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第二十四話 離れたくなくて、嘘をついて、今は幸せで
しおりを挟む美咲は嘘をついた。
秀人の家に初めて来た日に。
あれから二ヶ月ほど。今では、あのときの選択が正解だったと実感していた。
嘘をついて、ここに住みついて、よかった。
時刻は夕方。
秀人の家のダイニングキッチン。つい先ほど買ってきた食材が並んでいる。今夜はカレー。市販のカレー粉から作るのではなく、自分でルーを作る。初めての試みだ。
スパイスの効いた匂いが、美咲の鼻孔をくすぐっている。
洋平と秀人は、今、地下室で訓練をしている。お腹を空かせた彼等がこのカレーを食べたら、何て言うだろう。
二人の姿を想像して、美咲の口元が緩んだ。
秀人の家に住み始めてから、家事は美咲の仕事となった。とはいえ、やるべきことは、自分の家にいたときと大して変わらない。掃除、洗濯、食事の用意。学校に行かなくなった分だけ、時間はある。仕事が片付かないということはなかった。
大変なのは、やるべきことの内容は変わらなくても、量が増えたことだ。洗濯物の量は自分一人のときの三倍。秀人の家は広いから、掃除の手間は五倍。用意する食事の量に関しては、下手をすれば十倍だ。秀人は、小柄な体に似合わず異常なほど食べる。洋平も、体を動かしている分だけよく食べる。
食材の買い出しは重労働だった。自分一人のときに比べて、十倍もの食材を買い出すのだ。
秀人の家から近所のスーパーまで、歩いて十分ほど。それほど遠い距離ではないが、重い物を持ち運んで歩くとなれば、話は別だ。洋平と違って体を鍛えるつもりなんてないのに、筋肉がついてしまうかも知れない。
だが、重労働であっても、苦痛ではない。
美咲は毎日、夕方に買い出しに出掛ける。その際には、洋平もついて来てくれた。荷物持ちだ。
大量の食材を買い出すのだから、彼一人で全ての物を持てるわけではない。腕力に問題がなくとも、腕は二本しかないから、持てる量には限界がある。結局は、美咲も一緒に荷物を持つことになる。
洋平と二人きりで、食材を持って歩く。そんな毎日。
夕日に照らされる帰り道。彼と何気ない会話を交わしながら、一緒に歩く帰り道。
命懸けで自分を守ってくれた彼と、共にしている時間。
それは、自宅にいた頃のような暗く沈んだ時間ではない。柔らかい温もりに包まれている時間だった。
家に帰ると食事の用意をする。
大量の食材を使って、大量の料理を作る。こんな大量の料理を作ることなど今までなかったから、最初は少し失敗した。調味料の分量が、いまいち分からなかった。けれど、秀人も洋平も、文句ひとつ言わずに美咲の料理を食べてくれた。
すぐに大量の料理に慣れて、味付けも問題なくできるようになった。
美咲の作った料理を、洋平は「旨い」と連呼して頬張っていた。その姿は年相応の少年で、浮かべる笑顔は無邪気という言葉がぴったりと当てはまる。
洋平は、いつも欠かさず弟の分の盛り付けも用意していた。美咲が教えた、死者へのお供え。食事の前に手を合わせる姿に、少なくない切なさを感じた。それでも食事が始まると、笑顔になって、楽しそうに、旨そうに料理を口に運んでいた。
秀人は、食べる量は多いものの、洋平のようにガツガツとした食べ方はしない。物静かな様子で、行儀のいい子供のように、淡々と食べ物を口に運ぶ。食卓に並んだ品を口に入れ、味を確かめるように噛む。「やっぱり、今日も旨いね」と優しく笑う。
笑顔が見える食卓。みんなで囲む、自分の作った料理。「旨い」という言葉。
自分が、家族を見ている。
家族も、自分を見てくれる。
話してくれる。
褒めてくれる。
それは、美咲が、子供の頃からずっと求めていたものだった。欲しくて、でも、手に入らなかったもの。
だから、体を売ることをやめられなかった。二年もの間、毎週、知らない男を自分の上に乗せていた。見てほしくて。褒めてほしくて。
美咲を買い、美咲の上に乗った男達は、美咲を見てくれた。褒めてくれた。褒め言葉が嘘ではない証明に、金を出してくれた。その視線が、褒め言葉が、証拠として出してくれる金が、たまらなく快感だった。満たされた。
満たされた気分になっていた。
でも、ホテルから出て家に帰ると、どうしようもなく虚しくなった。
心のどこかで気付いていたのだ。
自分を見てくれた目は、所詮は情欲のみの視線。褒め言葉は、悦楽を満たすための手段。手に残るのは、風に飛ばされそうなほど軽い、数枚の金。
自分のやっていることが虚しいと決定的に気付いたのは、最後に体を売ったときだった。
洋平が側にいたから、気付いてしまった。嘘偽りなく、裏表のない本心で自分を守ってくれる、洋平がいたから。
それでも、売春をやめると洋平に告げたときは、不安だった。やめたら、自分に価値がなくなってしまうのではないか。自分の存在が、無意味なものになってしまうのではないか。
不安でたまらなかった。震えるほどに、怖かった。
それでも告げた。自分が売春を続けることで、洋平を危険な目に合わせてしまうかも知れない。純粋な心で自分を見てくれる彼を、永久に失ってしまうかも知れない。
