罪と罰の天秤

一布

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第三章 罪の重さを計るものは

第十七話 愛と罰

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 六月四日。

 咲花が高野を連れ去る、三日前。

 道警本部。

 定時で仕事を終えた咲花は、十六階のエレベーター付近でスマートフォンを操作していた。何かを調べているわけではない。誰かにメッセージを送っているわけでもない。ただの暇潰し。適当にニュースを表示し、適当に中身を見ていた。

 仕事を終えた刑事部の面々が、咲花の前を通り過ぎ、エレベーターに乗り込んでゆく。エレベーターの矢印のボタンを押す際に、咲花の方をちらりと見る者もいた。

 他人の目などどうでもよかった。暇を持て余しながら、ひたすら時間を潰していた。

 そのまま、二時間ほど経過しただろうか。時刻は、午後八時半を経過した。

「咲花?」

 エレベーターのところまで来た男に、名前を呼ばれた。

 咲花を下の名前で呼ぶのは、刑事部では二人だけだ。一人は、隊長である藤山。もう一人は――

「お疲れ」

 気安い口調で言い、咲花はスマートフォンをポケットにしまった。待ち人が来た。川井亮哉。咲花の、元婚約者。

「今終わったのか?」
「ううん」

 咲花は首を横に振った。

「ちょっと頼みがあってね。亮哉を待ってた」

 婚約を破棄してから、咲花は、川井に対して敬語で話していた。少なくとも、職場では。呼び方も、「亮哉」ではなく「川井さん」だった。

 でも今は、敬語も苗字呼びもしなかった。昔のように――婚約当時のように、声をかけた。

 川井は、咲花の接し方に驚いているようだった。捜査一課の刑事らしく、目付きが少し鋭くなった。

「何かあったのか、咲花」

 咲花の態度に川井が疑問を持つのは、当たり前と言えた。彼がどんなに復縁を望んでも、咲花は拒否し続けた。冷たく素っ気ない態度をとり続けた。たまにセックスをすることはあるが、体だけの関係だった。

