罪と罰の天秤

一布

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第四章 この冷たく残酷な世界でも

第九話② 成功させなければならない。でも、失敗すればいいと思っている(中編)

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 藤山は、公安特別課の二人に、会釈程度に頭を下げた。

「お疲れ様です。刑事部特別課SCPT部隊隊長の、藤山博仁です」

 挨拶をしつつ、亜紀斗の方へ手を向ける。

「こちらは、私の部下で刑事部特別課SCPT部隊隊員の、佐川亜紀斗です。名前を聞けば分かっていただけると思いますが、笹島咲花を捕えた本人であり、金井秀人討伐要員の一人です」

 亜紀斗は、公安特別課の二人に会釈をした。

 公安特別課の二人は挨拶を返すこともなく、名前の記入用紙を差し出してきた。ボールペンを添えて。

「書け」
「はい」

 記入用紙には、名前だけではなく、所属部署や性別、年齢、生年月日まで書く欄があった。最後に、「要件」と記載されている、記述式の欄がある。ここに来た目的を書く欄。

 亜紀斗は一言「笹島咲花との面会」と記入した。「笹」の文字の冠を竹冠ではなく草冠で書いて、藤山に苦笑された。指摘され、二重線で訂正した。

 公安特別課の一人が立ち上がり、柵状の扉の前に立った。ベルトに付けていた鍵を外し、扉を開ける。

「ついてこい」

 地上で遭遇した坊主頭と同様に、この公安特別課の男も淡々としていた。感情を表に出すこともない。まったくの無表情。

 入り口の扉から見て左側、奥から二番目のドアの前で、公安特別課の男は足を止めた。ドアを二回ノックする。

「笹島。面会だ」

 言うと、返事も待たずにドアの鍵を開けた。咲花がトイレの最中などだったら、どうするのだろうか。そんなどうでもいいことを、亜紀斗は考えてしまった。

 ドアが開けられた。部屋の中の光景が、亜紀斗の目に映った。

 狭い部屋だ。せいぜい六畳程度か。そこに洗面所やトイレもあるから、さらに狭く感じる。

 床は畳だった。ただし、奥にあるトイレ周辺は剥き出しのコンクリートのため、畳は四枚しか敷いていない。部屋の片隅に、畳まれた布団。

 咲花は、部屋のほぼ中央にいた。白いTシャツにショートパンツという薄着。訓練でもしていたのか、全身に薄らと汗をかいている。Tシャツが汗で透けて、かすかにブラが見えていた。白いブラ。

 部屋に入ってきた亜紀斗達を一瞥し、咲花は大きく息を吐いた。クロマチンは無色透明で、目に見えない。だが、彼女が訓練を中断し、クロマチンを解いたのは分かった。

「面会時間は三十分だ。ただし、時間が来る前に用が済んだら、これを押せ」

 公安特別課の男は、藤山に小型の機械を渡した。丸形の、スイッチが付いた機械。レストランにある、店員呼び出し用のブザーと同じような物だろう。

「了解しました。お疲れ様です」

 藤山の挨拶に返事もせず、公安特別課の男は出て行った。ガチャリと、外側から鍵を掛けられた。ドアの内側からは解錠できない。当たり前だが。

 狭い部屋の入り口付近で、亜紀斗は、咲花をじっと見つめていた。久し振りに会った、思い入れの強い、しかし友人などとは呼べない同僚。何度も啀み合い、殺し合いのような実戦訓練をし、ぶつかり合ってきた。

 けれど、尊敬に値する人物。咲花の両手に手錠を架けたときのことを、亜紀斗は、はっきりと覚えている。あの苦しさも、悔しさも、悲しさも。まるで、昨日のことのように。

 咲花は、少し痩せたように見える。食事の量が少ないのだろうか。それとも、過酷な訓練でも積んでいるのだろうか。

 何か一言、咲花に声を掛けたかった。けれど、何を言っていいか分からない。もしも友人だったなら、互いに少し笑い合ったのだろう。もしも恋人だったなら、互いに涙を浮かべたかも知れない。亜紀斗と彼女の関係は、そのどちらでもない。

