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第四章 この冷たく残酷な世界でも
第七話② 死ぬまで一緒にいたかった。死ぬまで一緒にいたい(後編)
しおりを挟む麻衣の家の近くまで来た。
川井は大きく息をつくと、疲れた笑顔で「ナビしてくれないか?」と亜紀斗に言ってきた。
細かい道を案内して、麻衣の家から十数メートルの位置で車を停めてもらった。
「悪かったね、佐川君。変な話に付き合わせて」
感情が乱れ、最後に咲花と会ったことすら口にしてしまった川井。少し冷静になったのか、彼は、どこか気恥ずかしそうだった。
「いえ」
首を横に振ると、亜紀斗は車のドアを開け、降りた。ドアを閉める前に、川井に頭を下げる。
「すみません、力になれなくて。それと、送ってもらってありがとうございます」
頭を下げた亜紀斗を見て、川井は目を伏せた。口元は、少しだけ笑みの形をしていた。
「なあ、佐川君。こんなこと、俺が言えた義理じゃないけど。俺なんかが言えることじゃないかも知れないけど」
川井の笑みは、明らかな自虐の表われだった。
「彼女のこと、大切にな」
後悔の念が込もっている、川井の声。
亜紀斗は頷く以外、何もできなかった。車のドアを閉めて、再度頭を下げた。
川井が車を走らせた。ナンバープレートが遠ざかってゆく。
川井の車を見送ると、亜紀斗は走り出した。麻衣のマンションに着き、オートロックを解錠し、三階まで駆け昇った。ドアの鍵を開けて、玄関に入った。
「麻衣ちゃん! ただいま!」
声を掛けながら、靴を脱いで家の中に入った。
キッチンで、麻衣が夕食を作っていた。右手に包丁。まな板にキャベツ。
「おかえり、亜紀斗君」
優しく迎えてくれる、麻衣の姿。大好きな人の姿。
川井の言葉が、亜紀斗の耳の奥で蘇った。
『彼女のこと、大切にな』
亜紀斗は麻衣に近付き、彼女を後ろから抱き締めた。
「ちょっ、亜紀斗君?」
驚きと困惑が混じった、麻衣の声。
「私、今、包丁持ってるんだよ?」
「うん。ごめん」
謝りながらも、亜紀斗は麻衣を離さなかった。離したくなかった。
川井の話を聞いて。咲花と離れたくなかった彼の気持ちが、苦しいほど伝わってきて。
亜紀斗は麻衣が好きだ。結婚の話も進んでいる。時間をみつけて、一緒に暮らす家も探している。一生一緒にいたい。決して離れたくない。でも、彼女より先に死にたくない。大切な人を失う辛さを、彼女に味合わせたくない。
秀人を捕えることができれば、咲花は無罪放免となる。もとの生活に戻れる。姉の仇が全員死んだことで、彼女の心情にも変化が訪れるかも知れない。もしかしたら、川井と復縁できるかも知れない。咲花も川井も、幸せになれるかも知れない。
けれど、秀人を捕えるのは、不可能と言っていいレベルで困難だ。現在、公安が彼の調査を行っている。居場所を掴めたら、再び彼と戦わなければならない。
生存率が極端に低い戦い。あらゆる意味で秀人を危険視しているが故に、国は、彼の捕縛や殺害に人員を割かない。金井秀人という存在自体を、隠蔽するために。
あの怪物を相手に、たった三人で戦わなければならない。たった三人で戦って、生き残らなければならない。生き残らなければ、咲花を助けられない。
咲花には幸せになってほしかった。まだ互いに想い合っているなら、川井と復縁してほしかった。失った時間は戻らなくても、これから幸せを積み上げることはできる。
もちろん、亜紀斗自身も幸せになりたい。かつてのような死者に囚われる気持ちなど、今はもうない。何より、好きな人の幸せな姿を見ていたい。
再び、川井との会話を思い出した。咲花が最後に、彼のもとに行ったこと。冥土の土産のように、彼の感触を体に刻んだ。
秀人と対峙することは、ほとんど死に等しい。もし咲花と同じ思考をするなら、秀人と対峙する前に、麻衣を激しく求めることになるだろう。好きな人の感触を体に刻んで、この世を去るために。
麻衣を抱き締める腕に、亜紀斗は少しだけ力を込めた。
――冗談じゃない!
