罪と罰の天秤

一布

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第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花

第十五話② 違うけれど同じ(後編)

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「二十年近く前にあった、美人女性誘拐監禁虐殺事件、って知ってる?」
「はい」

 有名な事件だ。当時の亜紀斗は幼かったが、連日、テレビのニュースで放送されていた。二十代前半の綺麗な女性が少年四人に誘拐され、監禁され、一ヶ月の間にありとあらゆる暴行を受け、殺害された事件。

 もっとも亜紀斗は、ニュースで見た以上のことは知らない。

「被害者の女性の顔も名前も、公開されていた。でも、被害者の家族のことは公開されなかった。なんでだと思う?」
「被害者の家族が、変な嫌がらせを受けないようにするため、ですかね?」

 世の中には、被害者遺族に対して、見当違いな批判や批難をぶつける者がいる。被害者は殺されて当然のことをしていた、という言いがかり。犯人の厳罰を望む遺族に対して、「世間の同情を誘っている」だの「注目を集めて悲劇の主人公になろうとしている」だのという、人の心があるとは思えない中傷。

 そんな輩から遺族を守るために、一定の規制が敷かれたのではないか。

「まあ、ある意味正解だね。もっとも、事実はもっと深刻なんだけど」
「どういうことですか?」
「まず、被害者の両親は、被害者が殺される前に亡くなっていたんだよ。それに、祖父母も亡くなっていて、両親共に一人っ子だったから、親戚もいない」
「それじゃあ、被害者は天涯孤独だったんですか? あれ? でも、家族がいたんですよね? もしかして、被害者は結婚してたんですか?」
「ううん。そうじゃないんだ」

 藤山は、組んでいる手を口元に当てた。薄ら笑いの口が隠れて、彼の目だけが見える。

「被害者には、妹がいたんだよ。被害者より十二歳年下の、事件当時十歳の妹がね」

 ということは、被害者の妹は、姉が殺されたことで天涯孤独となったのか。

 痛ましい事実に、亜紀斗の胸が締め付けられた。

「亜紀斗君の言う通り、世の中には、被害者遺族に変な嫌がらせをする輩がいる。だから、行政側は先手を打ったんだ」

 藤山は、淡々と話を続けた。いつもの彼らしくなく。

「まず、被害者の妹の苗字を、母方のものに改姓させたんだ。妹は十歳だから、諸々の手続きは自分でできない――まだ、年齢的にする資格がない。だから、これは割と簡単だった。さらに、マスコミには、徹底的に報道規制を強制した。事件自体が凄惨だったからね。マスコミ側も、意外なほど素直に応じてくれた。預けた児童養護施設側にも、天涯孤独になった少女という以外、一切の情報を伏せた――妹の姉は、運悪く通り魔に殺されたと伝えた」
「だから、被害者の妹は、一切注目されなかったんですね?」

 藤山に言葉を返した直後、亜紀斗の頭の中で、一つの可能性が浮き出てきた。確信を持てる可能性。

「もしかして、その妹というのは――」
「続けるよ」

 亜紀斗の言葉を遮って、藤山は続けた。

「情報を伏せたのは、世間にだけじゃないんだ。被害者の妹に対して、被害者が殺された詳細については、何も教えなかった。まだ十歳の子供が知るには、あまりに酷な内容だったからね」

 亜紀斗は、その事件の詳細を知らない。知っていることと言えば、事件や裁判を表す形容くらいだ。

『史上最悪の少年事件』
『産まれてきたことを後悔するほどの凄惨な最後』
『人面獣心の畜生共が起こした事件』
『悪魔に温情を与えた、愚かな判決』

 藤山は、組んだ両手を、口元を隠すように当てている。亜紀斗をじっと見る、彼の目。普段の彼からは考えられないほど鋭い。

「僕は、その事件の捜査には関わってない。特別課が出動する対象ではなかったからね。でも、当時新人だった僕の耳にも入ってくるほど、事件の内容は――被害者が殺された状況は、警察関係者の中では有名だったんだ」

 藤山が語る被害者の状況は、あまりに凄惨だった。

 被害者が監禁されていた部屋には、血が飛び散っていた。暴行を受けた際の血痕だ。監禁後二週間を経過した頃からほとんど食べ物や飲み物が与えられず、痩せ細っていた。リンチの際には体に火を当てられ、全身に火傷の痕があった。もちろん、火傷だけではなく、鈍器や拳で殴られた痕もあった。絶望的な恐怖のせいだろう、脳は萎縮していた。繰り返される強姦の末、妊娠もしていた。

「そんな事件の状況を――姉の状況を、妹に話せるはずがない。知られていいものじゃない。彼女の今後の人生を、大きく変えてしまうからね。だから、妹に接した行政機関の人達は、口裏を合せて伝えたんだ。『お姉ちゃんは、運悪く悪い人に狙われて、殺されちゃったんだ。でも、最後まで、君のことを心配してたんだよ』って」

