【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

文字の大きさ
23 / 34
第六章 それぞれの気づき

ひとりになった部屋で

しおりを挟む
 智也は直人と健が住んでいるマンションに泊まっていきそうな勢いだったのに、戻ってきたのは健、ただ一人だった。玄関のドアが開く音を聞いて、直人は慌ててリビングに出る。健の表情は複雑で、眉間に深い皺が刻まれていた。まるで重い決断を下してきたような、そんな顔だった。

「健、おかえり。お兄さんは?」

 直人に声をかけられて、健はようやく我に返ったように顔をあげた。その瞬間、健の瞳に一瞬迷いが走るのを直人は見逃さなかった。

「あ、ただいま。兄さんなら帰ったよ。明日、朝一で会社で商談があるらしくて……」

 そう言った健の表情は、智也とともに出かけていく前よりも明るく見えた。けれど同時に、どこか諦めにも似た透明感があった。まるで長い間抱えていた重荷を下ろしたような、そんな安堵と寂しさが混在している。

「お兄さんと、ゆっくり話できた?」

 直人はどんな話をしたのか詳しく聞きたかったが、それをグッと心の奥に押し込めた。聞いてしまったら、もう後戻りできない気がしたから。健は一瞬笑顔を見せたが、すぐに真剣な表情に戻った。

「うん。気持ちの整理はまだつかないけど、やるべきことは見えてきたと思う」

 その表情からは健の気持ちの固さが痛いほど伝わってきた。直人の胸に嫌な予感が走る。

「そ……っか」

 直人はその先の言葉を聞きたくなかった。だが、聞かないわけにはいかない。健の真剣な瞳が、逃げることを許してくれない。

「俺、ここを出るよ」

 予想していた言葉だったのに、実際に口にされると直人の心臓が痛いほど高鳴った。

「しばらく友達の家にお世話になって、自分がどうしたいのか、一旦距離を置いて、じっくり考えてみる」

 その言葉には揺るぎない決意がみなぎっていた。一方、直人の心の中には嵐が吹き荒れているようだった。

 ――健と離れたくないのに……。

 だけど、健の決意を否定するわけにはいかない。健が自分なりに出した答えなのだから。

「そっか。もう、決めたんだね」

 声が震えそうになるのを必死で堪える。

「うん。明日、ここを出ていくよ。家賃は今月分まで払うから。荷物は一旦そのままにしておいて。時間ができたら運び出すから」

「……うん」

 直人は必死で涙を堪えようと、目を大きく開いた。瞬き一つで、涙がこぼれ落ちそうだった。喉の奥が熱くなって、息をするのも苦しい。

「先輩、ご迷惑おかけしました」

「……迷惑なんて、そんな……」

 迷惑だなんて思ったことは一度もない。むしろ健がいてくれたから、この部屋が家になったのに。

「本当にありがとうございました! 短い間だったけど、楽しかったです」

 健はそう言うと自分の部屋へと向かった。その後ろ姿は小さく見えて、直人はなぜか健を抱きしめたくなった。でも、そんなことをする権利は自分にはない。二人は擬似恋人で、本物の恋人じゃないのだから。

 健の部屋のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 次の日の朝、直人が部屋から出てくると、健は大きなスーツケースを手にしていた。いつものように朝食の甘い匂いがしてダイニングテーブルに目をやると、直人の分の朝食が丁寧に準備してあった。まるで最後の贈り物のように、美しく盛り付けられている。

「おはよう、健」

「おはようございます、直人先輩」

 健がいつもより丁寧な敬語を使ったことに、直人は小さく胸を痛めた。距離を置こうとしている健の気持ちが、その一言に込められている。

「健、あれ、朝ごはん……」

「あ、今までお世話になったお礼です。直人先輩の好きなフレンチトーストにしました」

 健の気遣いに直人の心がじんとした。こんな時でも、最後まで自分のことを気にかけてくれる健の優しさが愛おしくて、同時に切ない。

「ありがとう。いつも美味しいご飯作ってくれて。健のご飯、本当に好きだったよ」

 直人は微笑んで見せたが、自分でも笑顔が引き攣っているのがわかる。

「そう言ってもらえると、嬉しいです。それじゃ、俺、行きますね」

 直人は健の後ろから玄関まで行った。振り返って直人の顔を見る健の表情は笑顔だったが、その瞳の奥に寂しさが滲んでいるのが見える。健は何か言おうと口を開きかけたが、結局言葉を飲み込んだ。ドアを閉める音だけが、やけに大きく室内に響いた。

 健がいなくなった部屋は、急に天井が高くなったように感じられた。健の部屋はもちろん、リビングやキッチンからも健の温かな気配は消え去っていた。今まではこの部屋のどこかに健の気配を感じ、それだけで心が安らいでいたのに……。今日からはそれがなくなってしまった。

 直人はダイニングテーブルに腰を下ろした。テーブルの上に、直人の大好きなフレンチトーストが置いてある。皿を持ち上げ、裏側に触れると、まだほんのりと温かかった。健が直人のために作ってくれた、最後の朝食。

 フォークで食べやすい大きさにカットして、口に運ぶ。口の中で、ジュワッと砂糖と卵と牛乳の優しい甘さが広がった。鼻からバターの香ばしい香りが抜けていく。

「健、美味しいよ……」

 いつもは向かいに座って、直人の食べる姿を嬉しそうに眺める健の姿が、今日は、ない。空いた椅子だけが、健の不在を静かに物語っている。

 直人は、ひとくち、またひとくちとフレンチトーストを口に入れた。気づけば、目からは涙が溢れ出していた。塩味が甘いフレンチトーストに混じって、なんとも言えない味になる。

