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第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花
第十二話① 地下遊歩道銃乱射事件(前編)
しおりを挟む七月下旬になった。
北海道でも気温が上がり、店舗や公共施設で冷房が使用される季節。
ちょうど二ヶ月前。
亜紀斗は初めて、咲花と実戦訓練で戦った。結果は、完敗だった。
あの戦いで、亜紀斗は肋骨を三本骨折した。亀裂骨折。完全に折れてはいなかったので、一ヶ月ほどで完治した。
完治後、リハビリを行って筋力を戻し、復職した。訓練は業務の一部であるため、労災保険料――正確には、公務員なので公務災害補償制度――が出た。
保険料が出たところで、嬉しくも何ともなかったが。
とにかく、ひたすら悔しかった。咲花に負けたことで、全てが否定された気分になった。
信じているものが、全て。
先生に更生させてもらったこと。親身になってくれた先生に憧れて、警察官を目指したこと。先生とは違う仕事をすることになったが、それでも目標にしていたこと。悲しみ、打ちのめされても、立ち直って目標に向かい続けたこと。
その全てが、否定された。
一緒に江別署から異動してきた麻衣には、凄く心配された。亜紀斗が怪我をし、落ち込んでいることを聞きつけたのだろう。療養中の亜紀斗の自宅まで訪ねて来て、かいがいしく世話をしてくれた。
亜紀斗は、麻衣に会うたびにセクハラ発言を繰り返していた。それなのに彼女は、嫌な顔ひとつせずに亜紀斗に微笑みかけてくれる。さらに、自宅まで来て世話をしてくれた。
ここまでされたら、馬鹿でも気付く。
麻衣は、亜紀斗に、好意以上の感情を抱いているのだ。
どうして麻衣が自分に惚れたのか、亜紀斗にはまったく分からなかった。彼女は、男性職員に人気がある。彼女に言い寄る男の中には、亜紀斗よりもはるかに将来有望な男もいる。
セクハラ発言を繰り返す馬鹿な男に惚れる理由が、どう考えても分からない。
「あのさ、奥田さん。いいの? 男の一人暮らしの家に、こんなに頻繁に来て」
度々訪ねてくる麻衣に、聞いたことがあった。
「まして、俺みたいな性欲旺盛な男のところに」
作り置きの料理を用意しながら、麻衣は、微笑ましそうに笑っていた。
「でも、佐川さん、今は怪我人なんですよね? 私を襲ったりなんて、できないんじゃないですか?」
「いやいや。特別課の隊員をナメない方がいいよ。怪我してても、奥田さんを押し倒すくらい、簡単だから」
「火を使ってるときじゃなければいいですよ、襲っても。そうしたら、それって、既成事実ですよね。もちろん、責任とってくれますよね?」
「いいの、それで? 俺なんかよりもいい男と既成事実作って、責任取らせた方がいいと思うけど。将来的にも安泰じゃないの?」
「あら。でも、佐川さんって、特別課の隊員じゃないですか。しかも、特別課の中でも優秀な。十分将来有望だと思いますけど?」
「俺なんてそんなに将来有望じゃないし、ヤることだけヤッて、責任なんて取らないかも知れないよ? 奥田さんのおっぱいを好き放題して、気が済んだら放り出すかもよ?」
「本当に私を弄ぶつもりの人は、そんなこと言いませんから。むしろ、甘ったるい言葉で口説いてくるんです。で、口説き落としたら、釣った魚には餌をあげないんです」
麻衣の言葉には、実感が込もっていた。そういう経験があるのだろうか。
「いやいや。俺はその辺、馬鹿だから。そんな計算高く女の子を口説けないし。とりあえず、奥田さんが作ってくれたオカズを食べるよりも先に、奥田さんをオカズにしてオナニーするけど」
渾身のセクハラのつもりだった。
麻衣は亜紀斗を心配して、わざわざ食事の用意をしに来てくれた。それなのに、こんな下品なことを言われた。普通なら、呆れ果ててすぐに帰り、二度と来ないだろう。
ところが麻衣は、ヤンチャな子供に接するような態度で、亜紀斗に言ってきた。
「私がいるときにオナニーするなら、トイレかお風呂場でして下さいね。さすがに、目の前でされると恥ずかしいんで。あ。でも、怪我に響きませんか? 今は、性欲よりも怪我の回復を優先して下さいね。怪我に響くなら、我慢しないと駄目ですよ」
「……」
一時が万事、こんな調子だった。
麻衣のような可愛い女性に好かれるのは、素直に嬉しい。
嬉しいけれど、悲しかった。
変えることのできない過去に、亜紀斗の胸が痛んだ。自分がこんな人間でなければ、きっと、とっくに麻衣に惚れていただろう。
――でも、俺は。
自分は、こんな人間だから。
咲花に負けた悔しさ。麻衣から向けられる好意への戸惑い。様々な感情に、心が振り回された。
自分の気持ちを整理できないうちに、療養期間は終わった。
業務に復帰してしばらくすると、実戦訓練の日になった。
亜紀斗の相手は、またも咲花だった。
前回とは異なり、今度は防具を着けて戦った。防具を脱ごうとした咲花を、藤山が咎めたのだ。
今度の戦いでは、途中で止められることはなかった。十分間、戦い抜いた。
だが、内容としては完敗だった。
外部型クロマチンの能力者は、本来、近距離戦が不得手だ。だからこそ、内部型である亜紀斗が戦う場合は、距離を詰めることを第一に考える。
しかし、咲花には、あの近距離砲がある。
咲花があの近距離砲を訓練で見せてから、他の外部型クロマチンの隊員も、真似をしようとした。だが、誰一人として真似できなかった。
咲花以外は誰も再現できない、圧倒的な超高等技術。
あの近距離砲があるから、亜紀斗は、安易に咲花に接近できなかった。そうこうしているうちに、長距離に釘付けにされた。今度は、療養が必要なほどの怪我はしなかったが。
再び咲花に負けたことが、悔しくて悔しくて、たまらなくて。
亜紀斗が落ち込んでいることに気付いたのだろう。麻衣が、度々、亜紀斗を気遣ってくれた。
療養期間後も感情が大きく乱れ、振り回される亜紀斗の心。振り回されながらも、自分を高めようと必死だった。理想に近付かなければならないという義務感から。憧れた人のようになりたいという希望から。
多くの感情が亜紀斗を突き動かし、時に立ち止まらせ、あるいは困惑させていた。
夏になり、暑くなっているが、亜紀斗の体に汗が浮かぶのは、気温のせいだけではなかった。
事件発生の知らせを受けたのは、そんな時期だった。
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