洋平を失うことに比べたら、自分の価値がなくなってしまうことなんて、大して怖くなかった。
洋平を失うのが怖い。彼がいなくなるのが怖い。彼の側にいられなくなるのか怖い。
だから美咲は、嘘をついた。秀人の家に初めて来た日に。
あの日、洋平は秀人に誘われていた。ここに来い、と。俺と一緒に動かないか、と。
秀人に言われた洋平を見て、美咲は、直感的に悟った。洋平は、秀人のもとに行く。秀人と洋平の境遇は、驚くほどよく似ていたから。大切な家族を理不尽な理由で失い、周囲から残酷な扱いを受けた。誰も――本来なら自分達を助けてくれるはずの人にも、助けてもらえなかった。
たったひとりで生きてきた。
同時に、予感があった。秀人とともに行動するなら、洋平は、美咲に、家に帰るように言うだろう。秀人が味方になったのなら、美咲が暴力団に狙われる心配はなくなるから。秀人の存在が、暴力団に対する抑止力になるから。
帰りたくなかった――いや、帰ってもいいのだ。洋平が一緒にいてくれるなら。
でも、秀人と一緒に行動するのなら、洋平は、もう美咲の家には帰ってこない。
嫌だ、と思った。離れたくない。一緒にいたい。だから、必死に考えた。どうやったら洋平と一緒にいられるか。どうやったら、彼に「帰れ」と言われずに済むか。
考えるために、秀人と洋平の会話に割って入った。話を引き延ばした。適当なことを彼に言いながら、洋平に「帰れ」と言われないための言い訳を考えた。
でも、そんなことなど、簡単に思い浮かばなかった。
秀人との会話が終わった。彼は再び、洋平に向き直った。再度、洋平に手を差し伸べた。
美咲の思った通り、洋平は秀人の手を取った。それは、彼と共に生きるという意思表示に他ならなかった。
秀人の手を取りながら、洋平は美咲を見た。優しい微笑みを見せていた。それが、美咲に対する感謝と別れの笑みであることは、明らかだった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
一緒にいたい。離れたくない。
私が、体を売らなくても自分の存在が無意味じゃないと思えたのは。
自分を必要としてくれる人がいるって思えたのは。
自分に価値を感じられたのは、洋平のお陰なんだから!
心の叫びを実現させたくて、つい、言葉が出た。私も一緒にいる、と。
その瞬間に、まるで奇跡のように、言い訳が出てきた。嘘を交えた言い訳。
『うちには、監視カメラがたくさん付いてるの』
『たぶん、私がヤクザに拉致されたことにも気付いていると思う』
『ヤクザと揉めて拉致されるような私を、家に入れてくれるとは思えない』
暴力団に拉致されたとき、美咲は気を失っていた。どの辺りで襲われたかなんて、覚えていない。でも、最後に意識があったのは、自宅からそれなりに離れた場所だった。
自宅の監視カメラになんて、映るはずのない場所。
洋平に「帰れ」と言われたくなくて、嘘をついた。一緒にいたかったから。離れたくなかったから。彼から離れたら、自分には、本当に何もなくなってしまうから。
嘘をついた、ほんの少しの罪悪感。
それと引き替えに、今、美咲の手の中には、ずっと欲しかったものがある。裸にならなくても、自分を見てくれる人。自分を大切にしてくれる人。自分が、見ていたいと思う人。
当初は、洋平と一緒にいられればいいと思っていた。けれど、秀人も、美咲のことを見てくれた。人と過ごす温かさを教えてくれた。
たくさん話した。誕生日も知った。洋平は三月六日。秀人は、十二月二十四日のクリスマス・イヴ。もちろん美咲も教えた。八月八日。
洋平と秀人は、美咲にとって、家族と呼べる人達になった。
血の繋がりなど、もちろんない。出会ってから、それほど時間も経っていない。それでも、長年同じ建物の中に住んで、血の繋がりまである父親よりも、はるかに強く濃い絆がある気がした。
父親なんかよりも、ずっと、自分のことを見てくれるから。
美咲には、もう、売春に対する執着はなくなっていた。洋平に出会う前は、毎週、売春をしなければ落ち着かなかったのに。誰かに関心を持たれ、求められ、見られないと、どうしようもなく不安になっていたのに。売春で得られるものの中毒になっていたのに。
それが今は、何の不安も感じない。毎日が満ち足りている。
それはきっと、この満足感が仮初めのものではないからだ。売春で得ていたものとは違う。後になっても、虚しくなんてならない。
自分はきっと、ここで、こうして、洋平や秀人と暮らしていくんだ。
鼻歌交じりに、自作のカレー粉を炒める。スパイスの香りが強くなった。心地いい匂い。
幸せな匂いに包まれて、毎日楽しく食卓を囲んで。そんな日々が、終わることなく続くんだ。
美咲は、疑うこともなくそう思っていた。この生活が始まってから二ヶ月ほどしか経っていないのに、こんな生活が、一生続くと思っていた。
――この幸せも、仮初めのものだと気付かずに。
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