罪と罰の天秤

一布

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第四章 この冷たく残酷な世界でも

第八話② 今が凄く幸せ(後編)

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 二人でリビングに戻った。風呂で少し汗をかいたので、華に水を飲ませた。三脚を用意し、スマートフォンを立てる。いつもは二人で撮るから、インカメラを使っていた。

 今回はアウトカメラを使おう。インカメラよりも解像度が高く、綺麗な動画が撮れる。今日は秀人が撮影に回るため、インカメラを使う必要はない。

 華をソファーに座らせて、秀人はカメラを調節した。華が丁度いい大きさに映るように、セットする。

「華、準備はいい?」

 聞くと、華は、胸に手を当てて深呼吸をした。少し緊張しているようだ。

「緊張しなくても大丈夫だよ。失敗したら、何回でも撮り直すから」
「うん」
「言いたいことは決まってる?」
「うん。いっぱい言いたいことあって、何から言っていいか分かんないけど」
「じゃあ、まず、どの順番で言うか決めておこうか」
「わかった」

 胸に手を当てたまま、華は目を閉じた。考えを巡らせているのだろう。まず、これを言おう。次に、あれを言おう。最後に、あの話をするんだ。

 当然だが、秀人に比べると、華は頭の回転が遅い。目を閉じたまま、しばらく考え込んでいた。四、五分くらいか。

 華が薄らと目を開けたところで、秀人は、再度伝えた。

「言いたいことの順番が決まったら、動画を撮る前に、心の中で言ってみようか。そうしたら、本番で話しやすくなるよ」

 なるほどというように、華は目をパッチリと開けた。再度目を閉じる。唇が、かすかに動いていた。声に出さずに、言いたいことを言葉にしているのだろう。

 華の唇が動き始めてから、五分ほど経っただろうか。動いていた唇を閉じると、華は目を開けた。

「もう大丈夫だよ、秀人」
「わかった。じゃあ、録画が始まったら手を上げるから、話し始めて」
「うん」

 秀人は、カメラアプリの録画アイコンをタップした。ピッと音が鳴って、録画時間がスタートする。手を上げて、華に合図をした。

 華は大きく息を吸い込むと、未来の息子に向かって語り始めた。

「こんにちは。ママです。ママのお腹には、今、あなたがいます。今、妊娠六ヶ月です。あと四ヶ月くらいで、あなたが産まれます」

 お腹に触れ、優しく撫でる。華の表情は、優しかった。緊張しているとは思えない。

 秀人は、以前、華の得意分野を探っていたことがあった。彼女をテンマから引き離して、この家で一緒に暮らし始めた頃だ。

 華は、理論を司る左脳に比べ、想像を司る右脳の方が発達している。きっと、今の華のイメージでは、大きくなった息子が目の前にいるのだろう。

 華が描く未来図の中で、息子は、どんな姿をしているのだろうか。どんな大人になっているのだろうか。

「いっぱい伝えたいことがあるけど、やっぱりまず、お礼を言いたいです。ママのお腹に来てくれて、ありがとう。ママは、あなたのパパが大好きです。大好きなパパの子としてママのお腹に来てくれたことが、凄く凄く嬉しいです」

 以前、華が言っていた。

『華ね、赤ちゃんには、秀人みたいになってほしいの。男の子だったら、すっごくすっごく格好よくて。女の子だったら、すっごくすっごく可愛いの。だから、秀人に似てくれたらいいなぁ』

 数秒前の疑問の答えが、簡単に分かった。今、華の目の前には、秀人にそっくりな息子がいるのだ。彼女のイメージの中で、息子は、秀人と瓜二つに違いない。

「この動画は、あなたが大きくなって、好きな女の子ができて、好きな女の子との間に赤ちゃんができて、あなたがパパになるときに観てもらおうと思っています。だから、この動画を観てるってことは、あなたはもうすぐパパになるんですね」

 華の目の前で、息子は、どんな表情をしているのだろうか。自分が父親になることについて、どう思っているのだろうか。華に対して――母親に対して、何か言っているのだろうか。

「ママは、あなたがお腹に来てくれて、凄く嬉しかった。だから、できるだけのことをしたいと思ってます。でも、ママは馬鹿だから、あんまりいいママにはなれなかったかも知れません。たぶん、あなたを育てるときも、パパにいっぱい助けてもらってると思います。ただ、それでもママは、いっぱいあなたを愛したいし、愛してるし、愛し続けたいです」

 馬鹿。昔は、華を傷付け続けた言葉。今は、彼女が彼女自身を受け入れる言葉。

「あなたは、自分がパパになるって分かって、どんな気持ちになりましたか? ビックリしましたか? 不安になりましたか? 嬉しかったですか?」

 自分が聞かれているような気分になって、秀人は思い起こした。華が妊娠を告げてきたとき、どんな気分になったか。

 上手く言語化できない気分になった。胸が詰まって泣きそうなのに、大声で笑い出したくもあった。まだ膨らんでいなかった華のお腹を撫でて、たまらなく心地好くなった。

「あなたのパパは、華の――ママのお腹を、優しく撫でてくれました。あなたを、優しく撫でてくれました。喜んでくれました。愛してる、って言ってくれました」

 感情が昂ぶってきたのか、華は、息子に語るときの一人称を間違えた。すぐに言い直したが。

「ママは、あなたに、パパみたいなパパになってほしいです。相手の女の子に愛されて、相手の女の子を愛して、産まれてくる子を愛して。そんなパパになってほしいです。パパみたいなパパになってください」

