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第三十一話 弟とは違う意味で、弟とは違う気持ちで、失いたくない
しおりを挟む秋田家一家殺害から、二週間が過ぎた。
八月も、もうすぐ終わりを迎える。
それでも気温はまだ高い。
照りつける太陽は車の中を熱し、冷房を点けなければ、暑さで体力が失われてゆく。
時刻は、午後二時。
夏場は、この時間帯が一番暑いらしい。秀人の家で読んだ本にそう書いてあったことを、洋平は思い出していた。エンジンをかけたままの車の中で。
秀人と決別したときに渡された車。
今では、洋平と美咲の住処となっている車。
助手席の背もたれを倒して、美咲は横になっていた。冷房が点いた車の中はそれほど暑くないのに、彼女は大量の汗をかいている。呼吸が荒い。少しだけ開かれた口から、細かく息が漏れている。苦しそうな吐息。
「美咲……」
彼女の名を呼んだが、洋平は、その後の言葉を続けられなかった。大丈夫か、なんて言えなかった。明らかに発熱している。どう見ても苦しそうだ。それでも、彼女は言うのだ。
「大丈夫だから。心配しないで」
頬を赤く染めた美咲は、洋平の考えなどお見通しのようだった。かすれた声を漏らしながら、洋平に優しく笑いかけてきた。洋平を心配させないように、無理矢理見せた笑顔。
秀人と決別してから、美咲は、常に、洋平の気持ちを最優先で考えてくれた。一週間前に、強制的に大学生の家に侵入したときもそうだった。
洋平は、美咲と出会うまで、一人暮らしの大学生の家に強制的に不法侵入していた。冬場はそうして寒さを凌ぎ、生活していた。家主の大学生を拘束し、その家に入り浸っていた。
もちろん、不必要に傷付けたりはしなかった。手足を拘束された大学生に対し、まるで介護のように食事やトイレの世話をした。
ほとんどのケースで、大学生は泣きじゃくった。彼等の精神状態が限界を迎えそうだと判断すると、洋平は拘束を解き、その家を出た。
けれど、洋平には、どうしても分からなかった。
どうして泣くのか。どうして、そんなに精神的に追い詰められるのか。
秀人と決別し、大学生の家に入り浸ったとき、洋平は、初めてその理由を知った。
夏場なのに大学生の家に侵入したのは、美咲が体調を崩したからだ。慣れない車上生活がストレスだったのだろう。彼女は発熱し、苦しそうにしていた。
洋平は迷わず、一人暮らしの学生の家を狙って侵入することを決めた。特殊警棒は暴力団に襲われた際になくしてしまったが、今の洋平には、秀人に教わった戦闘技術がある。
簡単に家主の学生を叩き伏せ、家に侵入できた。ウエストポーチに入れた銃を使う必要などなかった。
学生を拘束した後、すぐに美咲をベッドに寝かせた。
これまでと同じように、学生は泣いていた。侵入するために脅した以外、暴力など振るわなかったのに。ちゃんと食べ物も与えたし、トイレの世話もしたのに。
それでも、泣いていた。
常に泣いていた。
痛い思いをすることもない。飢えることもない。飢えを凌ぐために、腐った残飯を口にすることもない。拘束されているとはいえ、自分や弟が経験した地獄よりは、はるかに恵まれている。天国と言ってもいい。それなのに、どうして辛そうなのか。
今までは分からなかった、学生が泣いている理由。
洋平はそれを、初めて理解した。
洋平自身が、そうだったから。幸せな生活を失った。今まであったものをなくした。秀人との楽しい暮らしが、消え去った。
それは、最初から何もなかった悲しさとは違う。失う悲しさだ。奪われる悲しさだ。学生は、今まであった平穏な生活を唐突になくして、今までの平穏が嘘のように惨めで、泣いていたのだ。今までも、今回も。
大学生の気持ちを知ったとき、洋平の心に、言葉にできない気持ちが芽生えた。自分がひどく残酷な人間に思えた。もっとも嫌っている人間。もっとも軽蔑している人間。絶対に、こんなふうにはなりたくないと思う人間。
自分の実父のような人間。
耐えられなかった。弟を――自分が何よりも守りたかった弟を、殺した奴。そんな奴と同類だなんて。
少しだけ体調を戻した美咲は、すぐに洋平の気持ちを汲み取ってくれた。
「もう大丈夫だから。ここを出よう?」
明らかに、大丈夫なんかじゃなかった。それでも、美咲に甘えてしまった。
案の定、車上生活に戻ってすぐ、美咲は体調を崩した。
学生の家へ侵入できないなら、病院に連れて行こうかと思った。救急車を呼ぶことも考えた。
けれど、美咲が拒否した。
犯罪に関わっている自分達が病院に行ったら、警察に通報されるかも知れない。捕まるかも知れない。だから嫌だ。大丈夫だから。だから、病院はやめて。そう、拒んでいた。
ろくに治療もできない。こうして、ただ寝かせて、見ていることしかできない。
洋平は、美咲の額に触れてみた。
手の平に伝わってくる、美咲の熱。驚くほど熱かった。その熱さが、洋平の胸を締め付けた。悔しかった。何もできない自分が。美咲を守りたいのに、彼女に甘えてばかりの自分が。
