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第三章 秘めた炎
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夜更けの離宮は、しんと静まり返っていた。
湿気を帯びた風が頬を撫でるが、室内は灯火と二人の吐息で不思議な熱気に包まれていた。
今宵、宮中で起きた騒ぎ――侵入した刺客から逃れるため、景耀と凌雪は人目を避け、この古びた離れへと身を潜めている。
ここは王家でもほとんど使われない場所で、分厚い壁が外の音を遮り、静寂だけが支配していた。
「……やっと静かになったな」
景耀の横顔を、揺らめく灯火が照らす。少し乱れた髪、裾についた土の汚れ――先ほどまでの緊張が、そのまま刻まれていた。
凌雪は小卓のそばで拱手しながら息を整えたが、心臓の鼓動だけは落ち着かなかった。景耀と二人きりの夜。そんな状況が、普段とは違うざわめきを自分の胸に生じさせていた。
肩の傷がじんじんと痛む。だが、それよりも――。
「凌雪」
「……はい」
「近う寄れ」
低く響いた声に、思わず肩が強張る。景耀はまっすぐに凌雪を見ていた。その蒼い瞳には、いつもの冷徹な光ではなく――熱を帯びた何かが宿っていた。
凌雪は膝をつきながら近づき、景耀の傍らに身を寄せた。
ふいに伸びた景耀の手が、凌雪の頬を撫でる。その掌の熱に、凌雪の身体が小さく跳ねた。
「……あの夜、お前は命を賭けて私を守った。毒の盃を払った瞬間、お前を初めて『人』として見た気がした」
「……殿下……」
景耀の指先が頬から喉元へとゆっくり滑り落ちる。ぞくりとした震えが背筋を這い上がり、凌雪は呼吸を忘れた。
顎を軽く持ち上げられ、目が合う。蒼い瞳が炎を宿し、逸らすことができない。
「……お前は違う」
その言葉とともに、景耀の顔が近づき――唇が触れた。一瞬で、だが熱く、深く。
触れた場所がじんと痺れ、凌雪の呼吸がふっと止まった。拒む理由は、どこにも見当たらなかった。
景耀の指が凌雪の髪をほどき、ゆっくりと後ろへ撫で流す。結い上げていた髪が肩にさらりと流れ落ち、頬にかかった。
「……凌雪」
名前を呼ばれるたびに、胸が跳ねる。再び唇が重なった。今度は深く、息を奪うほど激しい。
舌先が触れ合い、熱が絡まり合う。腰の奥から痺れるような感覚がこみ上げ、凌雪の意識が真っ白になる。
――……これは、夢じゃない……。
景耀の腕が凌雪の背に回り、その身体を力強く引き寄せる。衣擦れの音が静寂の中に甘く響き、凌雪は胸元に縋るように手を置いた。
震える指先が、景耀の衣の端を掴む。
「……怖いか」
耳元に囁きが落ちる。首筋に温かい吐息が触れ、凌雪の身体がびくりと震えた。
「……いいえ」
嘘ではなかった。本当に怖いのは――この気持ちが、もう止まらなくなることだった。
景耀の唇が首筋に触れ、肌をゆっくりと辿っていく。そこを通るたび、まるで火が灯されたように肌が熱を持ち、喉の奥から声が漏れた。
自分の声だと気づいて、凌雪の頬は一気に赤く染まる。景耀はそんな反応を愉しむように、唇の軌跡を鎖骨へと下ろしていった。
衣の紐がほどかれ、肩が露わになる。傷のある肩を見て、景耀が眉をひそめる。
「……傷が……」
「ご心配にはおよびません。かすり傷にすぎません」
景耀は優しく傷に口づけをした。その唇の感触に、凌雪の身体が震える。
夜気がひやりと触れるより先に、景耀の掌がそこを覆い、熱を伝える。
「……お前、こんなに熱いのか」
「っ……殿下……」