 完全な嘘ではない内容。完全に嘘ではないから、信じさせることができたのだろう。

「でも、たぶん……ううん。間違いなく、知っちゃったんだろうねぇ」

 藤山は大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げ、大きく息を吐いた。また亜紀斗に視線を戻し、聞いてきた。

「それで、だ。亜紀斗君。もう分かってるよねぇ?」

 亜紀斗は頷いた。

「被害者の妹が、笹島なんですね?」
「うん。そう」

 藤山の表情が、いつもの彼に戻った。口元の、嘘臭い薄ら笑い。どこか裏がある、本心を隠していそうな顔。

「ただ、ねえ。この事件が原因なら、咲花君は、真っ先に犯人のガキ……少年達を殺すと思うんだよ。普通はそうだろう? たった一人で自分のことを育ててくれた姉が、殺された。復讐心が湧くのは当然だし、恨みだって相当なものだろうからねぇ」
「……」

 亜紀斗には、咲花の気持ちが分かる気がした。

 きっと咲花は、姉のことが大好きだったのだ。幼いながらも、尊敬していたのだ。そんな姉が、自分がまったく知らないところで殺された。それも、誰もが目を覆うほど凄惨で残酷な目に遭って。

 どれだけ悲しかっただろうか。どれだけ悔しかっただろうか。何も知らなかった自分を――姉に大切にされていたのに、姉を差し置いて幸せになろうとした自分を、どれだけ恥じただろうか。

 それでも司法は、基本的には、加害者が社会復帰する方向に動く。過去に殺人歴がなく、かつ殺した人数が一人であれば、死刑になることはほとんどない。どんなに残酷な殺人事件であっても。被害者遺族が、どれだけ悔しさを滲ませようとも。

 咲花は、そんな被害者に寄り添いたいのだ。自分のような人間を、これ以上増やさないために。絶望に沈む人を、一人でも減らすために。

 大好きな姉に、報いるために。

 だから咲花は、自分の復讐には走らない。

 亜紀斗と咲花は、まるで違う。抱えている信念も、正義の価値観も。

 だが、明確な共通点がある。

 大切な人を亡くしてしまったこと。
 大切な人が亡くなったことにより、目的を得たこと。
 大切な人の死が、自分を突き動かしていること。
 そして、大切な人を失ったことに対し、罪悪感を抱いていること。

 亜紀斗が、SCPT隊員として訓練を受けているとき。
 先生が、事故で亡くなった。

 尊敬し、目標とし、道標みちしるべになってくれた先生。いわば、亜紀斗の心の支えだった。

 支えを失った亜紀斗は、簡単に倒れた。全ての意欲を失い、訓練にも行かなくなり、自宅に引き籠もった。

 当時の恋人は、そんな亜紀斗の面倒を、かいがいしく見てくれた。決して批難せず、怒りをぶつけたりせず、亜紀斗が立ち上がるのを待ってくれた。

 亜紀斗を立ち直らせたのは、失ってしまったへの、敬愛と尊敬の念だった。

 彼女達がくれたものを、無駄にしたくない。自分を支えてくれた彼女達に、報いたい。

 亜紀斗と咲花に共通する、心の傷。生きる目的。

 大切な人の死に、胸を痛めた。大切な人の死が、今の自分を生かしている。

 そして、亜紀斗は――おそらく咲花も、同じ罪悪感を抱えている。自分が幸せになることに対しての、罪悪感。

『自分は幸せになるべき人間じゃない。自分の幸せを捨てて、目的を達するためだけに生きなければならない』

 亜紀斗と咲花は、まったく逆方向に向かって、まったく同じ目的で突き進んでいる。

 だから、咲花が犯人達を殺したとき、亜紀斗は激高した。

 だから、亜紀斗が犯人を更生させたいと言ったとき、咲花は嘲笑した。

「隊長」

 亜紀斗は、藤山に向けて小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。なんとなく、分かった気がします」
「何がだい?」
「笹島が犯人を殺す理由と意味です」
「うーん。そうかい。それなら、まあ、いいけど」

 相変わらずの、胡散臭い藤山の表情。

 亜紀斗の心は、相変わらず沈んでいる。咲花の行動の理由は分かった。だが、それが、傷付いた信念を蘇らせる理由にはならなかった。むしろ、咲花が背負っているものの重さを知って、さらに沈んだ気がした。

「あと、今日は、本当にすみませんでした」

 この謝罪は本心だ。犯人の更生にしても犯人の殺害にしても、身内で争っていてはできない。もちろん、被害者を守ることも。

「いや、まあ、うん。とりあえず反省してるならいいから。今日は、帰ってゆっくり休んで」
「はい」

 亜紀斗は席を立った。

「では、お先に失礼します」
「うん。お疲れ様」

 藤山に一礼すると、亜紀斗は小会議室から出た。
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