天真がカウンターの上に食べ終わったどんぶりとお冷やの入っていたコップを置くのを見て、茜もそれに習う。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました!」
会計をして、外に出ると、背中に店主の声が追いかけてきた。
「またどうぞ!」
満腹な身体は、心も満たされている。
「はー食った食った。美味かったな」
「うん」
「お前これからどうする?」
「大型スーパー行こうかなって思ってるけど」
「それオレもついてっていい?」
「いいよ」
昼を食べたら、別行動と思っていた。だが、天真の申し出を断る理由も特にはない。あそこは近所のスーパーにはないものがたくさん売っているから、天真もなにか買いたいものがあるのかもしれない。
社宅に行く道ではなく、駅への道へと歩いていく。来た電車に乗って、二駅。窓からはいつも見る大型スーパーの看板が見えた。
「天真はあそこよく行くの?」
「いや、全然。行ってみたいとは思ってたけど、いつものスーパーに行っちゃうんだよな。お前は?」
「たまに行く。ジャムの品揃えがいいんだ」
「朝パン派?」
「最近はね」
卵かけご飯を食べなくなってもうだいぶ経つ。卵は買う。近所のスーパーで六個入りの安いやつを。それを炒り卵にしたり、ラーメンや味噌汁に落とすのはよく食べた。
でもあの高級卵で食べる卵かけご飯は、まだ遠ざかったままだ。
電車を駅に着いて、外に出る。電車の中はクーラーがきいていたから、外の暑さが一気に押し寄せてくるようだった。
「あちぃ」
「そうだね」
「お腹もう少し落ち着いたら、アイス食わね?」
「食べたい」
「さっぱりしたやつ食いたいな」
「いいね。ソーダ味とか」
日差しを浴びながら、大型スーパーへの道を歩き、着いた先は天国だった。クーラーがきいていて涼しい。休日だからは人は多いが、混雑して大変というわけじゃない。
「私食品の買い物だけだけど、天真はどうする? なんか見てくる?」
ここには服屋も雑貨で本屋も揃っている。見たいものがあれば別行動して、時間を決めて集合すればいい。
「いや、オレも食品みたいから。ついてく」
そう言うと天真は買い物カゴを二つ取って、カートの上と下に乗せた。
「そんなに買うの?」
「違げぇよ。上がお前で、下がオレ」
「ああ」
どうやらカートを押してくれると言っているらしい。断る理由も特にないし、茜は天真の申し出を受け入れた。
「天真ってそんなに頻繁に自炊するの?」
「結構するよ。家の味再現するのに凝ってる」
「家の味?」
「まぁほとんど台所で手伝いってしたことないから、手探りだけどな」
そう言いながら、天真が茄子をカゴに入れる。その横で茜は安売りをしていたアボカドを手に取った。
「女子らしいチョイスだな」
「だっておいしいし」
「確かに美味い。オレも買おうっと」
アボカドもカゴに入れて、野菜売場を通り過ぎるだけで天真のカゴはすでに色々入っている。
「刺身いいのいっぱいあんじゃん!」
魚売り場に来ても天真の買う手は止まらなくて、鮭の切り身をカゴに入れていた。茜はここでいつも買うもずく酢をカゴに入れる。
「渋いな」
「近所のスーパーだとからし入りが多いんだよ。ここのはそういうの入ってなくて美味しい」
「からし嫌い?」
「まぁ得意ではないかな」
お子様だと揶揄されるかと思ったが、天真はそれ以上なにも言わず、肉売場へと歩いていく。その途中、茜は醤油を買って、天真は油を買った。
レトルト売場で、中華の素でも買いたいなと茜が思っていたら、不意にいい匂いが鼻をくすぐった。
「カレーの匂いがする」
「あ、本当だ」
二人でカレーの匂いの発生源を探すと、レトルト売場の前で、カレーの試食をしているのが見えた。
「あの匂いか」
「カレーの匂いって満腹忘れさせるね」
「確かに」
二人ともついさっきラーメンを食べて、替え玉までしたのだ。それでもカレーの匂いは食欲を刺激する。
「今日カレーにすっかな」
天真はそう言うと様々なメーカーのカレールーが並ぶ売場に行くと、迷わず一つを手にとってカゴに入れた。
「そのルーでいいの?」
ここには色んなカレールーが揃っている。近所のスーパーにないものだってある。たまには珍しいメーカーのものを使ってもいいんじゃないかと言外に潜ませて茜が言うと、天真はあっさりと頷いた。
「うん。うちのカレーはこれだし」
「それってお母さんの味ってやつ?」
「まぁそうだな」
「いいねそういうの」
茜がカレールーの棚を見上げる。カレーを作ったことは何度ある。だけど、どのカレールーがいいのかわからなくて、近所のスーパーでは並んでいる順に買っていったし、ここに来ると美味しそうなものを手に取った。
「お前はなに使ってる? カレーのルー」
「適当に買ってる。自分の家の味とかないし」
「じゃあ、今度これ買ってみろよ。美味いから」
そう言って天真が自分が買ったものと同じカレーのルーを、茜のカゴに入れる。
「あ、ちょっと勝手に」
「いいじゃん。日持ちするものだし。もしかしたらお前ん家のカレーの味と同じかもじゃん?」
「そんなこと」
「忘れてるなら、思い出すかもしれないし」
