【完結】禁断の忠誠

海野雫

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第二章 疑念と忠誠

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 春の朝。蒼穹宮そうきゅうぐうの朝議の広間には、まだ冷えた空気が残っていた。整列した官吏たちの衣がかすかに揺れるたび、さざ波のような音が響く。

 夜宴の毒杯事件は、すでに宮廷中の話題となっていた。今朝の朝議には、いつも以上の緊張が漂っている。誰もが息を潜め、王太子・景耀けいようの顔色をうかがっていた。

 玉座の代わりに据えられた王太子の座に腰を下ろしながら、景耀は冷ややかに列を見渡した。国王が病に伏して以来、政務のほとんどは彼が執っている。形式上は国王の代理であっても、この場を支配しているのは紛れもなく彼自身だった。

「――殿下」

 沈黙を破ったのは、宰相・魏嵐ぎらんであった。

 黒く整えられた髭に手を添え、彼は一歩進み出る。その声音には恭しさが含まれているものの、その裏に潜む野心を隠しきれない。

「一昨日の宴……殿下の御身に毒が盛られたとうかがい、臣は驚愕いたしました。幸い事なきを得ましたが、これは宮中の警護体制に重大な瑕疵がある証左ではございませぬか」

 ざわ……と官吏たちの列がざわめいた。

 魏嵐の発言は単なる憂慮ではない。あの夜、殿下を救ったのは、一介の宦官だった。その事実を突き、景耀の側近体制を揺さぶろうという意図が透けて見えた。

「しかも、毒を見抜いたのは……一介の宦官だとか」

 魏嵐は意味深に目を細める。
「もしや、内に敵が潜んでいるやもしれませぬな。そうでなければ、かような事態、起こるはずがございません」

 景耀は静かに扇を開き、その目を魏嵐へと向けた。

「宰相」

 穏やかな声が広間に響いた。だがその底に潜む刃に、魏嵐の笑みが一瞬強張る。

「宮廷の内に敵がいるというのなら、それは私が排除する。誰であろうと、だ」

 その一言で、広間の空気がぴんと張り詰めた。

 魏嵐は形ばかりの拱手をし、一歩下がる。

「……殿下のご威光、恐れ入りました」

 その瞳には敗北の色はなく、むしろ計算の光が宿っていた。魏嵐は引いたふりをして、次の手を考えている――。

 朝議は粛々と進んだ。治水、鉱山、税制。次々と文官たちが報告を述べる声が続いていく。



 春も深まる頃、ある日の午後。

 控えの間では宦官たちが出入りを繰り返し、文書の仕分けや茶の準備に追われている。凌雪りょうせつもまた、机に向かって山のような奏状を整理していた。

 そこへ、廊下から靴音が響いた。

 ざわめきが一瞬で消え、全員が動きを止める。

 景耀が姿を現したのだ。

「殿下……」

 小宦官たちが慌てて膝をつき拱手する。凌雪もすぐに立ち上がり、深く頭を垂れた。

 景耀は一瞥するだけで空気を制する。その蒼い瞳が、凌雪に向けられた。

「凌雪。こちらへ」

 低く響く声に呼ばれ、凌雪は一歩前へ出る。

「今日から、お前には書房内で直接政務を補佐してもらう」
「……はっ」

 予想外の命に、凌雪の胸が高鳴った。

 周囲から驚きと嫉妬が入り混じった視線が集まる。宦官が書房で太子の補佐を務めるなど、めったにないことだった。

李徳謙りとくけんには詹事せんじの仕事に戻ってもらう。お前はその席に座れ」

 景耀が扇で書房の一角を示した。

 凌雪は拱手して深く礼をし、書房へと足を踏み入れる。

 書房の空気は、控えの間とはまるで違っていた。沈黙と緊張、そして紙と墨の匂い。机の上には山のように文書が積まれ、窓辺から春の柔らかな光が差し込んでいる。

 凌雪は筆と朱印を手に取り、内容ごとに奏状を分類していく。

 国境の防備、治水事業、税制改革――。内容は多岐にわたるが、凌雪の頭は冴えていた。文字を追い、素早く要点を抽出して書き付ける。

 その作業を、景耀が黙って見ていた。

 ――……殿下の視線が、こちらに……。

 背中に刺さるような緊張を感じながらも、手を止めることはできない。

 見られている緊張感から心臓が落ち着かない。筆先がわずかに震える。

「……仕事はできるようだな」

 不意に景耀が呟いた。

「は、僭越ながら……」

 凌雪は思わず声を上ずらせ、恥ずかしさに頬が熱を帯びた。

 景耀はそれ以上何もいわず、机に視線を戻したが、その横顔にはわずかな興味の色が見えた。



 それから、凌雪は景耀の書房で執務を行いながら、控えの間にも足を運び、小宦官たちの業務に目を配った。

 最初は目障りそうに睨みつけていた小宦官たちだったが、凌雪がこまめに声をかけていくうちに、少しずつ表情が和らいでいった。

 筆が止まっている宦官がいれば、その理由を尋ね、苦しそうな顔をしている者がいれば声をかけて悩みを聞いた。

中庶子ちゅうじょしという立場ではあるが、私も宦官。何か困っていることがあれば、いつでも相談に乗るから声をかけてくれ」

 優しく微笑みかけると、年下の若い小宦官は頬を赤らめた。

「あ、ありがとうございます」
「皆も、何かあったら私に相談してくれ」

 すると、数人の小宦官たちが拱手をして深く首を垂れた。

 その様子を見ると、胸が熱くなった。少しずつではあるが、控えの間の小宦官たちに受け入れられつつあるようだ。

「お前が殿下のお側にいられるようになるとはな」

 小宦官が拱手をしている様子を見た韓文かんぶんが複雑な表情を見せた。しかしその表情は以前のように嫉みを孕んだものではなかった。
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