罪と罰の天秤

一布

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第二章 金井秀人と四谷華

第二十二話② 正しいこととは何なのか(後編)

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「笹島の姉の事件ですか?」

 藤山は頷いた。

「そう。神坂は、咲花君のお姉さんを殺した犯人の一人なんだよ。殺した、なんて生易しいものじゃない、拷問殺人と言える事件だよね」

 今でも語り草になっている、最悪の事件。とはいえ亜紀斗は、犯人の名前など知らなかった。事件当時の亜紀斗はまだ幼く、週刊誌やネットなどは見ていない。それなのにどうして、神坂洋という名前に聞き覚えがあったのか。それも、養子縁組後の犯人の名前を。

「亜紀斗君。君、ニュースとかは見る?」

 亜紀斗は首を横に振った。

「いえ。せいぜい、朝の番組で、天気予報を確認するついでに流し見する程度です」
「やっぱりねぇ」

 藤山の意図が見えない。彼はどうして、咲花の姉の話を始めたのか。どうして、咲花の姉を殺した犯人の話を始めたのか。意図は何なのか。

 じれったくなって、亜紀斗は、藤山の方に身を乗り出した。

「結局、何があったんですか? 笹島がまた犯人を殺したことと、神坂と、何の関係があるんですか?」

 咲花は確かに、姉の事件をキッカケに犯人殺しを始めた。でも、一度はやめたのだ。それを再開する理由は何なのか。

 亜紀斗の胸から、嫌な予感は消えない。それどころか、大きくなってゆく。

 藤山が、答えを口にした。

「神坂は、また罪を犯したんだよ。しかも、監禁暴行罪。咲花君のお姉さんを殺したときと同じようにね。まあ、殺してはいないんだけど」
「!」

 亜紀斗は目を見開いた。頭を強烈に殴られたような衝撃を受けた。一瞬だが、グニャリと景色が歪んで見えた。

 咲花の姉を殺した犯人達。あまりに凄惨で残酷な事件を起こした、犯人達。彼等は、国中から批難された。未成年にも関わらず名前を晒された。

 それでも、生き直すチャンスがあった。服役後は、支援者に養子縁組までしてもらい、名前を変えた。償う機会を与えられた。

 それなのに、また罪を犯した。しかも、殺していないとはいえ、咲花の姉と同じように被害者を監禁し、暴行を加えた。

 償いなど縁遠く、反省など欠片も見えない犯罪者。

 神坂の再犯を知ったとき、咲花は、どんな気分だったのだろうか。彼女の気持ちなど、亜紀斗には分からない。分かるはずがない。自分には、大切な人が無惨に殺された経験などないのだから。

 けれど、想像するくらいはできる。

 どうしようもない怒りに震えたはずだ。堪え切れない悔しさに、唇を噛んだだろう。姉の死が何の教訓にもなっていないことに、虚しさを禁じ得なかったのではないか。

 何より、絶望したはずだ。姉は地獄の中で殺されたのに、姉を殺した奴等は、のうのうと生きている。生きて、また平気な顔で他人を傷付けている。国民を守るはずの司法は、それでも奴等を生かす。奴等が出所したら、また犠牲者が出るかも知れないのに。

 亜紀斗の頭の中に、ひとつの言葉が浮かんだ。咲花の姉の死を表す言葉。犯人の再犯によって明確になった、彼女の死の意味。

『無駄死に』

 咲花も、亜紀斗と同じことを考えたのではないか。

 だから彼女は、今回、犯人を殺した。単独犯であり、動機の聴取などが必要だったのに。そんなことなどどうでもいいというように、殺した。

「ねえ、亜紀斗君」

 胡座をかきながら、藤山は、両肘を太股に乗せた。そのまま両手を組んだ。口元を隠すように。

 彼の目は、じっと亜紀斗を見ている。じっと見て、問いかけてくる。普段の胡散臭い様子など、微塵もなく。

「咲花君の行為は、確かに行き過ぎてると思うよ。でもね、同時に思うんだ。人が社会をつくり、社会の中で生きる生物なら、社会の害になる人間は死ぬべきだって」

 冷たく切り捨てる言葉。その声も響きも、いつもの藤山ではなかった。亜紀斗を見る視線は、恐ろしく鋭い。咲花のような、冷たく凍るような鋭さとは違う。焼き切られそうなほど熱い鋭さ。