「やあ、咲花君」

 亜紀斗が何も言えずにいると、藤山が先に、挨拶の言葉を口にした。

「最近、調子はどう?」
「最悪ですね。かび臭いし、食事の量は少ないし、死刑宣告みたいな任務を課せられるし」

 死刑宣告のような任務――秀人討伐のことだろう。確かに、死刑宣告も同然だ。

「でも、秀人君を仕留めることができれば、晴れて自由の身だよ? モチベーションとか、上がらない?」
「毒殺される方が楽、としか言えないですね」
「困ったなぁ。今日は亜紀斗君も連れて、秀人君について話しに来たのに。自分達の力に、少しは自信を持とうよ」
「……」

 藤山の話を無視して、咲花は亜紀斗に視線を向けてきた。彼女を捕えて以来、初めて目を合せた。痩せたが、相変わらず綺麗な顔をしている。

「久し振り」

 先に声を掛けてきたのは、咲花だった。気のせいだろうか――亜紀斗の目には、彼女の表情が柔らかくなったように見えた。とはいえ、それは、いい意味ではない。生への執着を感じられない柔らかさ。

「そんなところでボーッと突っ立ってないで、こっちに来て座ったら? 秀人さんのこと、話しに来たんでしょ?」
「あ……いや、俺はまだ、何も聞いてない」
「そうなんだ。とりあえず座ったら?」
「ああ」

 部屋の中央部で、亜紀斗は腰を降ろした。あぐら。

 亜紀斗の両隣に、咲花と藤山が座った。ちょうど、三人で円を組んでいるような状態になった。

「じゃあ、時間もないから、早速本題に入ろうか」

 そう前置きして、藤山は話し始めた。

「とりあえずビッグニュース。公安が、秀人君の居場所を掴んだよ」
「!」

 亜紀斗は目を見開いた。秀人は、全国各地で事件を起こしている。神出鬼没で、どこに出るか分からない。居場所を掴めるのは、当分先だと思っていた。

 咲花も驚いたようだ。顔が少し引き痙っている。

「よく居場所を掴めましたね。調査してるのは、公安一課ですか?」
「北海道の調査はね。他の地域は知らないけど」

 咲花の質問に、藤山は簡潔に答えた。

「正直なところ、ラッキーだったんだよ。秀人君が普段通りに動いてたら、まず間違いなく、もっと時間が掛かってただろうからね」
「秀人さんは、普段通りに動いてないってことですか?」
「うん。そう」

 亜紀斗には思い当たる節があった。最近は、秀人が絡んでいると思われる事件をまったく見ていない。模倣犯と思われる無差別殺人はいくつか発生していたが。銃を使った事件は皆無だった。

「普段通りに動いてない、って。じゃあ、金井秀人は、何をしてるんですか?」
「うーん。驚かないで聞いてね」
「はぁ」
「実は、妊婦さんのお世話をしてる」
「はぁ?」

 亜紀斗と咲花が、同時に声を上げた。

 亜紀斗の頭の中に、次々と疑問が湧き上がってきた。意味が分からない。秀人が、妊婦の世話? 何のために? 何か思惑があるのだろうか?

 見ると、咲花も、意味が分からないという顔をしていた。頭の中には、間違いなく、数多くの疑問が浮かび上がっているのだろう。

「公安の調査によると、秀人君が面倒を見ている妊婦さんは、四谷華さんっていう子なんだ」

 一旦言葉を切って、藤山は咲花に訊いた。

「咲花君。四谷華さんの名前に、聞き覚えはあるよね?」
「……南を殺したときに、私がアリバイ作りに使ったスマホの名義が、四谷華でした」
「うん。そう。その四谷華さん」

