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第1章
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それからルネとは、ミカエルが屋敷に侵入する日、たまに会うようになった。
どうやらルネは、ミカエルのことを屋敷の誰にも言っていないらしく、ミカエルもまた、ルネ以外の生き物の気配や音は感じ取って避けることができるため、2人は自ずと秘密に会う、良い友人関係になっていった。2人はお互いにお互いのことを深くは聞くことも、教えることもしなかった。ルネはミカエルのことを仕事でこの屋敷に来ている魔法使いの猫、ミカエルはルネのことを屋敷の1人娘で、何故かいつも体のどこかしらに怪我をしている、深窓の令嬢、という認識だった。
そしてミカエルの仕事は、想像以上にスムーズに進んでいた。ルネが屋敷の部屋の配置や、騎士団が見回りを行う時間、庭師が庭の手入れをする日など、あらゆる情報を教えてくれるからだ。最初は戸惑って情報を受け取ることを拒否していたミカエルであったが、
「じゃあ情報を渡す代わりに、私に外の世界のことを教えるというのはどうかしら。ミカエル様が今まで行ってきた国のことや見てきた生き物、倒した魔物のこと、なんでもいいの。私、この屋敷から出たことがないから」
と、その瞳で寂しそうに言われれば、ミカエルは頷くしかなかった。頷きを返した直後のルネの笑顔を、ミカエルはこの先一生忘れないだろう、となんとなく思った。華やかな笑顔ではない、決して心から笑っている訳ではない薄幸な色を含んだ笑みだったが、彼女が喜んでくれていることが、この時のミカエルには分かっていた。
ルネに驚かされるのは、これだけではなかった。なんと彼女はとうに成人を迎え、結婚適齢期真っ只中だという。身長や顔立ちとミスマッチ過ぎて、ミカエルは無礼にも「もっと子供だと思っていた」という言葉が口をついて出てしまったくらいだ。
それから、公爵令嬢と侵入者の猫の奇妙な情報交換会は、何度か開かれた。ある日はルネがミカエルを見つけて、ある日はその逆、偶然鉢合わせることもあった。ルネは、いつも体のどこかしらに傷を抱えていた。ミカエルはそれを毎回治してあげた。
季節は日に日に冬を深めていった。今日はネイティア家の屋敷、当主の部屋の間取りを屋敷の敷地外から確認し、夜中に忍び込む予定だ。ミカエルが街路樹の陰から遠近魔法で当主の部屋を望遠していた時、ただならぬ魔力を感じて、消していた気配をさらに殺した。風の魔力だ。何か嫌な予感がして、魔力を感じたほうに目を向ける。青い屋敷の近くだ。ミカエルは爪を立てないよう注意しながら走った。
ドォーン!!
また大きな風の魔力を感じ、今度は爆発と衝撃音、それから人の悲鳴や怒号が聞こえた。
(何が起きている?)
魔法が放たれたと思われる場所から土煙が立ちのぼり始めたのを傍目に視認しながら、ミカエルは足を速めた。
「ルネ、まさかとは思うが…」
ミカエルの予想は、不幸にも的中していた。
風魔法が放たれた先、きれいに整えられた庭の薔薇が植えられた花壇に、ルネが倒れていた。土埃の合間から見えた顔には見覚えがあった。ルネに渡されたこの屋敷の女主人、ネイティア公爵家のクロースティ夫人だ。彼女は確か強力な風魔法の使い手だったはずだと、ミカエルはルネから得た情報を思い出す。その能力を買われ、公爵家に嫁入りしたとも。
