罪と罰の天秤

一布

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第二章 金井秀人と四谷華

第五話② 大泣き少女(後編)

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 華はすぐにシャワーを手にし、お湯を出した。ボディーソープを手に馴染ませ、泡立てる。腰掛けをシャワーの近くに置き、秀人の方を向いた。

「お兄さん、座って」
「ああ」

 指示されるまま、秀人は腰掛けに座った。

 華が、秀人の体をお湯で濡らした。全身が濡れると、ボディーソープのついた手で、優しく撫でるように体を洗ってくれた。心地好い感触。確かに、人の体を洗うのが上手だ。

「お兄さん、頭も洗うよね?」
「ああ。頼める?」
「うん」
「あ、あとね」
「なぁに?」
「俺は、秀人だよ。金井秀人」
「秀人……お兄さん?」

 シャンプーを手に馴染ませる華を見ながら、秀人は苦笑してしまった。

「秀人でいいよ」
「じゃあ、秀人」

 この会話のやり取りに、楽しいことがあったわけではない。それなのに華は、どこか嬉しそうだった。

「秀人。目、閉じて」
「ああ」

 華に体を洗われて、気付いた。彼女は器用だ。洗うときの力加減や手つきから、それがよく分かった。頭の洗い方も上手い。痛くなく、かつ丁寧に洗ってくれている。まるで美容師にでも洗われているようだ。

「ねえ、華」
「何? 秀人」
「華のこと、教えてくれないかな?」
「いいよ。華の、何を話せばいいの?」
「そうだな。まず、華はいくつなの?」
「二十二歳だよ」

 想像よりも年上だった。せいぜい二十歳くらいだと思っていたが。かなりの童顔だ。

「じゃあ、どうしてそんなにお金が欲しいの?」
「お金?」
「ああ。華はソープで働いて、そのうえ、立ちんぼまでしてるんだろ? たくさん稼いでるよね? それなのに今日は、一晩中、立ってたんだろ? たくさん稼いでるなら、一日くらいサボってもよかったんじゃない?」

 華の手が、秀人の髪の毛を優しく撫でている。秀人と話していても、その手が止まることはない。

「華ね、テンマの役に立ちたいの」

 語り始めた華の声には、優しい響きがあった。

「テンマ?」
「うん。華のね、彼氏なの」

 深い深い愛情を感じる、華の声。

 この声の響きを、秀人はどこかで聞いたことがあった。すぐに思い出した。これは、姉の声だ。自分を犠牲にしてまで秀人を守ってくれた、姉の声。

 秀人が最後に姉の声を聞いたのは、あの凄惨な事件のとき。自宅に侵入してきた暴漢が、秀人の家族を虐殺した。姉は秀人を洗濯槽に隠し、自分を犠牲にして守ってくれた。

 あの時の、姉の声。

『いい、秀人。絶対に出てきたら駄目。お姉ちゃんとの約束』

 あの時と今とでは、状況がまるで違う。姉の声は愛情に溢れていたが、同時に、恐怖に震えていた。それなのに、華の声と姉の声が、重なった。

 自分の身すら犠牲にできる、底知れない愛情。

 華は優しい声で、テンマという男のことを語った。

 テンマは、しろがねよし野にあるAnotherアナザーというホストクラブで働いている。

 彼と出会ったとき、華には家がなかった。外で生活していて、仕事も金もなかった。途方に暮れていた。しろがねよし野で、ビルに寄り掛かって座り込んでいた。空腹で、動く気力などなかった。