甘く低い声が耳を打ち、凌雪の意識がふっと遠のきそうになる。景耀の手つきは驚くほど優しいのに、逃げ場は与えなかった。
気がつけば凌雪は、自分から殿下の胸にしがみついていた。景耀はその背を抱きしめ、さらに深く唇を重ねた。
衣擦れと呼吸が絡み合い、室内の空気が甘く濃密になっていく。指先が肌をなぞるたび、凌雪は知らなかった感覚に身を震わせる。
――……こんな気持ち、知らなかった。
主従でもなく、忠義でもない。これこそが――恋だった。
灯火が揺れ、二人の影が重なり合う。唇が塞がれ、指が絡み、身体が熱に溶かされていく。
時間の感覚が消え、世界が二人きりになった。
その夜、二人は互いの熱だけに身を委ね――やがてひとつになった。
*
外では虫の声がかすかに響き、吹き抜ける夜風が格子窓を優しくゆらす。
しかし室内には、まだ先ほどまでの熱気が残っていた。
凌雪は景耀の腕の中にいた。半ば崩れるように寄りかかるその体を、景耀はしっかりと抱き留めている。
胸の鼓動が耳元ではっきりと響くほど、互いが近かった。規則正しく、力強い響き
――それは凌雪にとって初めて感じる、安らぎを携えた音だった。
髪はほどけ、衣は乱れたまま。肌に残る熱と指先の痕が、すべてが夢ではないことを雄弁に物語っていた。
まだ身体の奥が、殿下の熱を覚えている。ひとたび思い返せば、全身が甘い余韻に包まれてしまう。
「……凌雪」
低く、どこか掠れた声が頭上から降ってきた。呼ばれただけで、胸が小さく跳ねる。
顔を上げると、景耀がすぐそこにいた。いつもは威厳を纏った王太子――だが今、その蒼い瞳は驚くほど柔らかい。
薄暗い灯火に照らされて、髪がさらりと頬にかかる。少し乱れた姿さえも、美しく、目を離せなかった。
「……その顔、面白いな」
かすかに笑みを含んだ声。凌雪は、はっとして頬を押さえた。自分の顔が赤くなっているのがわかった。
羞恥と、幸福と、信じられないような現実感が胸の奥で渦を巻く。
「殿下……お戯れを……」
掠れた声でそう言うと、景耀はふっと笑い、凌雪を腕の中にさらに引き寄せた。その動きはとても自然で、まるで最初からそこが定位置であったかのようだった。
「……少し、こうしていろ」
囁きは甘く、命令でもあり、優しさでもあった。凌雪は逆らうこともできず、胸に顔を埋めた。景耀の衣から、淡い香と体温がじんわりと染み込んでくる。
殿下の指が、凌雪の髪を優しく梳いた。一筋一筋、絡まった髪をほどくように、ゆっくりと。
その手つきは驚くほど穏やかで、凌雪の全身から緊張が溶けていった。
――こんな殿下を、誰が知っているだろう。
王座を継ぐ者の冷徹でもなく、政を担う若き王太子でもない。ただ一人の男として、こんなにも優しく、熱を帯びた存在。
凌雪は胸の奥で密かに思った。この瞬間を、誰にも見せたくない――と。
「……お前は、本当に……不思議なやつだ」
景耀がぽつりと零す。それは嘲りでも皮肉でもなく、心の底からの呟きだった。
凌雪は顔を上げ、景耀の蒼い瞳を見つめた。その瞳には、決して軽い戯れではない、深い感情の影が宿っていた。まるで、何かを決意する前触れのように――。
沈黙の中で、二人の視線だけが絡み合う。夜風がふっと吹き込み、灯火が揺れた。
重なる影が壁に映り、まるで寄り添う二匹の龍のようだった。
凌雪はそのまま、景耀の胸に身を預けた。鼓動が重なり、呼吸が溶け合い、時間の感覚がゆっくりとほどけていく。
景耀の手が髪を撫でる音と、虫の声だけが、夜の静けさの中に響いていた。
夜はさらに更けていく。
離宮の外では虫の声がかすかに響き、風が梢をゆらして囁くような音を立てていた。その響きは、まるで二人の秘密をそっと守るかのように、静かで優しかった。