 言って、華は少しだけ笑った。

「でも、あなたのパパみたいになるのは、ちょっと難しいかも知れないです。あなたのパパは、凄い人なんです。パパみたいに凄い人なんて、きっと、世界中のどこにもいないです。世界一強くて、世界一頭が良くて、世界一格好いい人。ママは馬鹿なママだけど、パパは、あなたにとって、世界一のパパだったと思います」
「……」

 このビデオレターは、華から息子へのメッセージだ。父親になる息子へのメッセージ。それなのに秀人は、息子へのメッセージであると同時に、自分へのラブレターのように感じた。

 華はいつも、秀人に「大好き」と言ってくる。言葉と体の両方を使って、愛情表現をしてくる。

 今の華の言葉は、いつも以上に、秀人の胸に深く突き刺さった。知能の低い華が、撮影前に一生懸命考えた言葉。決して、文学的な美しさはない。知的な言い回しもない。短い言葉で多くの意味を込めるワードセンスもない。ただ素直で、愚直で、正直な気持ち。

「どうか、パパみたいに、相手の女の子と子供を守れるパパになってください。華は、あなたに、そんなパパになってほしいです。パパみたいにとまではいかなくても、好きな人と子供を守ろうとする気持ちは、パパみたいになってほしいです」

 華は笑顔だ。笑顔で、未来の息子に語りかけている。けれど、その頬に、一筋の涙が流れた。笑顔のままで、しゃくりあげていた。

「華は――ママは、パパに出会って、一緒に暮らし始めて、毎日……」

 華は一旦、言葉を止めた。小さく「あ」と声を漏らした。

 華が心配になって、秀人は彼女に近付こうとした。

 華は「大丈夫」と言って秀人に笑顔を向けた。涙を流したままで。

 涙でクシャクシャの笑顔で、華は、何かに納得したように「そっか」と繰り返した。再びカメラに顔を向けて、未来の息子へ語りかけた。

「ママね、今まで気付かなかったけど、今、気付いたの。今のママの気持ちが、幸せなんだな、って」

 華は、不遇の中で生きてきた。親に愛されず、周囲に蔑まれ、搾取されるだけの人生だった。華に「好き」と言った男達は、「好き」という言葉を利用して彼女から搾取するだけだった。幸せなど実感できるはずもなく、幸せという気持ちがどういうものなのかも分からなかった。

 華は笑顔のまま、涙を流し続けている。幸せの意味を知って、幸せだと感じて、幸せな未来を夢見ている。秀人と一緒に息子を育てて、息子が大きくなって、息子に恋人ができて、息子に赤ちゃんができて。そんな未来を想像している。

「ママは、パパに出会って、一緒に暮らし始めて、毎日幸せでした。今は、あなたがママのお腹に来てくれて、もっと幸せになれました。幸せって、泣いちゃうんだね。初めて知りました。華は、パパとあなたのお陰で、泣いちゃうくらい幸せです」

 流れ続ける涙は、頬を伝い、顎に到達し、ポタポタと落ちている。

「あなたも、どうか、そんなパパになってください。好きな女の子と赤ちゃんを、泣いちゃうくらい幸せにしてください。あなたも、泣いちゃうくらい幸せになってください。そしたらきっと、ママは、もっと泣いちゃうくらい幸せです」

 締めくくり、華は、ペコリとお辞儀をした。お辞儀をしたら、また涙が床に落ちた。

 華が締めくくったので、秀人は録画を止めた。華の側に行き、彼女の頬に触れ、指で優しく涙を拭った。

 途端に、華は秀人に抱きついてきた。感情が高ぶったのだろう、何度も「大好き」「秀人、大好き」と繰り返した。

「俺も、華のことが大好きだよ」

 彼女の耳元で囁いた。嘘ではない。華から搾取する目的で口にした「好き」ではない。今までの男達とは違う。以前の自分とも違う。

 この「好き」は、恋愛感情としての「好き」ではないのだろう。異性としての「好き」ではなく、家族としての「好き」なのだと思う。それでも、大切にしたいことに変わりはない。

 もっと、華を喜ばせたい。もっと、華を幸せにしたい。

 そうだ、と思いついた。

 当分先になるが、海外に移住したら、結婚式を挙げよう。華にウェディングドレスを着せよう。招待客なんていないだろうが、自分達だけいればいい。

 綺麗なドレスを着られたら、華は喜ぶだろうか。
 タキシード姿の秀人が目の前に立ったら、華は喜んでくれるだろうか。

 華の幸せな涙を見て。彼女がさらに幸せになる未来を想像して。

 それでも、秀人の頭の中には、一抹の不安があった。

 ――華は、海外での生活に順応できるだろうか。
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