 そんな華に声を掛けてくれたのが、テンマだという。

 テンマは華を家に連れ込み、風呂に入らせ、食べ物をくれた。華の苦しい状況を、詳しく聞いてくれた。どうして一人で外にいたのか。どうしてこんなに腹を空かせていたのか。

 華の身の上を聞くと、自分の家に住まわせてくれた。

 一緒に暮らしてから一ヶ月ほど経ったとき、テンマが、華に仕事を紹介してくれた。

『ちょっとエッチなことするけど、一生懸命お客さんに優しくすれば、お金がいっぱいもらえるから』

 テンマが華に紹介した仕事は、ファッションヘルスだった。風俗店の一種。

『華は可愛いし優しいから、きっと、お客さんに気に入ってもらえるよ』

 テンマに言われた通り、華は頑張った。一生懸命、お客さんに優しくした。色んなお客さんが、華に会うために店に来てくれるようになった。

 気が付けば、一ヶ月でかなりのお金を稼げるようになった。

 丁度その頃だった。テンマがどんな仕事をしているのか、教えてもらったのは。

 ホストクラブ。

 華は、ホストクラブがどういう店なのか、知らなかった。

『お客さんと酒を飲む店なんだ。俺と酒を飲みたいっていう人がいっぱいいれば、それだけ、稼ぎがよくなるんだよ』

 同時に、お客さんに出した酒の量を、店内のキャストと競い合う店だと聞いた。

 華にとって、テンマは恩人だった。同時に、ヘルスで働き始めた頃から、彼と付き合うようにもなっていた。

 告白は、テンマからだった。一緒に暮らしているうちに好きになった、と。

 当然のように、華は、テンマの告白を受け入れた。断る理由などなかった。

 助けてくれて、優しくしてくれて、可愛いと言ってくれたテンマのことを、華も好きになっていた。

 好きだから、テンマの役に立ちたいと思った。

『華、テンマのお店に行く。今なら、お金、いっぱいあるから』

 華のホストクラブ通いが始まった。

 華は計算が苦手だ。テンマの店でどれくらいのお金を使っているか、よく分からなかった。

 ヘルス勤務で貯めたお金が、あっという間に尽きた。

 華はテンマに相談した。

『もっとテンマのお店に行きたいけど、お金がなくなっちゃった。どうしたらいいの?』

 テンマは、新しい仕事を紹介してくれた。しろがねよし野にある、ソープランド。

『お客さんとエッチするんだけど、ヘルスよりお金になるよ』

 華は、セックスが好きではなかった。セックスに、いい思い出がなかった。それでも、テンマのためなら。

 迷わず、ソープランドで働き始めた。

 でも、ソープランドで働いても、お金が全然足りない。もっとテンマの役に立ちたい。もっとテンマのお店に行きたい。

 再び、華はテンマに相談した。

『じゃあ、鳥々川のところで、みようか』

 テンマが提案してくれた、立ちんぼという仕事。声を掛けてきた男の人と、セックスをする仕事。

 避妊具をしないでセックスをすれば、よりたくさんお金が貰える。テンマがそう教えてくれたが、妊娠が恐かった。

『大丈夫だよ』

 テンマは、妊娠しない薬のことを教えてくれた。経口避妊薬ピル。妊娠しないなら、避妊具なしでセックスできる。いっぱいお金が稼げる。

 テンマのことを語りながら、華は、秀人の髪の毛をコンディショナーで整えた。丁寧に、お湯で洗い流す。

 相変わらず、華の声は愛情に満ちていた。

「テンマはね、優しいんだよ。でエッチしても赤ちゃんできないように、お薬のことも教えてくれたの。だから華ね、いっぱい頑張って、いっぱいお金もらって、テンマの店に行きたいの」
「……」