凌雪は景耀の胸に抱かれるような姿勢で横たわっていた。身体の熱はようやく落ち着いたものの、頬はまだ火照ったままだ。
景耀の心臓の鼓動が、すぐ耳のそばでとくとくと響いている。その音は不思議と安心感をもたらし、先ほどまで荒れていた呼吸も、次第に落ち着いていった。
――こんな夜が、自分に訪れるなど。
夢のようだと、凌雪はぼんやりと思った。宦官として、宮廷の冷たい石の上を歩き続けてきた自分が、今、王太子の腕の中で眠ろうとしている。
身分も、立場も、越えてはならぬ境界も、今はただ遠い霞の向こうにあるだけだった。
景耀の指が、凌雪の髪をゆっくりと梳いた。乱れた髪が指の間をすり抜けるたび、凌雪はまぶたの裏がくすぐったく感じた。
その手つきには、いつもの厳しさや威圧感はなく、ただ穏やかで、優しかった。
「……眠れ」
低く囁く声が、頭のすぐ上から降ってきた。その声音には、政務の疲れも、警戒心も、王太子としての威厳もなかった。
ただ、凌雪を包み込むような温かさだけがあった。
「……殿下……」
凌雪は呼びかけたが、それ以上は何も言葉にならなかった。胸の奥が詰まって、声が続かなかったのだ。
景耀は何も言わず、代わりにその背を優しく抱き寄せた。肩口に額が触れる。
その温もりがあまりにも心地よくて、凌雪は小さく息を吐いた。
――こんな時間が、ずっと続けばいい。
そんなあり得ない願いが、ふと胸の奥に浮かんだ。けれど同時に、それが叶うことのない夢だということも、痛いほどわかっていた。
――私は……ただの宦官だ。
凌雪は心の中で呟く。この夜のことは、決して口にしてはならない。朝が来れば、それぞれの立場へ戻らねばならない。
これは、夜にだけ許された――甘く、儚い夢。
それでも、景耀の胸の音を聞きながら、凌雪はほんの少しだけ、その夢に身を委ねることにした。
景耀の指先が髪から頬へと移り、そっと撫でる。その仕草はまるで、凌雪が消えてしまわないよう確かめるかのようだった。
――殿下も、同じ思いでいてくださるのだろうか……。
凌雪は答えず、ただその胸に身を寄せた。まぶたが重くなり、意識がゆっくりと遠のいていく。
灯火の明かりが細く揺れ、二人の影が壁に寄り添うように映し出されていた。やがて、夜は深い眠りのような静けさに包まれる。
王太子と宦官――交わるはずのなかった二つの心が、誰にも知られぬまま、ひとときだけ、確かに重なっていた。
*
凌雪の呼吸が、夜の静寂に溶けていく。
胸に触れる体温が心地よく、景耀は離宮の寝台で仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
灯火は小さく揺れ、厚い離宮の壁に影がにじんでいる。腕の中で眠る凌雪は、まるで張りつめた糸がようやく切れたように、安らかな表情をしていた。
いつもの冷静な面影とは違う、年相応の柔らかな寝顔――その無防備さに、思わず視線が吸い寄せられる。
――……お前というやつは、本当に……。
苦笑ともため息ともつかない感情が、胸の奥で静かに解けていった。
最初にこの男を見た時、景耀はただの駒だと判断した。宰相が送り込んだ密偵。表情を殺し、口数も少なく、己の存在を消そうとするような宦官――。
警戒すべき相手でしかなかった。
だが、毒杯の夜がすべてを変えた。迷いも計算もない一瞬の行動。己の命を賭けて景耀を守ったその姿が、焼き付いて離れない。
あれは忠義でも功名心でもない。ただ、まっすぐな意志だった。
――だから……私は、こいつを近くに置いたのだろうな。
景耀は腕の中の凌雪を見下ろす。長い黒髪が胸元にこぼれ、灯火の明かりを受けて柔らかく光っている。