咲花の気持ちは理解できる。理解できるが、共感はできない。
好きな人との思い出があるから、心置きなく死ねる? そんなはずがない。今死んだら、心残りしかない。
「麻衣ちゃん、ごめん。しばらく、こうさせてて」
「……」
何かを察したのか、麻衣は、まな板の上に包丁を置いた。亜紀斗の手に、そっと触れてくる。料理をしていたせいか、彼女の手は少し冷たかった。
「なあ、麻衣ちゃん」
「何?」
「結婚したらさ、どんな家庭にしたい?」
「うん。そうだなぁ……」
抱き締めた麻衣の横顔が見える。彼女は目を閉じていた。未来を想像しているのだろうか。
「新婚のときはね、できるだけ二人の時間をつくりたいかな。一緒に出掛けてもいいし、家でのんびりしてもいいし」
「うん」
「でもね、たぶん、すぐに二人だけじゃなくなると思う。以前も言ったと思うけど、亜紀斗君と結婚したら、私達、凄く子だくさんになりそうだから」
「そうだな」
「子供ができたらね、亜紀斗君は、少し寂しい思いをするんじゃないかな。私のおっぱいが赤ちゃんに取られた、って」
クスクスと、麻衣が笑った。
否定できず、亜紀斗は苦笑した。
「でもね。それでも、亜紀斗君は、赤ちゃんを大切にしてくれると思う。もちろん、私のことも。それどころか、私が子育てで疲れないように、無理しちゃうかも。亜紀斗君は誠実だから」
「そうか?」
麻衣はよく、亜紀斗のことを誠実だと言う。けれど、亜紀斗自身は、未だにそれを実感できない。
「赤ちゃんの夜泣きで眠れない私を気遣って、寝かしつけを引き受けて、自分が寝不足になっちゃうの。それでね、私が、亜紀斗君を叱るの。『気遣ってくれるのは嬉しいけど、それで亜紀斗君が倒れたら意味ないでしょ?』って」
またも、亜紀斗は苦笑してしまった。怒るのではなく優しく諭す麻衣の姿が、容易に想像できる。麻衣の前で小さくなりながら、反省する自分の姿も。
「初めての子育てが少し落ち着いたら、私がまた妊娠しちゃって。お腹が大きくなってる私の横で、亜紀斗君は、歩き始めた赤ちゃんの面倒を、一生懸命見てるの」
麻衣が語る、二人の未来。ただの想像なのに、手の届く現実のように思える。まるで、本当にそんな生活が待っているような。
「でもね、亜紀斗君は、子育ての間でもムラムラしてくることがあって。でも、私は妊娠してるから、できなくて。それで、亜紀斗君が、私に言うの。『麻衣ちゃん、少しだけ時間ちょうだい』って」
「それで、麻衣ちゃんは何て返すんだ?」
「『お風呂場ではやめてね。詰まるから』って」
麻衣は閉じた目を開け、亜紀斗の方を見た。近過ぎて、互いの顔の全体像が見えない。でも、麻衣が微笑んでいることは分かる。
「子供がいっぱいできて、毎日てんてこ舞いで、忙しくて、大変で。そのうえ、亜紀斗君はしょっちゅうムラムラして。私は、亜紀斗君に『この子達が寝てからね』なんて言って」
「なんか、すげー想像できる」
「幸せそうだよね?」
「ああ。幸せそうだ」
麻衣の首筋に、亜紀斗は軽く口付けた。
「そんな家庭、つくろうな」
「うん」
絶対に死なない。絶対に生きて帰る。
「俺、麻衣ちゃんが亡くなるまで、ずっと側にいるから」
言うと、麻衣が、コツンと頭をぶつけてきた。
「それは駄目。私が、亜紀斗君を見取るの」
麻衣の目線が、少しだけ強くなった。とはいえ、決して咎めるような目ではない。
「亜紀斗君は、もう、散々辛い思いしたでしょ? だから、私が亜紀斗君を見取る。絶対に、亜紀斗君を置き去りにしないから」
死ぬまで側にいる。大切な人を亡くす辛さを、もう二度と味合わせない。
麻衣の言葉の行間を理解できて。
理解できても、それに反論するように。
彼女の耳元で、亜紀斗は囁いた。
「死ぬまで守るから。麻衣ちゃんが亡くなるまで、俺が側にいて、ずっと守るから」
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