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第二章 金井秀人と四谷華
第二十一話 嬉しかったからこそ辛い
しおりを挟む事件現場から、車を一時間ほど走らせて。
亜紀斗は、道警本部に戻ってきた。
川井達と十六階まで上がり、挨拶をして別れた。
特別課に向う。
亜紀斗の足取りは、重かった。
特別課には、咲花が帰ってきているだろう。
当然、亜紀斗は咲花に問いただすつもりだった。どうして犯人を殺したのか、と。最近の二件の事件では、犯人を生かしていたのに。しかも、今回は単独犯だ。殺してしまっては、証言を得られない。
特別課に着いて、亜紀斗はドアを開けた。いつもの職場。入ってすぐのところに棚があり、その奥に、机が人数分並んでいる。部屋の一番奥――窓際には、課長席。その手前には隊長席。
今回の事件で捜査チームに加わっていた隊員は、全員、戻ってきていた。藤山も隊長席に座っている。課長は不在。
咲花も戻ってきていた。自席で、黙々と仕事をしている。パソコンのキーボードを叩く音が、パチパチと響いていた。
咲花の姿を確認すると、亜紀斗の心の中で、何かが湧き上がった。今まで重かった足が、自然と動いた。帰庁――本部に戻ってきたこと――の挨拶も口にせず、まっすぐ咲花のもとに向った。
咲花の真横に立ち、亜紀斗は足を止めた。
咲花は、報告書の作成をしていた。亜紀斗の接近に気付いたらしく、パソコンを打つ手を止めた。
座ったまま、咲花は亜紀斗に顔を向けた。
亜紀斗も、咲花をじっと見ている。
「……何? 何か用?」
咲花の声は、心底面倒そうだった。それでいて、突き放すような冷たさがあった。
咲花が犯人を殺す事情を、亜紀斗は理解している。だからこそ、彼女を一方的に否定できない。否定できないが、そんなことはやめてほしかった。
だから、咲花が犯人を殺さなくなって嬉しかった。川井だって喜んでいたはずだ。それなのに、今回、彼女は犯人を殺した。残酷かつ凄惨な方法で。
嬉しかった気持ちは、反転した。悲しみにも似た気持ちに変化した。悲しみにも似た気持ちは、今の咲花の様子を見て、苛立ちに変化した。
一人しかいない犯人を殺して、どうしてそんなに平然としていられるのか。どうしてそんなに、冷淡でいられるのか。
亜紀斗の手が震えた。行き場のない感情が、内側から溢れ出てきた。
亜紀斗は、出生から成長期まで、暴力の中で生きてきた人間だ。更生したといっても、自分の中に根付いた暴力性をコントロールできるようになるまで、ずいぶん苦労した。
今でも、完全にコントロールできるとは言い難い。自分より弱い者には決して手を上げないが、自分より強い者に対しては、話は別だ。
思わず亜紀斗は、震える手を振り上げた。咲花の机に、掌を叩き付けた。
バンッという音が、特別課室内に響いた。衝撃で少し浮いたキーボードが、カタンッと音を鳴らした。
亜紀斗は、咲花に顔を近付けた。彼女を睨む。
咲花は、亜紀斗から目を逸らさなかった。冷たい視線を突き刺してくる。
炎と氷のような、視線の交わり合い。
「どうして殺した?」
先に口を開いたのは、亜紀斗だった。咲花に出会った当初と似たような質問を、彼女にぶつけた。
「犯人は一人しかいなかった。殺したら、事件の動機を聞き出すこともできない。銃の入手経路だって、吐かせることもできない」
犯人に償いをさせる、という信念は口にしなかった。亜紀斗の中に残っている理性が、言葉を選ばせた。亜紀斗と咲花は、真逆の信念を抱いている。今信念を口にしても、不毛な言い合いになるだけだ。そう、本能的に悟っていた。考えての行動ではない。
咲花は鼻で笑った。
「銃の出所は分かってるでしょ?」
金井秀人。秘密裏に彼の捜査をしているため、彼については箝口令が敷かれている。
「じゃあ、犯行の動機はどうなんだ? 一人しかいない犯人を殺したら、それを聞き出すこともできないだろ?」
「ああ、それならもうわかってるよぉ」
亜紀斗の質問に答えたのは、藤山だった。席を立ち、こちらに近付いてくる。亜紀斗達の側まで来ると、いつもの口調で説明を始めた。
「犯人の所持品に、スマホがあってねぇ。そこから判明したよ」
「スマホから?」
亜紀斗は視線を移動させた。咲花から藤山へ。
「うん、スマホから。彼のネットのアクセス履歴が、大量に出てきたからねぇ」
「どういうことですか?」
「犯人はねぇ、犯罪者の家族を、ネット上で徹底的に貶めてたんだよ。住所や職業を特定して、晒して、誹謗中傷してたんだよねぇ」
人が犯罪に手を染めたとき、批難されるのは犯罪者本人だけではない。犯罪者の家族も批難の対象となる。
『こんな犯罪者を野放しにしていたのか』
『自分の子供をこんな犯罪に走らせて、どんな教育をしていたのか』
『自分の親が犯罪を犯して、子供としてどう償うつもりなのか』
『自分の兄弟の凶行を止めることもできなかったのか』
状況によっては、犯人と同様に責められるべき家族もいるだろう。だが、そんな家族ばかりではない。
大抵の親は、できる限りの教育を子供に施す。