寝息とともに上下する胸元、その小さな動きひとつひとつが妙に愛おしく感じられた。
――……これは危うい。
自覚はしている。王太子として、誰かに心を委ねることは、最も愚かなことだ。
玉座を継ぐ者は、孤独でなければならない。誰も信じず、誰にも縋らず、ただ冷徹に国を支える――それが景耀の定めだった。
けれど凌雪といると、その鎧がひとつずつ剝がれていく。沈黙の中でも安心できる。命令も打算もいらない。
彼はただ、景耀そのものを見ている。
――こいつは……私の弱点になる。
心の奥で、鋭い痛みが走る。もし凌雪が標的になれば、自分は必ず迷う。その迷いが、国を揺るがすことだってあり得る。
それでも――離すことは、もう考えられなかった。
凌雪が小さく身じろぎをし、無意識に景耀の胸元を掴んだ。それだけで、胸の奥に鳴っていた警鐘が少しだけ遠のく。
凌雪の存在は、景耀にとって刃であり、鎖であり、そして抗いがたい安らぎでもあった。
――……もし、お前が危険に晒されたら、私は――どんな手を使ってでも、守るだろうな。
その考えが脳裏をかすめた瞬間、景耀は自分の内側が変わり始めていることに気づいた。
王太子としてではなく、一人の男として――凌雪を失うことを恐れている。
――……それが、いつか私を壊すかもしれん。
静かに目を閉じる。腕の中の温もりが、冷たい宮廷の現実を遠ざけていく。
玉座、宰相、毒、陰謀……この離宮の夜だけは、それらすべてが霞んでいった。
――……壊れてもいい。お前を守れるなら、それでかまわない。
そんな危うい決意が、胸の奥に静かに沈殿していく。
この夜が、景耀の運命を変える分岐点になることを――彼自身はまだ、知らなかった。
やがて景耀も、凌雪の髪に顔を埋めるようにして、静かに目を閉じた。
二人の呼吸が重なり合い、灯火だけが静かに揺れ続けていた。
湿気を帯びた風が頬を撫でるが、室内は灯火と二人の吐息で不思議な熱気に包まれていた。
今宵、宮中で起きた騒ぎ――侵入した刺客から逃れるため、景耀と凌雪は人目を避け、この古びた離れへと身を潜めている。
ここは王家でもほとんど使われない場所で、分厚い壁が外の音を遮り、静寂だけが支配していた。
「……やっと静かになったな」
景耀の横顔を、揺らめく灯火が照らす。少し乱れた髪、裾についた土の汚れ――先ほどまでの緊張が、そのまま刻まれていた。
凌雪は小卓のそばで拱手しながら息を整えたが、心臓の鼓動だけは落ち着かなかった。景耀と二人きりの夜。そんな状況が、普段とは違うざわめきを自分の胸に生じさせていた。
肩の傷がじんじんと痛む。だが、それよりも――。
「凌雪」
「……はい」
「近う寄れ」
低く響いた声に、思わず肩が強張る。景耀はまっすぐに凌雪を見ていた。その蒼い瞳には、いつもの冷徹な光ではなく――熱を帯びた何かが宿っていた。
凌雪は膝をつきながら近づき、景耀の傍らに身を寄せた。
ふいに伸びた景耀の手が、凌雪の頬を撫でる。その掌の熱に、凌雪の身体が小さく跳ねた。
「……あの夜、お前は命を賭けて私を守った。毒の盃を払った瞬間、お前を初めて『人』として見た気がした」
「……殿下……」
景耀の指先が頬から喉元へとゆっくり滑り落ちる。ぞくりとした震えが背筋を這い上がり、凌雪は呼吸を忘れた。
顎を軽く持ち上げられ、目が合う。蒼い瞳が炎を宿し、逸らすことができない。
「……お前は違う」
その言葉とともに、景耀の顔が近づき――唇が触れた。一瞬で、だが熱く、深く。
触れた場所がじんと痺れ、凌雪の呼吸がふっと止まった。拒む理由は、どこにも見当たらなかった。
