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第四章 この冷たく残酷な世界でも
第六話 お母さんに似てほしい
しおりを挟む「秀人、写真撮って」
唐突に、華が言ってきた。
十月。気温が下がってきて、秋の空気を感じる季節。その昼間。
華は、妊娠五ヶ月目に突入していた。
冷蔵庫を覗いていた秀人は、華の言葉に首を傾げた。今日の昼食のメニューを考えていたところだった。
自宅のリビング。
華はソファーに座って、タブレットで動画を観ていた。音声が聞こえる。どうやら、秀人が勧めた動画を観ていたようだ。母と子を題材にした動画。
たぶん、動画に影響されたのだろう。華に勧めた動画は、秀人も一通り目を通している。その中に、妊娠中から記念写真を撮るものがあった。親は、子供が産まれてから親になるのではなく、子供を宿したときから親になる――という内容の動画。
秀人の顔に、自然に笑みがこぼれた。パタンと冷蔵庫を閉めた。テーブルに置いていたスマートフォンを手に取る。華のところに足を運ぶ。
「いいよ。じゃあ、撮ろうか」
「うん」
華はタブレットをソファーに置いた。ゆったりとしたマタニティーウェアを着ている。お腹が大きくなったので、普通の部屋着がきつくなってきたのだ。
「でも秀人、ちょっと待ってて」
「ん?」
華は早足で洗面所に行くと、ヘアブラシで髪の毛を整え始めた。写真を撮るので、少しでも身なりを整えたかったようだ。女の子だなぁ、と微笑ましくなった。
髪の毛を整えると、華が戻ってきた。部屋着をめくって、お腹を出す。お腹が、ポッコリとしていた。大きくなったお腹を、少し撫でる。愛おしむように、華の表情が緩んだ。普段は幼い彼女が、今では、ときどきこんな顔になる。我が子を愛する母親の顔。
妊娠五ヶ月。体調がいい日ばかりではないだろう。むしろ、辛い日の方が多いはずだ。それなのに華は、泣き言一つ言わない。
『華、この子のお母さんだもん』
華は最近、よくそう口にする。つわりで苦しいときも、身動きが取りにくくて大変なときも。
女性は、妊娠したら母性が目覚める。そう勘違いしている男は、意外なほど多い。苦しくても辛くても、母親なんだから耐えられるだろう、と。
そんなはずがない。たとえお腹の子を大切にする気持ちがあっても、辛いときは泣きたくなるし、苦しいときは不機嫌にもなる。
けれど華は、そんな様子など一切見せない。以前、秀人に注意されたから、決して無理はしない。ただ、感謝の気持ちを表すことも忘れなかった。秀人が何かをするたびに、いつも「ありがとう」と言ってくれた。口先だけではない、心からの気持ちだと感じた。
確かに華は知能が低い。知能の低さゆえに、幼さもある。でも、強い子だ。強くて優しい子だ。だからこそ秀人は、華を守りたかった。たとえ彼女が、この国の人間であっても。
秀人はスマートフォンを操作し、カメラアプリを起動させた。
「じゃあ、華。撮るよ」
スマートフォンのカメラを、華に向ける。
途端に、華が少し大きな声を出した。
「駄目!」
「……はい?」
「秀人も一緒に入って!」
華は秀人の部屋着を掴み、グイッと引っ張った。
「秀人はお父さんなんだから! 赤ちゃんと、秀人と、華の、三人で撮るの!」
「……」
華の言葉に、押し黙ってしまった。秀人は、自分の立場を自覚している。
犯罪者。
秀人にとって、自分の行為は復讐だ。正義だと語るつもりはないが、この国の人間に批難される覚えもない。しかし、法律という観点から見ると、犯罪者であることは間違いない。ただの犯罪者ではなく、死刑になることが確実な重罪人。
重罪人だから、当然、自分の痕跡は残したくない。外では偽名を名乗っているし、必要に応じて女装もする。この家の名義も、秀人ではない。
写真などという明確な痕跡を残すことは、秀人にとって、愚行以外の何ものでもない。
写真を撮ったら、華はその写真を欲しがるだろう。では、華以外の誰かに写真を見られたら? 華がSNSの使い方を覚えて、その写真をアップロードしたら?