 体だけだと、咲花は伝えていた。

 幸せを放棄するための嘘。地獄の中で命を失った姉を差し置いて、幸せになんてなれない。幸せになんてなりたくない。だから嘘をついた。

 愛しているからこそ、一緒にいられなかった。

 でも……。

 咲花は川井に微笑みかけた。昔のように。幸せだったあの頃のように。

「ありがとうね、亮哉」
「……?」
「磯部と南が殺された事件で、私、疑われてたんでしょ? でも、亮哉は私を信じてくれたんでしょ?」
「当たり前だろ」

 ごめんね。咲花は声に出さず、川井に詫びた。磯部も南も、私が殺したの。そして、最後の一人も殺すの。もう、計画も立てている。日時も決めている。

 咲花の胸が、罪悪感で満ちた。川井の信用を裏切っている。愛している人を、裏切っている。

 罪悪感で満たされながらも、川井と一緒にいたかった。

 これで最後だから。たぶん、もう二度と会えないから。

「ねえ、亮哉。これから少し、付き合ってくれない?」

 咲花は、エレベーターの矢印のボタンを押した。

「どこに?」
「ホテル」

 咲花の態度に、川井は疑いと戸惑いを抱いている。彼が口にしなくても、咲花には分かる。

 川井は以前、咲花のことをずっと見ていたと言った。咲花の表情や仕草の変化に、気付けるくらいに。

 咲花も同じだった。川井を、ずっと見ていた。別れた後も、ずっと見ていた。所属している課が違うから、顔を合せることは滅多にないけれど。

 たまに、彼の姿を見かけるだけで。彼の横顔を見られるだけで。彼の使っている香水の匂いがして、今ここを通ったのだと感じられるだけで。それだけで、嬉しかった。

 それくらい、愛している。

「……どうしたんだ、咲花」

 川井の戸惑いは、さらに強くなっているようだ。無理もない。

「特に意味はないよ。ただ、信じてくれたのが嬉しかっただけ」

 咲花は嘘をついた。嬉しかったのではない。申し訳ないのだ。

「嬉しくて、だから、亮哉と寝たくなったの」
「……それは、俺とやり直したいってことか?」
「……」

 少しだけ、咲花は言葉に詰まった。愛している。だからやり直したい。それが正直な気持ち。

 姉への罪悪感がある。自分だけ幸せになんてなれない。だからやり直したくない。それも正直な気持ち。

 咲花は首を横に振った。

「ごめんね。やり直すことはできない」

 咲花が想定している未来は、二通り。高野を殺して、自首して、殺処分されるか。高野を殺して、秀人との約束を守って、この国を敵に回すか。

 川井との未来はない。

「やり直すことはできないけど、亮哉とは寝たいの」

 秀人はすでに、複数の国のマフィアと繋がっているという。政府高官や要人が、マフィアと繋がっている国々。確実な勝算があるなら、他国を侵略したい国々。

 この国の状況を悪化させ、疲弊させ、他国を侵略したい国々に情報を回す。時期が来たら、それらの国に侵略させる。それが秀人の計画。

 秀人の仲間になるうえで、咲花は、ひとつだけ彼と約束した。川井や彼の家族は殺さないで、と。この国が戦火に包まれるなら、平和に暮らせる国に逃がして、と。

 川井には死んでほしくない。彼には、自分以外の人と幸せになってほしい。

 エレベーターが十六階に着いた。扉が開いた。

 咲花は、エレベーターに入った。川井も咲花に続いた。

 二人きりの個室。一階に降りてゆく個室。

「私と寝たくない? やり直せないのに寝るのは、もう嫌?」
「……今からでいいのか?」

 咲花は頷いた。

 一階に着いて、道警本部を出て。駐車場まで歩いて、川井の車に乗って。

 川井は、市街地にあるラブホテルまで車を走らせた。恋人同士だったとき、たまに行っていたホテル。たまにホテルに行くことで、気分を高揚させていた。大きな風呂に二人で入って、戯れていた。

 ホテルに入った。休憩時間は三時間。部屋を選ぶ。部屋まで足を運ぶ。

 部屋に入ってすぐに、咲花は、川井の首に腕を回した。彼を引き寄せ、背伸びをしてキスをした。

 川井と過ごせる、最後の時間。最後の三時間。

 時間が惜しい。でも、長く一緒にはいられない。三日後の準備がある。あまり長くいると、未練が残る。だから、時間を無駄にしたくない。

 できるだけ川井に触れていたい。できるだけ川井に触れられたい。できるだけ交わっていたい。

 触れ合った唇から、吐息が漏れ出す。舌が絡み合う。

 ベッドに倒れ込んで、服を脱がし合った。裸になって、肌と肌で触れ合った。川井の感触が伝わってくる。大好きな感触。

「ね、亮哉」

 唇が触れ合う距離で、川井に伝えた。

「私ね、最近、生理痛がひどくて。だから、薬、飲んでるの」

 避妊具はいらない、という意思表示。

 生理痛も薬も、嘘である。どんなに性的欲求が溜まっても、川井は、適当な女と避妊具なしで寝るような男ではない。咲花も、川井以外とは寝ていない。

 それなら、避妊具なんて必要ないと思った。少しでも、昔の幸せを思い出したかった。

 今だけ。今だけだから。これが最後だから。

 川井と婚約していた頃、幸せな未来を思い描いていた。共働きで、時間が不規則な仕事だから、一緒にいられる時間は長くない。その分だけ、共に過ごせる時間を大切にしたかった。休日が重なったら、一日中一緒にいよう。どこかに出掛けてもいい。家でゴロゴロしていてもいい。ひたすらセックスしていてもいい。互いにとって、幸せに満ちた時間を過ごせるのであれば。