景耀の指が凌雪の髪をほどき、ゆっくりと後ろへ撫で流す。結い上げていた髪が肩にさらりと流れ落ち、頬にかかった。
「……凌雪」
名前を呼ばれるたびに、胸が跳ねる。再び唇が重なった。今度は深く、息を奪うほど激しい。
舌先が触れ合い、熱が絡まり合う。腰の奥から痺れるような感覚がこみ上げ、凌雪の意識が真っ白になる。
――……これは、夢じゃない……。
景耀の腕が凌雪の背に回り、その身体を力強く引き寄せる。衣擦れの音が静寂の中に甘く響き、凌雪は胸元に縋るように手を置いた。
震える指先が、景耀の衣の端を掴む。
「……怖いか」
耳元に囁きが落ちる。首筋に温かい吐息が触れ、凌雪の身体がびくりと震えた。
「……いいえ」
嘘ではなかった。本当に怖いのは――この気持ちが、もう止まらなくなることだった。
景耀の唇が首筋に触れ、肌をゆっくりと辿っていく。そこを通るたび、まるで火が灯されたように肌が熱を持ち、喉の奥から声が漏れた。
自分の声だと気づいて、凌雪の頬は一気に赤く染まる。景耀はそんな反応を愉しむように、唇の軌跡を鎖骨へと下ろしていった。
衣の紐がほどかれ、肩が露わになる。傷のある肩を見て、景耀が眉をひそめる。
「……傷が……」
「ご心配にはおよびません。かすり傷にすぎません」
景耀は優しく傷に口づけをした。その唇の感触に、凌雪の身体が震える。
夜気がひやりと触れるより先に、景耀の掌がそこを覆い、熱を伝える。
「……お前、こんなに熱いのか」
「っ……殿下……」
甘く低い声が耳を打ち、凌雪の意識がふっと遠のきそうになる。景耀の手つきは驚くほど優しいのに、逃げ場は与えなかった。
気がつけば凌雪は、自分から殿下の胸にしがみついていた。景耀はその背を抱きしめ、さらに深く唇を重ねた。
衣擦れと呼吸が絡み合い、室内の空気が甘く濃密になっていく。指先が肌をなぞるたび、凌雪は知らなかった感覚に身を震わせる。
――……こんな気持ち、知らなかった。
主従でもなく、忠義でもない。これこそが――恋だった。
灯火が揺れ、二人の影が重なり合う。唇が塞がれ、指が絡み、身体が熱に溶かされていく。
時間の感覚が消え、世界が二人きりになった。
その夜、二人は互いの熱だけに身を委ね――やがてひとつになった。
*
外では虫の声がかすかに響き、吹き抜ける夜風が格子窓を優しくゆらす。
しかし室内には、まだ先ほどまでの熱気が残っていた。
凌雪は景耀の腕の中にいた。半ば崩れるように寄りかかるその体を、景耀はしっかりと抱き留めている。
胸の鼓動が耳元ではっきりと響くほど、互いが近かった。規則正しく、力強い響き
――それは凌雪にとって初めて感じる、安らぎを携えた音だった。
髪はほどけ、衣は乱れたまま。肌に残る熱と指先の痕が、すべてが夢ではないことを雄弁に物語っていた。
まだ身体の奥が、殿下の熱を覚えている。ひとたび思い返せば、全身が甘い余韻に包まれてしまう。
「……凌雪」
低く、どこか掠れた声が頭上から降ってきた。呼ばれただけで、胸が小さく跳ねる。
顔を上げると、景耀がすぐそこにいた。いつもは威厳を纏った王太子――だが今、その蒼い瞳は驚くほど柔らかい。
薄暗い灯火に照らされて、髪がさらりと頬にかかる。少し乱れた姿さえも、美しく、目を離せなかった。
「……その顔、面白いな」
かすかに笑みを含んだ声。凌雪は、はっとして頬を押さえた。自分の顔が赤くなっているのがわかった。
羞恥と、幸福と、信じられないような現実感が胸の奥で渦を巻く。
「殿下……お戯れを……」
掠れた声でそう言うと、景耀はふっと笑い、凌雪を腕の中にさらに引き寄せた。その動きはとても自然で、まるで最初からそこが定位置であったかのようだった。