クロースティ夫人は、ルネの実の母親ではなかった。ルネの母親も、かなりの風魔法を使いこなせる逸材だったのだが、ルネを産んで5年後のある日、突然茶葉に混ざっていた毒を誤って飲み、死んでしまったという。その後現公爵、ルネの実父が再婚相手に選んだのが、クロースティというわけだ。
「ルネ。あなた、私に恥をかかせるつもり!?突然何もない場所で転んだと思ったら、私の袖をつかんで倒されたのよ!あなたのせいで、私のお気に入りのドレスが土まみれだわ!どうしてくれるの!!」
クロースティは激昂していて、手も付けられない様子だった。周りでメイドが必死に宥めているが、うるさいの一言と、持っていた真っ赤なレースの扇子で一番近くにいたメイドの頬をひっぱたいてさらに騒ぎ立てた。悲痛の声を上げ、後ろに倒れこむメイドを別の髪の短いメイドが起こし、心配そうに簡単な治癒な法をかけてあげていた。
(そのメイドの前に、誰かルネを助けてやらないか!彼女の怪我のほうがよっぽど重症だぞ)
だがミカエルも現場の張りつめた空気を察した。今、ルネのもとに駆け寄って治癒魔法なんかをかけたら最後、標的は自分に移るかもしれない。そうこの現場のクロースティとミカエル以外の皆が恐怖している。メイドも、騒ぎに駆け付けた騎士団員も、皆あの公爵夫人が恐ろしくてたまらないという空気が、ミカエルの肌にピリピリと伝わってくるのだ。
「…ぅ…っ…お、お義母様、どうかメイド達には手を出さないでくださいませ」
薔薇の花壇に倒れていたルネは、ようやく口を開くと上半身をゆっくりと起き上がらせた。土に塗れたその手も顔も破れたドレスの間から見える足も、魔法の衝撃と薔薇の棘で傷つけられ、血が出ている。
それを見たクロースティは小馬鹿にしたように笑った。
「はっ!全身泥まみれの傷だらけで、みっともないこと。そんな姿で私の前に出てこないで頂戴」
「申し訳…ございません。突然のことでお義母様の魔法を防ぐことができませんでした。それから綺麗なお庭を台無しにしてしまったことも…。薔薇の棘、庭師にお願いしてしっかり取ってもらうようお願いしておきます。ですからどうか、怒りを鎮めていただけませんか。皆が怯えています。お義母様、どうか…」
(何故…何故ルネが謝っているんだ。悪いのは、理不尽に攻撃した公爵夫人のほうではないか!)
ミカエルは今にも任務を忘れて飛び出していきたい衝動に駆られたが、憎いことに理性がそれをすんでのところで踏みとどまらせる。
必死に頭を下げてお願いをするルネに、クロースティはようやく満足したのか、数名のメイドを連れて庭を後にした。去り際に「あなたさえいなければ…!」という捨て台詞を残して。
クロースティの姿が見えなくなった後、残されたメイドと護衛の騎士はすぐさまルネに駆け寄った。
「お嬢様!!」
「ああ、ああぁ!!こんなに血が!早く医者を呼んできて!早く!!」
顔を青くするメイド達を、ルネは慣れたように宥めた。
「皆、大丈夫だから。いつものことでしょ。」
「大丈夫ではありません!お嬢様はこの国の王女様に次ぐ高貴なレディなのですよ!それなのに…」
一人の騎士が唇を噛みしめながら頭を下げた。
「申し訳ございません。私どもはお嬢様をお守りする立場でしたのに」
「いいのよ、仕方がないわ」
「いいえ!私はお嬢様の護衛騎士でありながら、クロースティ様の圧倒的な魔法に恐怖し、足がすくんで動けなかったのです。大切なお嬢様が傷つけられ罵倒されているのを黙って見ていることしかできなかったのです。お嬢様、どうかお役に立てなかった私を罰してください。でなければ、私は、何のためにここにいるのか…」