 洗い終わった髪の毛を、秀人は掻き上げた。じっと、華の顔を見た。

 テンマのことを語る華は、幸せそうだった。

 騙されていることにも気付かず、惜しみない愛情をテンマに注ぐ華。

 テンマが華にしているのは、色恋営業だ。相手に恋心を抱かせて、夢中にさせて、徹底的に搾取する。

 キャバクラやホストクラブの色恋営業は、一時期、問題視されていた。営業の在り方が大きく変わった時期もあった。

 しかし、国内の経済状況の悪化により、再び色恋営業が活発になった。むしろ、以前よりも露骨な色恋営業が行われるようになった。

 華は明らかに、色恋営業の犠牲者だった。

 テンマのことを語る、愛情に満ちた華の声。姉のことを思い起こさせる、華の声。

 だが、二人はまるで違う。

 嘘偽りない愛情に満ちていた姉。
 男に騙され、偽りの愛に溺れる華。

 秀人は、少なくない苛立ちを覚えた。

 目の前にいるのは、知能の低い、自分の性を搾取されている女。

 秀人は今まで、色んな人達を操ってきた。ホストの色恋営業など、比較にならないくらいに。華のように搾取される者など、見慣れていた。秀人自身が、色んな者達から搾取してきた。

 それなのに、どうしてこの女を見ていると苛立つのか。

 秀人の心は、一つの結論を導き出した。

 華と姉を、重ねてしまったからだ。命を捨てて自分を守ってくれた、大好きな姉と。だから、苛立っているんだ。姉を汚されたような気がして。

 華は笑顔で、秀人を見ている。
 秀人も、華を見ている。

 一糸纏わぬ姿で、互いの視線を絡めている。

 苛立ちに任せて、秀人は吐き捨ててしまった。無意識のうちに。

「馬鹿だね」

 ピクンッと、華の肩が震えた。

「明かに、いいように搾取されてるだろ、それ。気付かないなんて、本当に馬鹿だな」

 一瞬だけ震えた直後。少しずつ、華の表情が変化してきた。ゆっくりと、笑顔が消えていった。大きな目を、さらに大きく見開いた。

 きっと、華は怒るだろう。好きな人を否定されたのだから。自分は騙されていないと、言い張るだろう。

 秀人の予想通り、華の様子が変わっていった。怒りのせいか、また体を震わせている。

 華の目に、涙が浮かんできた。これから、怒鳴り散らすのだろう。自分は騙されてなんていない、と。テンマはそんな人じゃない、と。

 秀人の予想は、半分は当たっていた。華は確かに怒鳴り散らした。しかし、彼女の口から出た言葉は、想定外だった。

「華、馬鹿じゃないもん!」

 風呂場に響き渡る声。響き、反響した。癇癪を起こした子供のような声。

「馬鹿じゃないもん! 華、馬鹿じゃないもん!!」

 馬鹿じゃない、と何度か繰り返した後、華は、大声で泣き出した。うわーんと、それこそ子供のように。その場にペタリと座り込み、大きく口を開けて、号泣していた。ボロボロと流れる、大粒の涙。

 華が泣き出すことは、秀人も予想できていた。泣きながら怒るだろう、と。でも違った。怒るのではなく、悲しんでいた。号泣するほどに。

 大声で泣きながら、華は、「華、馬鹿じゃない」と繰り返していた。

 馬鹿という言葉が、華の心のスイッチを押してしまったのだろうか。泣きじゃくる彼女を前に、秀人は戸惑ってしまった。滅多に慌てることのない秀人が、慌てて華に声を掛けた。

「ごめん。ごめんね、華」

 謝っても宥めても、華は泣き続けている。

 いつもの冷静な秀人なら、間違いなく、こう考えただろう。

『華は、馬鹿という言葉にトラウマがあるのだ。そのトラウマを上手く使えば、彼女を思うようにコントロールできる。テンマというホストから引き離し、自分のために動く駒にできる』

 けれど秀人は、なぜか、冷静になれなかった。泣いている華を、落ち着かせたかった。意図的に泣かせたのに。自分の中にある苛立ちを彼女にぶつけて、わざと傷付けたのに。

 秀人は、華を抱き締めた。幼い子供を宥めるように。ポンポンと、優しく背中を叩いた。

「許して、華。もう、馬鹿なんて言わないから。だから、泣き止んで」

 出会ったばかりの、どうでもいい女。男に騙されて、徹底的に搾取され続けている、馬鹿な女。

 愛情の深さが、姉と重なった女。

 華が泣き止むまで、秀人は彼女を宥め続けた。
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