「……少し、こうしていろ」
囁きは甘く、命令でもあり、優しさでもあった。凌雪は逆らうこともできず、胸に顔を埋めた。景耀の衣から、淡い香と体温がじんわりと染み込んでくる。
殿下の指が、凌雪の髪を優しく梳いた。一筋一筋、絡まった髪をほどくように、ゆっくりと。
その手つきは驚くほど穏やかで、凌雪の全身から緊張が溶けていった。
――こんな殿下を、誰が知っているだろう。
王座を継ぐ者の冷徹でもなく、政を担う若き王太子でもない。ただ一人の男として、こんなにも優しく、熱を帯びた存在。
凌雪は胸の奥で密かに思った。この瞬間を、誰にも見せたくない――と。
「……お前は、本当に……不思議なやつだ」
景耀がぽつりと零す。それは嘲りでも皮肉でもなく、心の底からの呟きだった。
凌雪は顔を上げ、景耀の蒼い瞳を見つめた。その瞳には、決して軽い戯れではない、深い感情の影が宿っていた。まるで、何かを決意する前触れのように――。
沈黙の中で、二人の視線だけが絡み合う。夜風がふっと吹き込み、灯火が揺れた。
重なる影が壁に映り、まるで寄り添う二匹の龍のようだった。
凌雪はそのまま、景耀の胸に身を預けた。鼓動が重なり、呼吸が溶け合い、時間の感覚がゆっくりとほどけていく。
景耀の手が髪を撫でる音と、虫の声だけが、夜の静けさの中に響いていた。
夜はさらに更けていく。
離宮の外では虫の声がかすかに響き、風が梢をゆらして囁くような音を立てていた。その響きは、まるで二人の秘密をそっと守るかのように、静かで優しかった。
凌雪は景耀の胸に抱かれるような姿勢で横たわっていた。身体の熱はようやく落ち着いたものの、頬はまだ火照ったままだ。
景耀の心臓の鼓動が、すぐ耳のそばでとくとくと響いている。その音は不思議と安心感をもたらし、先ほどまで荒れていた呼吸も、次第に落ち着いていった。
――こんな夜が、自分に訪れるなど。
夢のようだと、凌雪はぼんやりと思った。宦官として、宮廷の冷たい石の上を歩き続けてきた自分が、今、王太子の腕の中で眠ろうとしている。
身分も、立場も、越えてはならぬ境界も、今はただ遠い霞の向こうにあるだけだった。
景耀の指が、凌雪の髪をゆっくりと梳いた。乱れた髪が指の間をすり抜けるたび、凌雪はまぶたの裏がくすぐったく感じた。
その手つきには、いつもの厳しさや威圧感はなく、ただ穏やかで、優しかった。
「……眠れ」
低く囁く声が、頭のすぐ上から降ってきた。その声音には、政務の疲れも、警戒心も、王太子としての威厳もなかった。
ただ、凌雪を包み込むような温かさだけがあった。
「……殿下……」
凌雪は呼びかけたが、それ以上は何も言葉にならなかった。胸の奥が詰まって、声が続かなかったのだ。
景耀は何も言わず、代わりにその背を優しく抱き寄せた。肩口に額が触れる。
その温もりがあまりにも心地よくて、凌雪は小さく息を吐いた。
――こんな時間が、ずっと続けばいい。
そんなあり得ない願いが、ふと胸の奥に浮かんだ。けれど同時に、それが叶うことのない夢だということも、痛いほどわかっていた。
――私は……ただの宦官だ。
凌雪は心の中で呟く。この夜のことは、決して口にしてはならない。朝が来れば、それぞれの立場へ戻らねばならない。
これは、夜にだけ許された――甘く、儚い夢。
それでも、景耀の胸の音を聞きながら、凌雪はほんの少しだけ、その夢に身を委ねることにした。
景耀の指先が髪から頬へと移り、そっと撫でる。その仕草はまるで、凌雪が消えてしまわないよう確かめるかのようだった。
