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愛の所在
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一切の躊躇いもなく、彼はあっという間も無く葬ってしまった。屋敷に来たばかりの時、迷わないようにと屋敷内を案内し、時には他愛のない話題をふってくれた優しいあの人。左の足が義足のその人は、襲撃を受けた時に負ったのだという。金と暴力が支配する魔窟には似つかわしくない暖かさで、たまにくれるクッキーが美味しくて、どこの店かと聞いた自分に手作りだからどこにも無いよと笑っていた。
「またあげるから、いつでも声をかけて」
いつの間にか屋敷に来る時は、家主の挨拶もそこそこに真っ先にその人を探すようになっていた。それなのに。彼は、あの狂気の男は切り捨てた。自分と話し込んでいた、ただそれだけの理由で。
「夜空さん、出かけよ」
人を屠ったばかりその手はたった今、その手を汚したばかりだというのに返り血の一滴も浴びず、真っ白な手袋が嵌っていた。
「甘い物が食べたいね、前はパフェだったらは今日は和菓子かな。漉し餡が好きなんだよね」
無邪気にそう笑う彼の視界に既にあの人は映っていなかった。まだ、息が。確かめようと床に崩れた血塗れの体に泣きそうになりながら手を伸ばす。ここは風仁一派の邸宅。美しい闇医者も確かここに拠点をおいていたはずだ。息があれば何とか。けれど、触れる寸前で手首を掴まれた。あの人は片足で床に縫い付けられた。
「足をどけて、春嵐さん」
「何すんの」
低い声。無表情と同じく冷めたその声。
「どけて、春嵐さん!」
「手が汚れる。これから俺と出かけるのに。それに夜空さん汚れたら怒られるの俺らなんだよ」
「いいから、どけてっ」
早くしないと、手遅れに。焦るばかりに声が大きくなった。掴まれている手とは逆の手をかけて、爪をたてる。皮ごしでは彼はきっと何の痛みも感じない。ガリガリと懸命に皮に爪をたてる夜空をしばらく見下ろしている気配がして、怖いくらい無言だった。
「春嵐さん、お願い、死んじゃう」
そこで初めて彼の動く気配がした。ゆっくり首を巡らせて、自分が切り捨てた人間を見やる。一瞬の間。
「もう死んでるよ」
悪魔はやはり僅かでも希望等というささやかな光すら告げる事は無い。常に絶望しか運んではこないのだ。
「……っ」
ひどい。ひどい。その瞬間、頭が真っ白になり、衝動的に鞄に手を突っ込み、ナイフを取り出すなり手を踏む高価な靴へと刃を振り下ろした。
「何がしてえの」
ヒュッと踏んでいた足が動いて、易々と爪先でナイフを弾き飛ばされた。彼に敵うなんて思ってはいない。けれど。カランカランと転がった短刀に、自由になった手を握り締める。
「大嫌い」
それだけ放って駆け出した。
「ちょっと兄さん。夜空さん来なかった?」
ノックも無しにバタンと煩く開いた扉にうんざりと視線を向ける。自分に対してこんな無作法な行動に出るのは、気狂いの義弟とバケモノ上司くらいだ。
遠くから一つ一つ扉の開く音がしていたので順番に行けばすぐここに辿り着くのだろうと想像していたが、相も変わらず無邪気な男は此方の命令に従いはするが服従はしない。組織や上層部に忠誠を誓うわけでもなく、大人になるわけでもなく、肉の器ばかりが立派に成長し、そのアンバランスさは時にどこまでこの男が正気で正常で通常運転なのか、或いは既に手遅れで男はとっくに精神が破綻し崩壊してしまっているのではないかと思う。今も無邪気な笑みのままに、今更ながら開いた扉をガンガン叩いている。
「ねえ兄さん、無視すんなよ」
珍しく私服、けれど仕事着と変わらない、さして。そんなに真っ黒じゃ。なぜか部屋の中なのに厚手の手袋を嵌めている、訳の解らない行動とセンスはそのままスルーした。昏い深遠の淵に薄ら笑いで立つこの男の思考は読めない。読む必要もない。興味はないから。
「……何だ」
「いないの?」