 もちろん、子供ができたときのことも考えていた。婚約してから、避妊もしていなかった。いつか、父親と母親になるのだと思っていた。できれば、子供は二人以上ほしいと考えていた。さらにできれば、姉と妹。仲のいい姉妹になってほしい。妹に、姉が幸せになる姿を見せたい。姉に、妹の幸せを祝福してほしい。

 決して叶うことのない、あの頃の願い。

 それならせめて、今だけは。

 川井も咲花も、触れ合い方が少し乱暴になった。乱暴だけど、痛くはない。触れ合う肌。伝わる体温。快楽と愛情が混在する、独特の感覚。心拍数の上昇が、振動となって伝わってくる。ドクン、ドクン、ドクン……。

 川井の唇が、咲花の首筋に触れた。

 川井の首筋に、咲花は軽く歯を立てた。

 避妊具をつけずに、川井は、咲花の中に入ってきた。彼とひとつになった。触れ合う温もりが、溶け合う温もりになった。互いが、互いに溶け込んでゆくようだった。

 咲花には、未来が見えている。自分の未来。自分の終わり。自分の人生を捨てた。

 今この瞬間の幸せは、ただの冥土の土産。

 姉の、人生最後の一ヶ月。何度も何度も、犯人達に犯されていた。妊娠もしていた。屈辱だっただろう。惨めだっただろう。辛かっただろう。悲しかっただろう。苦しかっただろう。

 咲花が川井としているのは、姉を苦しめた行為と同じもの。

 まったく同じ行為なのに、どうしてこんなにも幸せなのか。相手が違うだけで、こんなにも心持ちが変わる行為。抱く感情が違うと、こんなにも満たされる行為。

 触れ合う体が、汗ばんでいる。これは、川井の汗だろうか。それとも、自分の汗だろうか。あるいは、互いの汗が混ざったのだろうか。ベタつくのに、不快感はない。ヌルリとした感触が、さらに体を火照らせる。

 気持ちが高揚して、キスを求めた。激しく動きながら、それでも足りずに激しいキスをした。

 好きな人と触れ合って、繋がって、通じ合っているような気持ちになれた。

 ……でも、通じ合っている気になっているだけ。

 体が繋がっただけで、心までは繋がれない。

 隠し事は、隠したまま。
 秘密は、秘密のまま。

 自分の気持ちを口にすることもなく、ただ、互いに貪って。

 息遣いが荒くなって。

 幸せな快楽は、終わりを告げた。

 時間ギリギリまで愛し合い、シャワーも浴びずにホテルを出た。

 愛し合ったけど、咲花は「好き」とも「愛してる」とも口にしなかった。言ってしまいそうになるたびに、キスをした。川井の肌に歯を立てた。そうやって、自分の口を塞いだ。

 ホテルから出た後、川井が車で送ってくれた。

 車の中で、咲花は寝たフリをした。
 目を閉じて、ほんの少し前の出来事を反芻した。
 目を閉じて、これからのことを考えた。
 最後の幸せと最後の復讐を、同時進行で思い浮かべた。

「咲花」

 川井に呼ばれて、咲花は目を開けた。自宅アパートの前に着いていた。

 咲花はシートベルトを外し、運転席の川井を見つめた。

 愛してる。自分の唇が、本音を漏らしそうになる。キュッと、唇を強く締めた。

「今日はありがとう、亮哉」

 礼を伝えてドアを開け、車を降りた。

「咲花」

 ドアを閉める前に、呼び止められた。

「今すぐとは言わないから。だけど、少しずつでいいから、やり直せないか?」
「……」

 泣きそうになって、咲花は無理に微笑んだ。

「さよなら」

 伝えて、優しくドアを閉めた。車に背を向けて、アパートに向って歩いた。

 背を向けているから、川井の顔は見えない。川井からも、咲花の顔は見えない。

 咲花の頬に、一筋の涙が流れた。堪えていた涙。

 ドアの前に着いて、鍵を差し込む。鍵を持つ手が震えていた。

「亮哉――」

 手を回して、カチャリと鍵を開けた。

 川井に対する気持ちを、消えそうな声で吐き出した。
 
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