【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

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第二章 新しい生活の始まり

引越し当日

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 五月第一週の朝、窓を開けると爽やかな春風が頬を撫でていった。空は雲ひとつない青さで、直人の心を軽やかにしてくれる。引越し当日だというのに、不思議と緊張よりも期待の方が大きかった。

「先輩、おはようございます!」

 朝七時。約束より三十分も早く、健が笑顔で現れた。

「健、早いね。ありがとう」

「いえいえ、手伝わせてもらうんで」

 健は軽やかにアパートへ上がり込むと、直人の部屋を見回して目を丸くした。

「えっと……先輩の荷物って、これだけですか?」

 六畳一間のアパート。本とノートパソコン、最低限の衣類とわずかな日用品。二年間の一人暮らしにしては、あまりにも殺風景すぎる部屋だった。

「あはは、僕、物欲ないから」

「これで本当に暮らしてたんですね……」

 健は呆れたような、それでいて少し心配そうな表情を浮かべた。直人は苦笑いでごまかす。

 必要最低限――それは聞こえはいいが、実際は「何にも興味が持てなかった」と言う方が正確だった。部屋を飾る気も、美味しいものを食べる気も、おしゃれをする気も起きない。そんな自分の無気力さを、健に見透かされているような気がして居心地が悪い。

「まあ、荷物が少ない方が楽でいいよね」

「そうですね! じゃあ、さっそく運びましょうか」

 健は持ち前の明るさで場を和ませてくれた。

 引越し業者が到着すると、二人で手分けして荷物を運ぶ。健の手際の良さもあって、作業は思いのほか早く進んだ。昼前には新しいアパートへの搬入まで完了してしまった。

「これで、全部ですね」

 八畳の部屋に、ローテーブルと本棚がぽつんと置かれているだけ。健の荷物と比べると、あまりの差に笑えてくる。

「先輩の部屋、すっきりしてますね」

「スカスカの間違いでしょ」

「いえ、ミニマルで素敵だと思います」

 健は否定しない。それが嬉しくて、直人は少しほっとした。

 午後、注文していたベッドが到着した。ダブルサイズの北欧製。今まで布団で寝ていた直人には、初めてのベッドだった。

「立派なベッドですね!」

 健が感嘆の声を上げる。窓際の明るい場所にベッドを設置してもらい、配送員が帰った後、直人は恐る恐るマットレスに腰を下ろした。

 ギシッ。

 程よい硬さのマットレスが体重を受け止める。今夜からここで眠るのかと思うと、なぜかわくわくした。

「今日から、ここで寝るんですね」

「うん。なんか、新しい生活って感じがする」

「そうですね。俺も先輩が喜んでいるのを見ると、なんだか嬉しいです」

 健の笑顔が、午後の陽射しでキラキラと輝いて見えた。

「これで今日の予定は全部終了?」

「うん、全部」

「じゃあ、この辺を案内させてもらえませんか? これから一緒に住むんですから、お店の場所とか知っておいた方がいいでしょう?」

「いいね。お願いします」

 健は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。その表情が、なぜか直人の胸をくすぐった。


 駅から徒歩十分のマンション周辺は、生活に必要なものが全て揃っていた。スーパー、コンビニ、ドラッグストア、クリーニング店。ホームセンターこそないものの、大型スーパーが日用品も扱っているので困ることはなさそうだった。

「先輩、せっかくだから食材買いませんか?」

 健が直人の腕を軽く引っ張る。その仕草が自然で、まるで昔からの友人のようだった。

「ここのスーパー、安いけど品質もいいんですよ」

 健は慣れた様子で野菜売り場へ向かい、小松菜を手に取って品定めを始めた。葉の色、茎の太さ、みずみずしさを確かめる姿は、まるでベテラン主婦のようで、直人は思わず吹き出してしまった。

「なんですか?」

 健が振り返る。頬を少し膨らませて、むくれた表情がかわいらしい。

「いや、健って意外としっかりしてるんだなって」

「そ、そうですか?」

 健は恥ずかしそうに俯いた。耳の先が薄っすらと赤くなっている。こんな表情の健は初めて見る。いつもの人懐っこい笑顔とは違う、少し内気な一面を垣間見られて、直人の胸は温かくなった。

「食費とかはどうしよう?」

「食費は折半で。自分の嗜好品は自分持ちということで、どうでしょう?」

「オッケー、了解」

「基本的に俺が料理作りますから、食材選びは任せてください」

 健は話しながらも、次々と必要な食材をカゴに入れていく。その手つきに迷いがない。きっと、母親から仕込まれただけでなく、一人暮らしでも自炊を続けているのだろう。

 家に戻ると、もう夕暮れ時だった。健は買い物袋から食材を取り出し、冷蔵庫へ整理して入れていく。

「今日は引越し祝いってことで、ちょっと豪華にいきますね」

「ありがとう。何か手伝おうか?」

「いえいえ、先輩は座ってて」

 健はエプロンを着けると、手際よく調理を始めた。直人はソファに座ったものの、何もしないのは落ち着かず、そっとキッチンへ近づいた。

「見学してもいい?」

「別に大したことしませんけど……どうぞ」

 健の包丁さばきは見事だった。玉ねぎを薄切りにし、人参を拍子木切りにし、鶏肉を一口大に切る。無駄な動きが一切ない。

「上手だね」

 思わず感嘆の声が漏れた。

「母親が厳しい人で、家事全般は小さい頃から仕込まれました」

「いいなあ。僕は料理は全然ダメで。掃除洗濯はなんとかなるんだけど」

「じゃあ、今度一緒に作りましょうよ! 俺が教えます」

 健の顔がぱあっと明るくなる。その笑顔を見ていると、直人も自然と口元が綻んだ。

 三十分ほどで、豪華な夕食の出来上がり。チキンのトマト煮込み、彩り豊かなサラダ、コンソメスープ。一人暮らしでは絶対に食べられない、手の込んだ料理だった。

「すごいね、健。レストランみたい」

「そんな、大げさな」

 健は照れながらも嬉しそうにした。二人きりの引越し祝いが、こんなに特別なものになるとは思わなかった。
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