大抵の子供は、親が犯罪に走るなんて想像もしない。
大抵の者は、自分の兄弟が、犯罪者という別世界の生き物になるなんて思えない。
自分の家族が犯罪に走ると分かっていたら、止める者が大半だろう。それでも止められないのが犯罪だ。
当たり前のことなのだ。
当たり前のことなのに、当たり前のことを見ない者が多い。
あるいは、当たり前のことから、自分の欲求のために目を逸らしているか。他人を叩きたいという欲求。
他人を叩くことで、自分を肯定したい。他人を叩くことで、気持ちよくなりたい。他人を叩くことを、格好いいと勘違いしている。
犯罪者の家族だから、叩いても許される。犯罪者の家族だから、理不尽な扱いをしても問題はない。犯罪者の家族だから、死んでもいい。
今回の犯人は、そんな欲求に囚われていたのだ。
しかし、物理的に叩く力も度胸もないから、ネット上で叩いていた。姿も見せず、安全なところから他人を嬲っていた。
ところが犯人は、物理的に叩く力を手に入れてしまった。一瞬で人を殺せる武器。歪んだ承認欲求に、不必要でしかない力が加わってしまった。
「実際に、今回の事件の被害者は、最初の被害者を除いて犯罪者の家族だったからねぇ」
今回の事件は、早い段階で、同一犯による連続銃殺事件と断定されていた。根拠は二つ。一つは、現場に残された『天誅』の文字。もう一つは、被害者を撃った銃弾が、同一の銃から発射されていたこと。
銃弾には、発射する際に、線条痕という跡が残る。これは、銃一丁一丁で異なる。人の指紋のように。そこから、同一の銃を使用したと判明した。
では、最初の被害者は、どうして犯罪者の家族でもないのに殺されたのか。
推測に過ぎないが、勘違いによる殺人だと考えられている。犯罪者の家族だと勘違いされて、殺された。
亜紀斗が「償い」という信念を口にしなかったからか。咲花は、加害者の更生について何も言わなかった。ただ一言、いつもの言い訳を吐き出した。
「言っとくけど、わざと殺したわけじゃない。仕方なかったの。被害者が銃を向けられて、犯人を止める必要があった。そしたら、狙いが外れた。不可抗力だから」
「お前は……!」
思わず亜紀斗は、咲花の胸ぐらを掴んだ。彼女の体が椅子から浮くほどの力で、引き寄せた。
再び、亜紀斗と咲花の視線がぶつかった。先ほどよりもはるかに近い距離で。彼女の瞳に、自分が映っている。苛立ちに満ちた、自分の顔。
「お前は、そうそう狙いを外すような奴じゃないだろ! お前の力は、俺がよく分かってる! そんなくだらないミスをするような奴じゃない!」
亜紀斗の目の前で、咲花は挑発的に笑った。
「それって、褒めてるの? それなら礼を言っておくわ。ありがと」
「ふざけるな!」
「はーい! ストーップ!」
亜紀斗と咲花の言い合いを止めたのは、藤山だった。パンッパンッと手を叩いて、珍しく大きな声を出した。もっとも、口調はいつも通りだが。胡散臭い笑顔も、普段と変わらない。
「こんなところで喧嘩はやめてねぇ。君達が暴れたら、備品が全部壊れちゃうよ。分かってる? ここにある物、全部、税金で購入してるんだよ? 市民の血税なんだよぉ?」
「……」
藤山に言われてから数秒の間、亜紀斗は咲花を睨み続けた。やがて、掴み上げた彼女の胸ぐらを、放り出すように離した。
咲花は、落下するように自分の椅子に戻った。ガタンッと大きな音が鳴った。掴まれて乱れた襟元を整え、また仕事に戻った。何もなかったかのように、平然とした顔をして。
咲花を掴み上げ、糾弾したものの、亜紀斗の気持ちは晴れなかった。行き場のない感情が、胸の中で暴れ回っていた。興奮にも怒りにも似た感情で、手が震える。
パソコンのキーボードを叩きながら、ポツリと、咲花が呟いた。
「死ぬべき奴だった。だから死んだ。それだけでしょ」
囁くような、咲花の言葉。
けれど亜紀斗は、聞き逃さなかった。再び、咲花を掴み上げようとした。
「はい、亜紀斗君。ストーップ」
亜紀斗を止めたのは、藤山だった。亜紀斗の手首を、ガッチリと掴んでいる。
「言ったよねぇ。こんなところで喧嘩はやめて、って」
「……」
亜紀斗は、藤山の手を振り払おうとした。しかし、振り払えない。握力も腕力も強い。内部型クロマチンを発動させている気配もないのに。
「落ち着く意味も含めて、少し僕と面談しようか。小会議室の空き状況は分からないから、訓練室で。いいよね?」
舌打ちしたい気分を必死に抑え、亜紀斗は頷いた。湧き上がる感情は、まだ収まる気配はない。思い切り暴れたい気分だ。
藤山は、亜紀斗の手首から手を離した。
「じゃあ、早速行こうか。面談の後で報告書の作成になるから、残業になるかも知れないけど。それは自業自得だと思って、諦めてねぇ」
「……わかりました」
再度頷き、亜紀斗は、藤山に連れられて訓練室に足を運んだ。彼に掴まれた手首が、鈍く痛んだ。手首についた、藤山の手形。しばらくすると、手形は、その形のまま痣になった。
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