たとえ誰かに狙われても、返り討ちにするのは容易い。秀人が、自分の身だけを守ればいいのであれば。
でも今は、自分以外にも守るべきものがある。
秀人の部屋着を掴む華。彼女は、少し頬を膨らませていた。家族を失ってから初めて得た、絶対に守りたい子。猫以外の、家族と呼べる人。
家族だから守りたい。家族だから危険な目に遭わせたくない。でも、家族だから、可能な限り望みを叶えたい。
二、三秒の沈黙の後、秀人は小さく溜め息をついた。
「わかったよ。じゃあ、一緒に撮ろうか」
華の望みを断れるはずがない。
――華は、俺の子を産んでくれるんだから。
秀人の返答を聞いた途端に、華は笑顔になった。この笑顔に、秀人はとことん弱い。
二人で写真を撮るなら、スマートフォンをどこかに立て掛けないといけない。撮影用の三脚など、もちろんこの家にはない。近々、華の体調がいいときに、一緒に買いに行こう。
秀人は食器棚まで足を運び、茶碗を一つ取り出した。テーブルの上に置く。茶碗にスマートフォンを寄り掛からせ、立たせる。カメラアプリを操作した。タイマー式のシャッターをセットする。シャッターが起動するまでの時間は、十秒。
「華、用意はいい? タイマー、セットするよ」
「うん、大丈夫」
シャッターアイコンをタップする。ピッ、ピッという音を立ててタイマーが起動した。
秀人は華の隣りに並び、彼女の腰を抱いた。
華が、秀人の肩に頭を寄せた。大きくなったお腹に触れながら。
タイマーが終わり、カシャッ、と音が鳴った。
スマートフォンを手に取り、秀人は、撮った写真を表示した。ちゃんと二人とも写っている。秀人の肩に頭を乗せた華は、満ち足りた優しい笑顔を見せていた。
「ほら、華。ちゃんと撮れてるよ」
華が、秀人のスマートフォンを覗き見た。嬉しそうに目を細めて、秀人の腕に自分の腕を絡めてきた。そのまま、秀人の顔を見上げてくる。
「ありがとう、秀人」
少し頬が赤いのは、熱があるからというわけではないだろう。
「また、一緒に写真、撮ってくれる?」
「ああ。じゃあ、一ヶ月ごとくらいに撮ろうか」
「うん」
秀人の腕に絡められた、華の両腕。彼女は少しだけ、腕に力を込めた。
「ね、秀人」
少しだけ熱っぽい、華の瞳。
「ちゅーして?」
「……うん」
華の唇に、秀人は自分の唇を重ねた。触れるだけの、優しいキス。
華の瞳に宿る熱が、少しだけ温度を上げた。
「ねえ、秀人」
「ん?」
「エッチは……やっぱり、駄目かなぁ?」
「それは駄目」
秀人は苦笑した。
「赤ちゃんがびっくりするからね。だから、産まれるまでは我慢しよう」
「……わかった」
華は、秀人の肩に額を乗せた。
「あのね、秀人」
「ん?」
「華ね、赤ちゃんには、秀人みたいになってほしいの。男の子だったら、すっごくすっごく格好よくて。女の子だったら、すっごくすっごく可愛いの。だから、秀人に似てくれたらいいなぁ」
華の腕に絡まれている、秀人の右腕。左手で、秀人は華の頭を撫でた。
「華に似ても可愛いと思うよ」
「ほんと?」
「うん。華、可愛いから」
秀人の肩から額を離し、華は、笑顔を見せてきた。照れ臭そうな、でも嬉しそうな笑顔だった。
華の幸せそうな顔を見ながら。
秀人は胸中で、彼女の言葉を反芻した。
――俺みたいに、か。俺に似てくれたら、か。
華に見られているから、険しい顔はできない。けれど、秀人の心の中は、棘だらけになっていた。拒絶を示す棘。華の言葉を否定している。
『秀人みたいになってほしい』
『秀人に似てくれたらいいなぁ』
――馬鹿だな。
心に浮かぶ、嘲りの気持ち。でもそれは、華に向けたものではない。
俺に似たら、復讐に囚われた悪魔になるよ。
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