「亜紀斗君が一生懸命やってることは、僕も知ってるよ。それについては、お世辞抜きに素晴しいと思う。事実として君は、武力行使もせずに犯人を投降させたこともある。犯罪者を完全に更生させたこともある。気遣いでもでもなく、本当に賞賛されるべきことだよ」

 藤山の言葉に、嘘は感じられない。彼の言葉が本心だと証明する方法など、亜紀斗にはないが。ただ、本能的に、本心を口にしていると感じる。亜紀斗を肯定する言葉も、否定する言葉も。

「ただ、ね。実のところ、僕は、死刑賛成派なんだよ。さっきも言った通り、死ぬべき人間というのは、確実に存在する。君も――死ぬべきとまでは思っていなくても――心当たりがあるんじゃないのかい? どうやっても更生なんて期待できない犯罪者に」
「……」

 図星だった。

 亜紀斗は、何人もの犯罪者と、時間の許す限り、できるだけ交流した。罪について語り、償いについて諭した。自分の荒れた過去も、洗いざらい伝えた。なんなら、留置所でオナニーをしようとしたことも話していた。

 では、亜紀斗が関わった犯罪者全員が、償うために行動しているか。何かを作り出すために生きてるか。自分の罪と向き合い、罪の重さを実感しているか。

 そんなことはない。

 出所後、何の音沙汰もない者もいる。被害者への賠償から逃れるために、行方をくらませた者もいる。裁判の場でのみ反省の言葉を口にし、判決が出ると被害者を貶めた者もいる。

 亜紀斗にとって、残酷過ぎる現実。心が折れても不思議ではない真実。

 それでも亜紀斗の心が折れなかったのは、自分を支えてくれた人達がいるからだ。亡くしてしまった人達。先生。元婚約者。

 二人の死を背負って生きているから、折れるわけにはいかなかった。

 折れるわけにはいかないが、どうしたらいいのかも分からない。

 自分はただ、先生の背中を追って、馬鹿みたいに信念を唱えることしかできない。

「ねえ、亜紀斗君」

 藤山の目は変わらない。彼らしくない、鋭く熱い目付き。

「正しいことって、何なんだろうね。何をどうすれば、正しいことができるんだろうね」

 答えることができない。亜紀斗は、口を動かすことさえできなかった。

 藤山は、組んでいた両手を解いた。「よいしょ」と言って、立ち上がった。

 立ち上がった彼を、亜紀斗は、座ったまま目で追った。いつの間にか、いつもの胡散臭い表情に戻っていた。

「でも、まあ、とりあえず。咲花君と仲良くしろとは言わないけど、喧嘩ばかりなのも困るんだよねぇ。あと、喧嘩するなら、せめて場所は考えてねぇ」

 口調までいつもと同じに戻っていた。

「じゃあ、これで面談は終わりだから。残ってる仕事、頑張ってねぇ」

 言って、藤山は、訓練室から出て行った。

 亜紀斗は、自分の目元を押さえた。

 大切な人を立て続けに失ってから、がむしゃらに生きてきた。二人に報いるために、ただ必死だった。

 でも、そんな生き方が正しかったのかと聞かれたら、正しいとは答えられない。

 声に出さず、亜紀斗は呟いた。

 ――会いたいなぁ。

 今はもういない二人に。彼等に聞いてみたい。正しいこととは何なのか。自分はこれから、どうすればいいのか。

 亜紀斗は、自分を馬鹿だと思っている。警察官になってからも、必要な勉強はしてきた。それでも、本質的には馬鹿だと思っている。

 馬鹿で、情けない男。自分で答えを出せなくなって、誰かに頼りたいと思っている。

 昔頼っていた二人は、もうこの世にはいない。
 会うことはもちろん、頼ることもできない。

 次に亜紀斗の頭に浮かんだのは、麻衣だった。信念が揺らぎ、崩れ落ちそうになった自分を救ってくれた人。今の恋人。

 ――俺って、クソ野郎だな。

 自虐の言葉だけが、胸に浮かぶ。

 麻衣のことは好きだ。その気持ちに嘘偽りはない。元婚約者を亡くしてから初めて好きになって、心を許せた人。

 そんな麻衣に、今、寄り掛かりたくてたまらない。愛情からではなく、ただ助けて欲しくて。どうしていいか、分からなくて。

 麻衣に会いたい。

 会いたいのに、亜紀斗は、しばらくこの場から動けなかった。
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