 朝食を食べ終わり、シンクで洗い物をした後、飲み物を取り出そうと冷蔵庫を開けた。するとそこには、昨日のうちに健が準備してくれたのだろう、たくさんの作り置きのおかずが透明な容器に入れて整然と並べられていた。しかも、容器には一つずつ、健の丁寧な字でラベルが貼ってある。

「豚の生姜焼き(二人分)」
「野菜炒め(三日分)」
「味噌汁の具」

 直人が料理が苦手なのを知っていた健が、最後の最後まで気を利かせて作ってくれたのだろう。その心遣いに再び目頭が熱くなった。ラベルの文字を見ているだけで、健の優しさが伝わってくる。

 直人はソファに座って、健と過ごした日々を思い出していた。

 この部屋に住んで、約三ヶ月。最初はただのルームメイトだったのが、一ヶ月後には『擬似恋人』となった。

 初めてのデート。映画館で手を繋いだ時の胸の高鳴り。映画館で見せた健の真剣な横顔。毎日作ってくれた美味しいご飯を食べる時の健の満足そうな表情。目を細めた健の笑い顔。元カレのことを話してくれた時の健の悲しい顔と、その頬を伝った涙。そして、『本気になってしまいそうで怖い』という健の震える声。

 その一瞬一瞬が、直人の心に深く刻み込まれているのがわかった。いろんな感情が重なり合って、胸が苦しくて、この場から逃げ出したくなる。けれど、健は自分の気持ちと向き合うために、この家を出たのだ。だから直人も自分の気持ちとしっかり向き合わなければいけない。

 どれぐらいの時間、ソファに座っていただろうか。顔を上げると、日はすっかり高くなっていた。エアコンの音だけが部屋に響いている。直人は顔をあげて天井を見つめると、ゆっくりと口を開いた。

「うん。これは、恋だ」

 一人しかいない広い部屋に自分の声が響き渡る。声に出すことで、ようやく自分の気持ちが現実のものになった気がした。

 健に対する直人の気持ちは、明らかに恋愛感情だった。美月の言った通りだった。健のことを考えている時間が一日の大半を占め、健が笑うと嬉しくて、健が泣くと苦しい。健がいない今、胸に大きな穴がぽっかりと開いたようだった。

 そしてようやく気づいた。この気持ちは誰かに与えられたものではない。自分で選び取った気持ち。健との『擬似恋人』生活を経て、自分で好きになることを選んだのだ。涼太の言っていた『後悔しない選択』とはこのことかもしれない。

 これまで直人は、人生の重要な場面でいつも流されるままだった。高校選択も、大学選択も、すべて周りの期待に応える形で決めてきた。でも健を好きになったのは、初めて自分の意志で選んだ感情だった。

 しかし今、自分の気持ちがはっきりわかったところで、健はもう、家を出て行ってしまった。もしかして、この気持ちに気づいたのが遅すぎたのか……。そう考えると、悲しくて仕方なかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ! あらすじ 「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」 貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。 冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。 彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。 「旦那様は俺に無関心」 そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。 バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!? 「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」 怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。 えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの? 実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった! 「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」 「過保護すぎて冒険になりません!!」 Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。 すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

元カノの弟と同居を始めます?

結衣可
BL
元カノに「弟と一緒に暮らしてほしい」と頼まれ、半年限定で同居を始めた篠原聡と三浦蒼。 気まずいはずの関係は、次第に穏やかな日常へと変わっていく。 不器用で優しい聡と、まっすぐで少し甘えたがりな蒼。 生活の中の小さな出来事――食卓、寝起き、待つ夜――がふたりの距離を少しずつ縮めていった。 期限が近づく不安や、蒼の「終わりたくない」という気持ちに、聡もまた気づかないふりができなくなる。 二人の穏やかな日常がお互いの存在を大きくしていく。 “元カノの弟”から“かけがえのない恋人”へ――

唇を隠して,それでも君に恋したい。

初恋
BL
同性で親友の敦に恋をする主人公は,性別だけでなく,生まれながらの特殊な体質にも悩まされ,けれどその恋心はなくならない。 大きな弊害に様々な苦難を強いられながらも,たった1人に恋し続ける男の子のお話。

【完結】社畜の俺が一途な犬系イケメン大学生に告白された話

日向汐
BL
「好きです」 「…手離せよ」 「いやだ、」 じっと見つめてくる眼力に気圧される。 ただでさえ16時間勤務の後なんだ。勘弁してくれ──。 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 純真天然イケメン大学生(21)× 気怠げ社畜お兄さん(26) 閉店間際のスーパーでの出会いから始まる、 一途でほんわか甘いラブストーリー🥐☕️💕 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 📚 **全5話/9月20日(土)完結!** ✨ 短期でサクッと読める完結作です♡ ぜひぜひ ゆるりとお楽しみください☻* ・───────────・ 🧸更新のお知らせや、2人の“舞台裏”の小話🫧 ❥❥❥ https://x.com/ushio_hinata_2?s=21 ・───────────・ 応援していただけると励みになります💪( ¨̮ 💪) なにとぞ、よしなに♡ ・───────────・

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

処理中です...