そのまま部屋の中に踏み入って、キョロキョロと首を巡らせる仕草をデスクに肘をついたまま眺める。
「見た通りだ」
「……ふーん」
唇を尖らせて、つまらなそうにため息をつく。
「じゃあさー、見つけたら捕まえといてくれない?」
「何故」
「遊んであげたいから」
ニィと子供の笑み。獲物を手で弄り回しながら、獰猛な舌舐めずり。溜め息混じりに舌打ちをした。
「やめろ、命令だ」
「何で」
「手を出すな、誰が所有しているか解っているのか」
「解ってるけどさぁ、ケチくせえ事言うなよ」
歩み寄ってくるなり、ガツリとデスクに深く刺されたナイフの尖端はきっと下に突き抜けた。この悪魔に魅入られた刃は鉄塊さえも容易く切り刻む。デスクの下……わずかなスペースでクッと息を飲む気配。察するに、ナイフは耳の真横に突き抜けたらしい。黙ってろという意味合いをかねて、今にも悲鳴をあげそうな彼女の膝を爪先でつついた。
「――いいだろ?」
至近距離で覗き込んでくる。いっそ、これから接吻でも交わしそうなその物騒な距離。
「気色悪い」
「可愛い弟にはお裾分けしてくれないの」
「断る」
脅しをかけても、獰猛な笑みはゆるがない。
「は、」
ニィと上がったままの口角に、風仁も僅かに唇をあげて、それからふいに足をぎゅっと握られる。脆弱なのに、確固たる意思を秘めた挙動に気が削がれる。ああ、そうだった。
「……出ていけ。傷をつけないと約束するなら、見かけた時に知らせてやってもいい」
引いた異父兄に若干驚いたように小首を傾げた後、春嵐は不服そうに肩を反らせたが妥協ギリギリのラインだ、お互いに。溜め息の後、了承の意を込めて踵を返した。
「あー、ちなみにコレ終わったから」
一枚の書類を投げてきた。風仁が宙でそれを掴む。ああ、この件かとチラリと書面を眺めた。
「後始末は」
「知らない」
「そろそろ片付けも覚えろ」
「黍嵐にでもやらしとけばいいでしょ」
扉に手をかけて抜け出る寸前、首だけを振り返らせる。狂気の瞳が僅かに垣間見えた。こいつ。なんて眼をしやがる。
「兄さん、女の趣味変わったみたいだね?」
歪んだ口角と視線を僅かに残し、猫のように廊下に身を滑り込ませて弟は扉を閉じた。
コツコツコツと指で机を叩いて、よこされた書類を眺める。写真つきのその報告書。この屋敷に忍び込んでいたスパイ、見る限りは温厚そうなツラだが中身はクズだ。この男の始末は春嵐に任せたはずだったのだが、それが先程終わったらしい。今回は想定より早かった。
義足の男の履歴を眺めてみるが自分の入っている組織の情報を横流し、露見する手前でまた別の組織に逃れて転々としているような、嘘と偽りに固められたサッピンだ。足は昔裏切りの代償としてやられたものらしいが、その時に綺麗さっぱり始末しなかったのが一時の情けか恥を晒させる為か。どちらにしろ余計な手間がかかった。役に立たないクズは所詮いつまでたってもクズだ。上司も態々こんな男を寄越してくるとは。さっさと処分してしまいたかったのではないかと思う。
デスクに突き立てられたナイフの滑らかな柄に指を這わせる。わざと計算された効果的なその位置と深さ。相手を怯えさせるには十分だ。
「とっくに貴女の居場所は割れてる」
「……そうですね」
足元から、小さな小さな声。
「それでも。今は、あの人の顔、見たくないんです」
デスク下の僅かなスペースに身を縮める女は小さなその世界で顔を埋めて蹲っていた。世間知らずで、上司が余計な事をしなければ、薄氷の幸福で生きていた女。其処から出て顔をあげ、春嵐の手元の書類を覗き込めば、知る事のできた真実。風仁は報告書をグシャリと丸めた。ついでに焼き捨てる。
「出てきていい」
椅子を引き、下を覗き込んで手を差し出した。夜空はぽってりとした唇を噛み締め、おずおずと見上げてくる。ずいぶん簡単だった。全ては巧妙なタイミング、計算されつくした。
「何も心配いらない」