そう騎士の男は言ったが、ルネは首を振った。
「私があなたの立場だったら、私も同じように動けていなかったわ」
「お嬢様…ですが!」
「これ以上は無意味な口論よ。仕方がないの、これは、私のせいだから」
仕方がないのよ、とルネはもう一度その言葉を口にした。
まるで、自分に言い聞かせるように、ぽつりとか細い声で「仕方がない」と。
やがて医者らしき人物が現場に駆け付け、ルネに応急処置を施した後、彼女を護衛騎士に抱えさせ、青い壁の屋敷に連れて行った。
怒涛の一部始終を見たミカエルは、何を考えているのか隠れていた木の上で幹に背を預け、口元に手を当てている。ミカエルの考えるときの癖だ。
「さて、どうしたものか」
次にルネに会うのはいつだろうか。
こんな惨劇を目にして、ルネの抱える事情に目を背け、何も知らない頃と同じように話が出来るのか、ミカエルには自分がそれを演じている姿が全く想像できなかった。
どうやらルネは、ミカエルのことを屋敷の誰にも言っていないらしく、ミカエルもまた、ルネ以外の生き物の気配や音は感じ取って避けることができるため、2人は自ずと秘密に会う、良い友人関係になっていった。2人はお互いにお互いのことを深くは聞くことも、教えることもしなかった。ルネはミカエルのことを仕事でこの屋敷に来ている魔法使いの猫、ミカエルはルネのことを屋敷の1人娘で、何故かいつも体のどこかしらに怪我をしている、深窓の令嬢、という認識だった。
そしてミカエルの仕事は、想像以上にスムーズに進んでいた。ルネが屋敷の部屋の配置や、騎士団が見回りを行う時間、庭師が庭の手入れをする日など、あらゆる情報を教えてくれるからだ。最初は戸惑って情報を受け取ることを拒否していたミカエルであったが、
「じゃあ情報を渡す代わりに、私に外の世界のことを教えるというのはどうかしら。ミカエル様が今まで行ってきた国のことや見てきた生き物、倒した魔物のこと、なんでもいいの。私、この屋敷から出たことがないから」
と、その瞳で寂しそうに言われれば、ミカエルは頷くしかなかった。頷きを返した直後のルネの笑顔を、ミカエルはこの先一生忘れないだろう、となんとなく思った。華やかな笑顔ではない、決して心から笑っている訳ではない薄幸な色を含んだ笑みだったが、彼女が喜んでくれていることが、この時のミカエルには分かっていた。
ルネに驚かされるのは、これだけではなかった。なんと彼女はとうに成人を迎え、結婚適齢期真っ只中だという。身長や顔立ちとミスマッチ過ぎて、ミカエルは無礼にも「もっと子供だと思っていた」という言葉が口をついて出てしまったくらいだ。
それから、公爵令嬢と侵入者の猫の奇妙な情報交換会は、何度か開かれた。ある日はルネがミカエルを見つけて、ある日はその逆、偶然鉢合わせることもあった。ルネは、いつも体のどこかしらに傷を抱えていた。ミカエルはそれを毎回治してあげた。
季節は日に日に冬を深めていった。今日はネイティア家の屋敷、当主の部屋の間取りを屋敷の敷地外から確認し、夜中に忍び込む予定だ。ミカエルが街路樹の陰から遠近魔法で当主の部屋を望遠していた時、ただならぬ魔力を感じて、消していた気配をさらに殺した。風の魔力だ。何か嫌な予感がして、魔力を感じたほうに目を向ける。青い屋敷の近くだ。ミカエルは爪を立てないよう注意しながら走った。
ドォーン!!
また大きな風の魔力を感じ、今度は爆発と衝撃音、それから人の悲鳴や怒号が聞こえた。
(何が起きている?)