「そうだね」
天真に入れられた緑色のカレーのパッケージに見覚えはない。もちろん近所のスーパーで売ってるのを見たことはあるが、遠い記憶の中にあるかと言われたら、そこはただ真っ白な場所があるだけだ。
「今日カレーにするなら肉も買わないとな。お前はカレーになんの肉入れる?」
「牛肉」
「やっぱお前西日本出身だよ」
「なんで?」
「東日本は豚肉で作るのが多いんだよ。うちも豚肉だったし」
「カレーって牛肉で作るんじゃないの?」
「別になんでもいいらしいぜ。手羽元でチキンカレーにしても美味いし」
カレーに牛肉を入れると思っていたのは、パッケージにそう書いてあったからだ。なんとくそういうものだと思っていたし、食べても違和感を感じなかった。
それは忘れてしまった生前の記憶の端っこなのだろうか。
「お前、記憶なくて料理どうしてんの?」
「焼くとかしかできないけど」
通りすがりの中華レトルトコーナーで、茜は麻婆豆腐の素と回鍋肉の素をカゴに入れる。こういうのは便利で美味しくて助かる。
「じゃあ、カレー作ったらお裾分けしてやるよ」
「でも私も同じルー買うし」
「別に今日作るわけじゃないだろ。カレーって鍋いっぱいにできるし、しばらく続くんだよな。もらってくれるとありがたいし」
「それなら……」
作る分量がわからなくて、大量に作ってしまったことは、茜にもある。それならばと天真の申し出をありがたく受け入れることにした。
「天真の家の味かぁ」
「まぁな」
「家庭料理って記憶にないから、楽しみかも」
「大丈夫だって。お前は忘れてるだけだから」
「え?」
「お前の生前は確かにあったんだから、そのうち思い出すって」
生前は確かにあったのだ。だから死んで、ここにきた。
たったそれだけの言葉なのに、いつも時々くすぶってくる気持ちが吹き消された気がした。
「天真って、いいやつね」
「なんだそれ」
それから肉売場に行って、豚肉を選んだ。茜も炒め物に使えそうな豚肉をカゴに入れる。
最後にアイス売場に行って、ソーダ味のアイスをそれぞれ買った。
別々に会計して、いっぱいになった買い物袋を持って、空いているソファーでアイスを食べた。
「そういえば、誰かと買い物って初めてかも」
「まじか。でもそういえばオレもここに来てからは一人で買い物してたもんなぁ」
「友達とかいたのかな。生きてた頃の私は」
「いたんじゃねぇの。葬式で泣いてくれるようなやつ」
「いたらいいな」
「いたって」
アイスをガリガリ食べながら、天真が言う。それは知っているかのように断定的で、ちょっと笑ってしまった。
「ここでは天真が友達なのかな」
「まぁ同期だしな」
「隣人だし」
食べ終えたアイスの棒を傍らにあったゴミ箱に入れて、天真が立ち上がる。
「そろそろ帰るか。カレー作らないといけないし」
「うん」
「そういえば」
「なに?」
「お前、ベランダにショートパンツで出るのはいいけど、あれでゴミ捨てとか行くなよ」
「は?」
天真が言うのは今朝の茜の格好のことだ。あれはまずかったかなと思ってはいたが、直接言われるとも思わなかった。
「い、今頃言わないでよ!」
「あははっ」
「デリカシーとかないの!?」
「ない」
怒る茜と笑う天真は、そのまま駅へと歩き出した。どんなに茜が言っても、天真には響いてないようで、それが悔しい。それは生前の記憶があるなしの差か、それとも年齢の差なのかわからないけど、まるで響いていない雰囲気に腹が立つ。
電車に乗っているうちに、怒るのも馬鹿らしくなって黙ると、まるで気にしていない天真が言う。
「カレー作ったら持ってくから、ご飯炊いとけよ」
「……わかった」
「お腹空かせて待ってろ」
「美味しいの作ってよ」
「もちろん」
仏頂面のまま天真と家の前で別れて、家に入ると茜はクーラーのスイッチを入れた。涼しい風が、気持ちを落ち着かせてくれる気がする
ワンピースを脱いで、ティシャツとスウェットに着替えると、米を研いで炊飯器にセットした。
久しぶりに誰かとご飯を食べて、初めて誰かと買い物をした。楽しくなかったというわけじゃない。
思い返せば純粋に楽しかった。
それを生前の自分はしていたのだろうか。
そういう疑問の方が先に出てくる。
天真が言ったとおり、確かに自分には生きていた頃があるはずなのだ。
どうして忘れてしまったのかはわからないけど、思い出したい気持ちはここに来たときより強くなった気がする。
洗濯物を畳んでいると、チャイムが鳴って、小鍋を持った天真が立っていた。お裾分けのカレーを茜に渡すと、すぐに帰って行こうとする天真を、茜は呼び止めた。
「天真!」
「ん?」
「今日楽しかった。ありがと」
「そりゃよかった」
「カレーもありがと」
「おう」
「じゃあ」
「じゃあな」
ドアを閉めると、隣からもパタンというドアを閉める音がした。鍵をしめて、鍋の蓋を開けると予告通りカレーが入っていた。茄子の入ったカレーだった。
炊きあがったご飯にかけて食べると、それは役所の食堂で食べるのより優しくて、これが家庭の味かと思った。
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