細い手が戸惑うように伸ばされて、それからこわごわと風仁の手を掴んでくる。あまりの簡単さに声をあげて笑い出したいのを堪えて、小さな躰を引き上げ膝にのせた。何も心配はいらないのだと背を撫でてやれば、ビクリと一瞬跳ねるとやがてぐったりと脱力して風仁の胸に寄りかかってきた。
彼女は傷ついている。全て、予定通りだった、何の問題もない。後は、彼女の望むもの全てを与えてやればすむ話だ。彼女から得たものを与え返したら、上手くいく。
「またあげるから、いつでも声をかけて」
いつの間にか屋敷に来る時は、家主の挨拶もそこそこに真っ先にその人を探すようになっていた。それなのに。彼は、あの狂気の男は切り捨てた。自分と話し込んでいた、ただそれだけの理由で。
「夜空さん、出かけよ」
人を屠ったばかりその手はたった今、その手を汚したばかりだというのに返り血の一滴も浴びず、真っ白な手袋が嵌っていた。
「甘い物が食べたいね、前はパフェだったらは今日は和菓子かな。漉し餡が好きなんだよね」
無邪気にそう笑う彼の視界に既にあの人は映っていなかった。まだ、息が。確かめようと床に崩れた血塗れの体に泣きそうになりながら手を伸ばす。ここは風仁一派の邸宅。美しい闇医者も確かここに拠点をおいていたはずだ。息があれば何とか。けれど、触れる寸前で手首を掴まれた。あの人は片足で床に縫い付けられた。
「足をどけて、春嵐さん」
「何すんの」
低い声。無表情と同じく冷めたその声。
「どけて、春嵐さん!」
「手が汚れる。これから俺と出かけるのに。それに夜空さん汚れたら怒られるの俺らなんだよ」
「いいから、どけてっ」
早くしないと、手遅れに。焦るばかりに声が大きくなった。掴まれている手とは逆の手をかけて、爪をたてる。皮ごしでは彼はきっと何の痛みも感じない。ガリガリと懸命に皮に爪をたてる夜空をしばらく見下ろしている気配がして、怖いくらい無言だった。
「春嵐さん、お願い、死んじゃう」
そこで初めて彼の動く気配がした。ゆっくり首を巡らせて、自分が切り捨てた人間を見やる。一瞬の間。
「もう死んでるよ」
悪魔はやはり僅かでも希望等というささやかな光すら告げる事は無い。常に絶望しか運んではこないのだ。
「……っ」
ひどい。ひどい。その瞬間、頭が真っ白になり、衝動的に鞄に手を突っ込み、ナイフを取り出すなり手を踏む高価な靴へと刃を振り下ろした。
「何がしてえの」
ヒュッと踏んでいた足が動いて、易々と爪先でナイフを弾き飛ばされた。彼に敵うなんて思ってはいない。けれど。カランカランと転がった短刀に、自由になった手を握り締める。
「大嫌い」
それだけ放って駆け出した。
「ちょっと兄さん。夜空さん来なかった?」
ノックも無しにバタンと煩く開いた扉にうんざりと視線を向ける。自分に対してこんな無作法な行動に出るのは、気狂いの義弟とバケモノ上司くらいだ。
遠くから一つ一つ扉の開く音がしていたので順番に行けばすぐここに辿り着くのだろうと想像していたが、相も変わらず無邪気な男は此方の命令に従いはするが服従はしない。組織や上層部に忠誠を誓うわけでもなく、大人になるわけでもなく、肉の器ばかりが立派に成長し、そのアンバランスさは時にどこまでこの男が正気で正常で通常運転なのか、或いは既に手遅れで男はとっくに精神が破綻し崩壊してしまっているのではないかと思う。今も無邪気な笑みのままに、今更ながら開いた扉をガンガン叩いている。
「ねえ兄さん、無視すんなよ」
珍しく私服、けれど仕事着と変わらない、さして。そんなに真っ黒じゃ。なぜか部屋の中なのに厚手の手袋を嵌めている、訳の解らない行動とセンスはそのままスルーした。昏い深遠の淵に薄ら笑いで立つこの男の思考は読めない。読む必要もない。興味はないから。
「……何だ」
「いないの?」
そのまま部屋の中に踏み入って、キョロキョロと首を巡らせる仕草をデスクに肘をついたまま眺める。
「見た通りだ」
「……ふーん」
唇を尖らせて、つまらなそうにため息をつく。
「じゃあさー、見つけたら捕まえといてくれない?」
「何故」
「遊んであげたいから」
