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第三章 罪の重さを計るものは
第一話① 再会と誘惑(前編)
しおりを挟む十二月も中旬になった。
道には雪が降り積もり、歩道のアスファルトをすっかり隠している。
午後七時半。
秀人は、古びたアパートの前に立っていた。三階建てのアパート。それほど広くない敷地に、各階四つの部屋がある。その外観から察するに、各部屋の間取りは、一Kか一DKといったところか。
アパートやマンション、一軒家の密集地。住宅街。すぐ近くには、ドラッグストアがある。
今日は冷え込みが厳しかった。今の気温はマイナス五度くらいか。
空が曇っている。もうすぐ雪が降るだろう。
秀人は、もう一時間くらい人を待っていた。といっても、待ち合わせをしているのではない。待ち伏せをしているのだ。彼女の定時は過ぎているはずだが、仕事が長引いているのだろうか。
少し風が吹いてきた。
寒さに、秀人は体を震わせた。保温性が高いコートを着ているが、この季節は、どんな格好をしても寒い。
黒いコートに、黒い手袋。コートの中では、ウエストポーチを肩掛けにしている。
秀人は、手袋をした手をコートのポケットに突っ込んだ。身を縮めて、寒さを堪える。
アパートの前には、片道一車線の細い道路が走っている。人通りは、まったくと言っていいほどない。
スマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。午後八時になっていた。もしかしたら、もう少し時間がかかるかも知れない。手袋を脱ぎ、スマートフォンの画面をタップする。あんまり遅くなると、華が心配するだろう。もしくは、寂しがるか。連絡しておかないと。
ディスプレイに華の携帯番号を表示させたところで、秀人の指が止った。
待っていた人物が、帰ってきた。
秀人はスマートフォンをポケットに戻した。手袋を履き、待っていた人物に対して手を振る。親しげに。
彼女は――咲花は、有料のビニール袋を持っていた。近くのドラッグストアで、買い物でもしてきたのだろう。その袋を、ドサリと落とした。目を見開いて、秀人を見ている。驚愕の表情。
秀人は、咲花に向って歩き出した。一歩、踏み出す。
秀人と咲花の距離は、約七メートル。
買い物袋を落としてから、わずか一秒弱。咲花が構えた。驚きながらもすぐに戦闘態勢に入れるのは、流石だ。
咲花が弾丸を放ってきた。
あっさりと防御膜で防ぐと、秀人は、パタパタと手を振った。
「待ってよ、咲花。こんなところで危ないって」
住宅街で秀人と咲花が戦ったら、確実に、周辺の民家に被害が出る。
「別に戦いに来たわけじゃないんだから」
言いながら、ゆっくりと咲花に近付く。
咲花は警戒を解いていなかった。とはいえ、秀人の言うことも一理あると考えたのだろう。こんなところで戦ったら、無関係な人や家に被害が出る。
「今日はね、咲花と少し話しに来たんだ。危害を加える気はない。それに、咲花一人じゃ俺を捕まえるなんて無理だから、戦うだけ無駄だろ?」
咲花は、複雑な表情を見せていた。疑いと、絶望と、苛立ちが混じった表情。彼女一人では、秀人を捕らえることなどできない。その言葉が腹立たしかったのだろう。事実だけに、なおさら。
秀人は、咲花の間近まで来た。彼女が落とした買い物袋を拾い上げた。冷凍食品が数個入っている。夕食だろう。
「はい」
秀人が買い物袋を差し出すと、咲花は、舌打ちしながら受け取った。こちらを睨んでくる目には、明らかな殺気が混じっている。
「……で、話って?」
「まあ、色々」
咲花の殺気を受け流すように、秀人は微笑んで見せた。
「とりあえず、家に上げてくれると嬉しいかな。凄く寒いんだよね」
咲花の表情が変わった。殺気が混じりながらも、挑発的に笑った。
「女の一人暮しの家に上がりたがるなんて、秀人さんも、案外、俗物的なんだ」
「まあ、咲花相手にそんな雰囲気になれるなら、儲けものだけどね。でも、無理だろ?」
「秀人さんがその気になったら抵抗しようがないから、大人しく犯されてあげるけど?」
「うーん」
秀人は口元に手を当てた。力ずく、というのは好みではない。
「残念だけど、無理矢理ってのは趣味じゃないんだ。俺は、咲花のお姉さんを殺した奴等とは違う。俺の家族を殺した奴等とも違う」