――殿下も、同じ思いでいてくださるのだろうか……。
凌雪は答えず、ただその胸に身を寄せた。まぶたが重くなり、意識がゆっくりと遠のいていく。
灯火の明かりが細く揺れ、二人の影が壁に寄り添うように映し出されていた。やがて、夜は深い眠りのような静けさに包まれる。
王太子と宦官――交わるはずのなかった二つの心が、誰にも知られぬまま、ひとときだけ、確かに重なっていた。
*
凌雪の呼吸が、夜の静寂に溶けていく。
胸に触れる体温が心地よく、景耀は離宮の寝台で仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
灯火は小さく揺れ、厚い離宮の壁に影がにじんでいる。腕の中で眠る凌雪は、まるで張りつめた糸がようやく切れたように、安らかな表情をしていた。
いつもの冷静な面影とは違う、年相応の柔らかな寝顔――その無防備さに、思わず視線が吸い寄せられる。
――……お前というやつは、本当に……。
苦笑ともため息ともつかない感情が、胸の奥で静かに解けていった。
最初にこの男を見た時、景耀はただの駒だと判断した。宰相が送り込んだ密偵。表情を殺し、口数も少なく、己の存在を消そうとするような宦官――。
警戒すべき相手でしかなかった。
だが、毒杯の夜がすべてを変えた。迷いも計算もない一瞬の行動。己の命を賭けて景耀を守ったその姿が、焼き付いて離れない。
あれは忠義でも功名心でもない。ただ、まっすぐな意志だった。
――だから……私は、こいつを近くに置いたのだろうな。
景耀は腕の中の凌雪を見下ろす。長い黒髪が胸元にこぼれ、灯火の明かりを受けて柔らかく光っている。
寝息とともに上下する胸元、その小さな動きひとつひとつが妙に愛おしく感じられた。
――……これは危うい。
自覚はしている。王太子として、誰かに心を委ねることは、最も愚かなことだ。
玉座を継ぐ者は、孤独でなければならない。誰も信じず、誰にも縋らず、ただ冷徹に国を支える――それが景耀の定めだった。
けれど凌雪といると、その鎧がひとつずつ剝がれていく。沈黙の中でも安心できる。命令も打算もいらない。
彼はただ、景耀そのものを見ている。
――こいつは……私の弱点になる。
心の奥で、鋭い痛みが走る。もし凌雪が標的になれば、自分は必ず迷う。その迷いが、国を揺るがすことだってあり得る。
それでも――離すことは、もう考えられなかった。
凌雪が小さく身じろぎをし、無意識に景耀の胸元を掴んだ。それだけで、胸の奥に鳴っていた警鐘が少しだけ遠のく。
凌雪の存在は、景耀にとって刃であり、鎖であり、そして抗いがたい安らぎでもあった。
――……もし、お前が危険に晒されたら、私は――どんな手を使ってでも、守るだろうな。
その考えが脳裏をかすめた瞬間、景耀は自分の内側が変わり始めていることに気づいた。
王太子としてではなく、一人の男として――凌雪を失うことを恐れている。
――……それが、いつか私を壊すかもしれん。
静かに目を閉じる。腕の中の温もりが、冷たい宮廷の現実を遠ざけていく。
玉座、宰相、毒、陰謀……この離宮の夜だけは、それらすべてが霞んでいった。
――……壊れてもいい。お前を守れるなら、それでかまわない。
そんな危うい決意が、胸の奥に静かに沈殿していく。
この夜が、景耀の運命を変える分岐点になることを――彼自身はまだ、知らなかった。
やがて景耀も、凌雪の髪に顔を埋めるようにして、静かに目を閉じた。
二人の呼吸が重なり合い、灯火だけが静かに揺れ続けていた。
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