 亜紀斗は、南殺害の捜査を思い出した。南の死亡時刻に、咲花が通話をしていた記録があった。そのアリバイにより、彼女は、南殺害の容疑者候補から外れたのだ。

 咲花の通話の相手が誰だったのか、亜紀斗は覚えていなかった。名前は聞いていた気がするが。それが、四谷華だったのか。

「ちなみに咲花君。四谷華さんと面識は?」
「まったくないですね。秀人さんに、スマホの名義人として名前は聞いていましたが」

 あのアリバイの作成について、咲花は簡単に語った。

 咲花が、華名義のスマートフォンで、秀人と通話を開始する。そのまま、通話状態にしたスマートフォンを自宅に置いていく。華名義のスマートフォンを秀人が持ち歩き、街中を歩き続ける。そのうち、華名義のスマートフォンが電池切れを起こし、通話が切れた。

「なるほどね」

 うんうんと、藤山が頷いた。

「四谷華さんが通ってる産婦人科にも、調査が入ったんだよ。現在妊娠六ヶ月なんだって。秀人君の子みたいだね。まあ、秀人君は、産婦人科では、寶田秀人って偽名を名乗ってるみたいだけど」

 にわかには信じられない情報だった。亜紀斗は、秀人とほとんど面識がない。かきつばた中学校の屋上で戦っただけだ。だが、対峙した印象から、秀人の人となりは概ね推測できていた。冷静で、冷徹。一切の情もなく他人を利用し、目的のために犠牲にできる。

 そんな秀人が自分の子をつくり、妊娠した華に付き添って産婦人科に通っている。どこにでもいる、もうすぐ父親になる男のように。

「秀人さんにしては、信じられないほど不用意というか……行動の意味が理解できないですね」

 咲花は、亜紀斗とは別の意味で驚いているようだった。

「秀人さんも男だから、セックスくらいはするでしょうね。その点は問題ないんですけど。でも、避妊に失敗するような人ではないはずです。まして、相手の女を妊娠させて、自分の足枷をつくるなんて」

 確かに秀人は、自分の欲求に負けて避妊を怠るような男とは思えない。

「もしかして、子供をつくることで、秀人さんは何かを狙っているんでしょうか? 秀人さんにとって、子供をつくることがどんなメリットになるのか、まったく思いつかないですけど」
「うん。それなんだけどね」

 藤山は、前方に身を乗り出した。重大なことを告げるときのように。

「どうやら秀人君は、本当に四谷華さんを大切にしてるみたいなんだ。様子を探ってた公安の人達から見ても、秀人君と四谷華さんは、本当に仲睦まじいそうでね。産婦人科から帰るときも、秀人君は、常に四谷華さんを気遣ってたんだって」
「……」

 亜紀斗の記憶にある秀人は、中学生を利用して大量殺人を行わせた、無情の殺人鬼だ。藤山から聞いた秀人の人物像は、家族の仇討ちに人生を捧げた復讐鬼だ。しかも、怒りに任せて暴れるのではなく、高い知能を活かして確実に仕留める類の。

 もしかして公安は、秀人によく似た他人の調査をしているのではないか。もしくは、秀人が自分の影武者でも用意したのではないか。そんなことを考えてしまうほど、藤山の話は、亜紀斗にとって信じがたいものだった。

「昔の秀人さんに戻ったんですかね」

 自分の子を妊娠した女性を、大切にする。聞かされた秀人の現在に、咲花は納得し始めたようだ。先ほどは驚いていたが。

「昔の金井秀人?」
「そう。あんたは知らないだろうけど、私達と一緒に働いてた頃の」
「秀人君はね、強いし、頭もいいし、後輩にも優しかったんだよ。だから、皆に慕われててね。まあ、失踪前の秀人君を知らない亜紀斗君には、想像もつかないだろうけど」
「……」

 藤山の言う通り、想像もつかない。とはいえ、理屈としては理解できた。おそらく、本来の秀人は、優しくて思いやりのある人物だったのだろう。さらに美貌や実力にも恵まれているから、誰にでも親しまれる人物だった。

 しかし、事実を知って変わってしまった。家族が惨殺され、犯人は罪に問われることもなかった。それどころか、殺された家族が批難の的となった。どうしてそうなったのか――その理由を知ったとき、秀人は絶望し、この世に失望し、考え方が一八〇度変わったのだろう。

 姉の死の真相を知ったときの、咲花のように。
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