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勉強(子世代)
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叶いようのない事を、やっぱり望んでしまう。
妻の忘れ形見を引き取ってきたばかりの頃の話だ。
「あ、あー、あああ」
辞書から目が離せないハスミが鹿爪らしい顔付きで細い声を出している。
『発音記号がよく分からないんです』
そう言って、淡い桃色の唇と舌をあれこれ動かして発声練習をしているのだが、リンドウの耳にはその差異がうまく伝わってこない。
「こう発音するの」
聞きかねてたまに手本を見せてやる。ハスミは真面目に頷き、やはり、うまくない発音を繰り返す。はっきり言って下手糞だが、聞いているうちに慣れてきて、これはこれで味あるやもと考えるまでになってしまった。それに彼女が非の打ち所のない発音で多言語を話す日が来たら、きっと物寂しさを覚えてしまう事だろう。
ふと気づくと、ハスミのたどたどしい発声練習は聞こえなくなっていた。今度は熱心にノートに何かを書きつけている。話すよりも書く方が得意なのか、文章の上達は発音や会話のそれよりもずっと早かった。
几帳面な筆記体がこそばゆい音を立てて紙面を埋めてゆく。字だけを取りあげるなら、彼女の母よりよっぽど綺麗だった。妻の独特の崩し字はほとんど判読不能だったからだ。
『誰かに読んでもらう時はちゃんと書くので大丈夫です』
何を言ってもあっけらかんに言い返していたな。リンドウはソファに身を沈めて目を閉じる。
そうだ。昔は母国語以外の言葉に疎い妻にも同じようにしてやった。差し向かいで字を教え、時おり和訳の付いていない本を読んでやり、話し方を教授してやった。子供の方は家庭教師に丸投げしていたが。
「うーん……」
「あんまり考えこんでも仕方がないでしょ」
ハスミはふいと顔を上げて、困ったように微笑んだ。漆黒の瞳が恥ずかしそうに緩む。まだまだあどけない彼女の面差しに、当惑も憶える。思わず浮かんでしまった馬鹿な感情を振り払って、姿勢を正した。
「やっぱり、数をこなさなければどうにもなりませんか」
「習うより慣れろって事よ。ほら、英語で言ってみなさい」
「……Practice makes perfect?」
「That's right!」
二ッと笑ってやると、不意に試された事を拗ねるような、それでいて今にも笑み崩れそうな顔になって、ハスミは再びノートに視線を落とした。照れ臭そうに文章に眼を走らせている仕草が愛らしい。
ゆるやかに流れてゆくこの一時を、砂時計のように思う。
妻は薄青のガラスに白銀の砂と数個の星を模したビーズが入った物を一等好んでいた。落ちきったものを幾度も逆様にして永久を数えられたらよいが、それは指の間をさらさらと零れ抜けてゆき、ついに再びこの手に戻る事はないのは知っている。
今亡き妻と過ごした歳月がそうであったように、今こうして、ハスミと共に居る時も。
全てが零れきってしまえば、自分はどうするのだろうと考える。
心を潤す温もりが消え去る日が来たら、またあの時のように暗闇と絶望が詰め込まれた部屋で、空っぽの両手で壁を打ち据え、一頻り声を殺して泣くのだろうか。
妻の忘れ形見を引き取ってきたばかりの頃の話だ。
「あ、あー、あああ」
辞書から目が離せないハスミが鹿爪らしい顔付きで細い声を出している。
『発音記号がよく分からないんです』
そう言って、淡い桃色の唇と舌をあれこれ動かして発声練習をしているのだが、リンドウの耳にはその差異がうまく伝わってこない。
「こう発音するの」
聞きかねてたまに手本を見せてやる。ハスミは真面目に頷き、やはり、うまくない発音を繰り返す。はっきり言って下手糞だが、聞いているうちに慣れてきて、これはこれで味あるやもと考えるまでになってしまった。それに彼女が非の打ち所のない発音で多言語を話す日が来たら、きっと物寂しさを覚えてしまう事だろう。
ふと気づくと、ハスミのたどたどしい発声練習は聞こえなくなっていた。今度は熱心にノートに何かを書きつけている。話すよりも書く方が得意なのか、文章の上達は発音や会話のそれよりもずっと早かった。
几帳面な筆記体がこそばゆい音を立てて紙面を埋めてゆく。字だけを取りあげるなら、彼女の母よりよっぽど綺麗だった。妻の独特の崩し字はほとんど判読不能だったからだ。
『誰かに読んでもらう時はちゃんと書くので大丈夫です』
何を言ってもあっけらかんに言い返していたな。リンドウはソファに身を沈めて目を閉じる。
そうだ。昔は母国語以外の言葉に疎い妻にも同じようにしてやった。差し向かいで字を教え、時おり和訳の付いていない本を読んでやり、話し方を教授してやった。子供の方は家庭教師に丸投げしていたが。
「うーん……」
「あんまり考えこんでも仕方がないでしょ」
ハスミはふいと顔を上げて、困ったように微笑んだ。漆黒の瞳が恥ずかしそうに緩む。まだまだあどけない彼女の面差しに、当惑も憶える。思わず浮かんでしまった馬鹿な感情を振り払って、姿勢を正した。
「やっぱり、数をこなさなければどうにもなりませんか」
「習うより慣れろって事よ。ほら、英語で言ってみなさい」
「……Practice makes perfect?」
「That's right!」
二ッと笑ってやると、不意に試された事を拗ねるような、それでいて今にも笑み崩れそうな顔になって、ハスミは再びノートに視線を落とした。照れ臭そうに文章に眼を走らせている仕草が愛らしい。
ゆるやかに流れてゆくこの一時を、砂時計のように思う。
妻は薄青のガラスに白銀の砂と数個の星を模したビーズが入った物を一等好んでいた。落ちきったものを幾度も逆様にして永久を数えられたらよいが、それは指の間をさらさらと零れ抜けてゆき、ついに再びこの手に戻る事はないのは知っている。
今亡き妻と過ごした歳月がそうであったように、今こうして、ハスミと共に居る時も。
全てが零れきってしまえば、自分はどうするのだろうと考える。
心を潤す温もりが消え去る日が来たら、またあの時のように暗闇と絶望が詰め込まれた部屋で、空っぽの両手で壁を打ち据え、一頻り声を殺して泣くのだろうか。
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