咲花の顔から笑みが消えた。
構わず、秀人は続けた。
「ね? 家に上げてよ。咲花にとっても悪い話じゃないから。それに、俺がその気になったら、無理矢理家に上がり込むこともできる。咲花を戦闘不能にして、淡々と話して聞かせることもできる」
「無理矢理犯すこともできる?」
「だから、それは趣味じゃないって。俺が言いたいのは、平和的にいこう、ってこと。どんな内容でも、話すだけなら平和だろ?」
疑いの目で秀人を一瞥した後、咲花は、ポケットから鍵を取り出した。自宅の鍵。ついて来い、と顎でジェスチャーをした。そのまま、自宅のアパートに足を運ぶ。
秀人は、彼女の後ろについていった。
アパートの一階。咲花は自宅のドアを開けた。玄関から短い廊下があり、リビングに繋がるドアがある。廊下の左右に、キッチンや風呂、トイレがあった。一Kの間取り。
秀人は玄関に入ると、ドアを閉め、鍵をかけた。
玄関も寒い。息が白い。
「この家、寒くない? もしかして、室内でも温度がマイナスになったりする?」
「かもね。何日か家を空けたら、トイレの水が凍ることもあるし」
「よくこんなところで生活できるね」
「文句があるなら帰ったら? 私一人じゃ、秀人さんを捕まえるなんて無理だし」
先ほどの秀人の言葉を、咲花は、皮肉げに繰り返した。
咲花は賢い。自分の実力を正確に理解し、可能なことと不可能なことを的確に判断できる。状況に応じて、最適な行動ができる。
もしこの場にいるのが亜紀斗なら、実力差も考えずに秀人を捕まえようとしただろう。彼はそういう男だと、秀人はすでに知っている。情報を掴んでいる。
咲花はリビングのドアを開け、室内に入った。
秀人も、咲花に続いてリビングに入った。
咲花の家には、生活感がほとんどなかった。十畳ほどの広さのリビング。窓際のベッド。壁際のテレビ。数十冊の本が、テレビの隣りで、床の上に山積みになっている。部屋の隅にストーブがあった。
「ストーブ点けてくれると嬉しいな。咲花を待ってる間、本当に寒くて寒くて」
「何? 寒がりなの?」
言いつつ、咲花はストーブのスイッチを押した。ピッという音が鳴り、しばらくすると温風が出てきた。設定温度は二十度になっている。室内の温度は、三度と表示されていた。
「咲花は寒くないの?」
「寒いよ。でも、もう慣れた」
咲花はベッドまで足を運んだ。買い物袋を床に置き、ベッドに腰を下ろした。
「で、話って?」
「その前に、夕食は食べないの?」
「秀人さんが帰ったら食べるよ。まあ、私に何もせずに帰ってくれるなら、だけど」
「だから、何もしないって」
秀人は咲花に近付き、床に腰を下ろした。あぐら。すぐに尻が冷たくなった。室温だけではなく、床も冷え切っている。
「今日は、平和的に話をしに来ただけだよ」
「じゃあ、早く話して」
ベッドの上から、咲花が秀人を見下ろしている。彼女の瞳に宿る、少なくない緊張。警戒。戦って勝てないと分かっていても、襲われたら抵抗するつもりなのだ。
秀人には、咲花と戦うつもりなど微塵もないのだが。
秀人は自分の右膝に右肘を乗せ、頬杖を突いた。口の端を上げて見せる。どこか挑発的に。
「警察庁長官が辞職したね。児童買春だって。馬鹿だよね」
「……そうだね」
「ただ、罰金だけで済んだらしいね。地位も名誉も職も失ったみたいだけど」
「知ってる」
「そりゃあ、まあ、咲花は知ってるだろうね」
秀人は、口元の笑みを濃くした。
「咲花の犯人殺しを握り潰してた人なんだから」
「……」
咲花の様子は、秀人にとって予想外だった。ほとんど表情が変わらない。
「あれ? 驚かないの? なんで知ってるんだ、みたいに」
「別に」
咲花の反応は冷淡だった。
「秀人さんなら、それくらい知ってそうだし。もしくは、私が関与した事件から推測できた、か。どっちにしても、そんなに驚くことじゃない。隊長にも指摘されたからね」
「ふーん。藤山さんは元気?」
「普通じゃない? 何考えてるか分からないし、喋り方とかいちいち苛つくし、あの薄ら笑いを見てると殴りたくなるし」
秀人の記憶にある藤山とは、違う藤山。昔の熱血漢だった彼は、もういないのだろう。
「で、わざわざ長官の――元長官の話をしに来たの?」
「まさか。これは、ただの前振り」
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