魔法が放たれたと思われる場所から土煙が立ちのぼり始めたのを傍目に視認しながら、ミカエルは足を速めた。
「ルネ、まさかとは思うが…」
ミカエルの予想は、不幸にも的中していた。
風魔法が放たれた先、きれいに整えられた庭の薔薇が植えられた花壇に、ルネが倒れていた。土埃の合間から見えた顔には見覚えがあった。ルネに渡されたこの屋敷の女主人、ネイティア公爵家のクロースティ夫人だ。彼女は確か強力な風魔法の使い手だったはずだと、ミカエルはルネから得た情報を思い出す。その能力を買われ、公爵家に嫁入りしたとも。
クロースティ夫人は、ルネの実の母親ではなかった。ルネの母親も、かなりの風魔法を使いこなせる逸材だったのだが、ルネを産んで5年後のある日、突然茶葉に混ざっていた毒を誤って飲み、死んでしまったという。その後現公爵、ルネの実父が再婚相手に選んだのが、クロースティというわけだ。
「ルネ。あなた、私に恥をかかせるつもり!?突然何もない場所で転んだと思ったら、私の袖をつかんで倒されたのよ!あなたのせいで、私のお気に入りのドレスが土まみれだわ!どうしてくれるの!!」
クロースティは激昂していて、手も付けられない様子だった。周りでメイドが必死に宥めているが、うるさいの一言と、持っていた真っ赤なレースの扇子で一番近くにいたメイドの頬をひっぱたいてさらに騒ぎ立てた。悲痛の声を上げ、後ろに倒れこむメイドを別の髪の短いメイドが起こし、心配そうに簡単な治癒な法をかけてあげていた。
(そのメイドの前に、誰かルネを助けてやらないか!彼女の怪我のほうがよっぽど重症だぞ)
だがミカエルも現場の張りつめた空気を察した。今、ルネのもとに駆け寄って治癒魔法なんかをかけたら最後、標的は自分に移るかもしれない。そうこの現場のクロースティとミカエル以外の皆が恐怖している。メイドも、騒ぎに駆け付けた騎士団員も、皆あの公爵夫人が恐ろしくてたまらないという空気が、ミカエルの肌にピリピリと伝わってくるのだ。
「…ぅ…っ…お、お義母様、どうかメイド達には手を出さないでくださいませ」
薔薇の花壇に倒れていたルネは、ようやく口を開くと上半身をゆっくりと起き上がらせた。土に塗れたその手も顔も破れたドレスの間から見える足も、魔法の衝撃と薔薇の棘で傷つけられ、血が出ている。
それを見たクロースティは小馬鹿にしたように笑った。
「はっ!全身泥まみれの傷だらけで、みっともないこと。そんな姿で私の前に出てこないで頂戴」
「申し訳…ございません。突然のことでお義母様の魔法を防ぐことができませんでした。それから綺麗なお庭を台無しにしてしまったことも…。薔薇の棘、庭師にお願いしてしっかり取ってもらうようお願いしておきます。ですからどうか、怒りを鎮めていただけませんか。皆が怯えています。お義母様、どうか…」
(何故…何故ルネが謝っているんだ。悪いのは、理不尽に攻撃した公爵夫人のほうではないか!)
ミカエルは今にも任務を忘れて飛び出していきたい衝動に駆られたが、憎いことに理性がそれをすんでのところで踏みとどまらせる。
必死に頭を下げてお願いをするルネに、クロースティはようやく満足したのか、数名のメイドを連れて庭を後にした。去り際に「あなたさえいなければ…!」という捨て台詞を残して。
クロースティの姿が見えなくなった後、残されたメイドと護衛の騎士はすぐさまルネに駆け寄った。
「お嬢様!!」
「ああ、ああぁ!!こんなに血が!早く医者を呼んできて!早く!!」
顔を青くするメイド達を、ルネは慣れたように宥めた。
「皆、大丈夫だから。いつものことでしょ。」
「大丈夫ではありません!お嬢様はこの国の王女様に次ぐ高貴なレディなのですよ!それなのに…」
一人の騎士が唇を噛みしめながら頭を下げた。
「申し訳ございません。私どもはお嬢様をお守りする立場でしたのに」
「いいのよ、仕方がないわ」
「いいえ!私はお嬢様の護衛騎士でありながら、クロースティ様の圧倒的な魔法に恐怖し、足がすくんで動けなかったのです。大切なお嬢様が傷つけられ罵倒されているのを黙って見ていることしかできなかったのです。お嬢様、どうかお役に立てなかった私を罰してください。でなければ、私は、何のためにここにいるのか…」
そう騎士の男は言ったが、ルネは首を振った。
「私があなたの立場だったら、私も同じように動けていなかったわ」
「お嬢様…ですが!」
「これ以上は無意味な口論よ。仕方がないの、これは、私のせいだから」
仕方がないのよ、とルネはもう一度その言葉を口にした。
まるで、自分に言い聞かせるように、ぽつりとか細い声で「仕方がない」と。
やがて医者らしき人物が現場に駆け付け、ルネに応急処置を施した後、彼女を護衛騎士に抱えさせ、青い壁の屋敷に連れて行った。
怒涛の一部始終を見たミカエルは、何を考えているのか隠れていた木の上で幹に背を預け、口元に手を当てている。ミカエルの考えるときの癖だ。
「さて、どうしたものか」
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