秋田の家から逃げたときもそうだった。
あの時、美咲がいなければ、洋平はあの場から動けなかっただろう。何もできず、ただ、四人の死体と共に朽ち果てていただろう。
美咲が優しく抱き締めてくれたから。一緒に逃げようと言ってくれたから。私が側にいるからと、言ってくれたから。だから、動き出すことができた。
あの殺人現場は、地獄と言ってよかった。一面の赤い海。四人の死体。鉄くさい血臭。
こんなところに美咲をいさせちゃいけない。そう、強く思った。彼女に抱き締められながら。彼女の体温を感じながら。背中に回された彼女の腕に、甘えながら。
強く、強く思った。
その思いだけで、立ち上がることができた。膝を震わせながら。秀人に見捨てられた絶望を、感じながら。それでも、美咲のお陰で立ち上がれた。
そんな美咲が、今、苦しんでいる。
汗がにじむ、熱くなった美咲の額。その額に触れた手を、洋平は少しだけ動かした。優しく撫でる。愛おしむように。
美咲は相変わらず、優く微笑んでいる。
「撫でられるの、気持ちいいかも」
クスクスと、擦れた笑い声。
「洋平は優しいね」
優しくなんかない。悔しさに、洋平は唇を噛んだ。ただ俺は、何もできずにいるだけだ。美咲の優しさに甘えて。美咲を助けることもできずに、ただ茫然としているだけだ。
これも秀人の家の本に書いてあったことだが――医療技術が発達する以前は、ただの風邪で死ぬ人も多かったらしい。治療を受けられず、十分な栄養を取ることもできず、恵まれた環境で体を休めることもできずに。体力を失っていって、いずれ、自らの命を維持できなくなる。
このままだと、美咲も――そんな予感が、洋平の脳裏を突き抜けた。
美咲が、死ぬ。
洋平の体が震えた。どうしようもないほどの恐怖が、胸に突き刺さった。決して失いたくないものを、失ってしまう。それは、弟を失った時の気持ちと似ていた。
でも、あのときとは違う。
大切な人を失う恐怖に、変わりはない。でも、大切さが違う。優劣の違いじゃない。性質の違いだ。
どんなことをしても守りたい人。
どんなときでも一緒にいたい人。
美咲は、弟のような、自分が守らなければならない人じゃない。
弟とは、違う。
――こいつが死んだら、俺はきっと、生きていられない。
そう実感したとき、洋平の決意は固まった。
美咲の家には戻れない。秀人と決別した以上、いつ暴力団に狙われるか分からない。
だとすれば、やるべきことは一つだ。美咲を少しでも休ませるために、また、どこかの家に強制的に入り浸る。
どれほど重い罪悪感に苦しむことになっても、美咲を失いたくない。たとえ誰かを傷つけても、美咲を失いたくない。
とはいえ、侵入する家は選びたい。できるだけ美咲の気が休まるように、家主は拘束したくない。彼女に気を使わせたくない。
そうすると、体力のある若い男の家は除外される。小柄で、力の弱い老人がいい。できれば女性。それならば、拘束しなくても大丈夫だろう。
だが、小柄な老女を見つけたとして。その人が一人暮らしだと、どうやって判断すればいい?
時間をかけて観察すれば、狙った老女が一人暮らしかを判断することは、それほど難しくない。けれど、そんな時間などない。苦しそうな美咲に、もう少し我慢して、などとは言えない。言いたくない。
こんな状態の美咲に「大丈夫」などと言わせたくない。
洋平は、秀人の家で勉強をしていた目的を思い出した。
『とにかく、普段から頭を使って。状況によってはハッタリで活路を開けることもあるから、頭の回転力は重要なんだ。そのための一般教養だよ』
そうだ。頭を使え。秀人の言葉を記憶の中から呼び起こし、洋平は考えた。
推測するんだ。頭を使って、考えろ。一人暮らしの老女には、どんな特徴がある?
一人暮らしだから、当然、買い物には自分ひとりで行くだろう。狙うのは、買い物帰りで一人で歩いている老女だ。
老女が家族と同居していれば、重い物を購入するときは、家族が買い出しに行くだろう。一人暮らしであれば、体力に見合わない量の買い物をすることがあるはずだ。大量の食材であったり、今は夏だから、大きなペットボトルのミネラルウォーターなどだ。
歳を取っているということは、それだけ、家計に気を遣う必要がある。仕事を退職し、年金や蓄えで生活しているだろうから。そのため、安売りなどを行う大型スーパーで買い物をするだろう。大量に買い物をするなら、なおさら。
つまり、狙うべきは、大型スーパーからの買い物帰りで、体力に見合わない重そうな買い物をした、小柄な老女。
洋平はハンドルを握った。走り出す前に、横目で美咲を見た。
苦しそうに息を荒くしている、美咲。
「すぐに休ませてやるから」
洋平の手は汗ばんでいた。これは、暑さのせいで出た汗じゃない。
「だから安心してくれ、美咲」
どんなことがあっても、俺が助けるから。
自分の決意は口にせず、洋平はアクセルを踏んだ。
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