ニィと子供の笑み。獲物を手で弄り回しながら、獰猛な舌舐めずり。溜め息混じりに舌打ちをした。
「やめろ、命令だ」
「何で」
「手を出すな、誰が所有しているか解っているのか」
「解ってるけどさぁ、ケチくせえ事言うなよ」
歩み寄ってくるなり、ガツリとデスクに深く刺されたナイフの尖端はきっと下に突き抜けた。この悪魔に魅入られた刃は鉄塊さえも容易く切り刻む。デスクの下……わずかなスペースでクッと息を飲む気配。察するに、ナイフは耳の真横に突き抜けたらしい。黙ってろという意味合いをかねて、今にも悲鳴をあげそうな彼女の膝を爪先でつついた。
「――いいだろ?」
至近距離で覗き込んでくる。いっそ、これから接吻でも交わしそうなその物騒な距離。
「気色悪い」
「可愛い弟にはお裾分けしてくれないの」
「断る」
脅しをかけても、獰猛な笑みはゆるがない。
「は、」
ニィと上がったままの口角に、風仁も僅かに唇をあげて、それからふいに足をぎゅっと握られる。脆弱なのに、確固たる意思を秘めた挙動に気が削がれる。ああ、そうだった。
「……出ていけ。傷をつけないと約束するなら、見かけた時に知らせてやってもいい」
引いた異父兄に若干驚いたように小首を傾げた後、春嵐は不服そうに肩を反らせたが妥協ギリギリのラインだ、お互いに。溜め息の後、了承の意を込めて踵を返した。
「あー、ちなみにコレ終わったから」
一枚の書類を投げてきた。風仁が宙でそれを掴む。ああ、この件かとチラリと書面を眺めた。
「後始末は」
「知らない」
「そろそろ片付けも覚えろ」
「黍嵐にでもやらしとけばいいでしょ」
扉に手をかけて抜け出る寸前、首だけを振り返らせる。狂気の瞳が僅かに垣間見えた。こいつ。なんて眼をしやがる。
「兄さん、女の趣味変わったみたいだね?」
歪んだ口角と視線を僅かに残し、猫のように廊下に身を滑り込ませて弟は扉を閉じた。
コツコツコツと指で机を叩いて、よこされた書類を眺める。写真つきのその報告書。この屋敷に忍び込んでいたスパイ、見る限りは温厚そうなツラだが中身はクズだ。この男の始末は春嵐に任せたはずだったのだが、それが先程終わったらしい。今回は想定より早かった。
義足の男の履歴を眺めてみるが自分の入っている組織の情報を横流し、露見する手前でまた別の組織に逃れて転々としているような、嘘と偽りに固められたサッピンだ。足は昔裏切りの代償としてやられたものらしいが、その時に綺麗さっぱり始末しなかったのが一時の情けか恥を晒させる為か。どちらにしろ余計な手間がかかった。役に立たないクズは所詮いつまでたってもクズだ。上司も態々こんな男を寄越してくるとは。さっさと処分してしまいたかったのではないかと思う。
デスクに突き立てられたナイフの滑らかな柄に指を這わせる。わざと計算された効果的なその位置と深さ。相手を怯えさせるには十分だ。
「とっくに貴女の居場所は割れてる」
「……そうですね」
足元から、小さな小さな声。
「それでも。今は、あの人の顔、見たくないんです」
デスク下の僅かなスペースに身を縮める女は小さなその世界で顔を埋めて蹲っていた。世間知らずで、上司が余計な事をしなければ、薄氷の幸福で生きていた女。其処から出て顔をあげ、春嵐の手元の書類を覗き込めば、知る事のできた真実。風仁は報告書をグシャリと丸めた。ついでに焼き捨てる。
「出てきていい」
椅子を引き、下を覗き込んで手を差し出した。夜空はぽってりとした唇を噛み締め、おずおずと見上げてくる。ずいぶん簡単だった。全ては巧妙なタイミング、計算されつくした。
「何も心配いらない」
細い手が戸惑うように伸ばされて、それからこわごわと風仁の手を掴んでくる。あまりの簡単さに声をあげて笑い出したいのを堪えて、小さな躰を引き上げ膝にのせた。何も心配はいらないのだと背を撫でてやれば、ビクリと一瞬跳ねるとやがてぐったりと脱力して風仁の胸に寄りかかってきた。
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