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風車と瑠璃唐草
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陽炎春猫の唇は、さらさらしていて柔らかい。その感触を、神無月道耕は唇で受ける事はなかった。決して少なくはない回数、己の額で受け止めているように思う。
春猫の長い指が、静かに重く肩に置かれる。母親が我が子にするように、春猫は僅かに身を屈めて道耕の額に接吻づける。居た堪れないと思う程、居心地は悪くない。ただ身の置き場のない、手持ち無沙汰な感覚に囚われる。 心が燃えるような昂揚があるでもなく、かといって従順に己の唇で受け入れる程しおらしくもなれない。
幽かな反発とも抵抗ともとれない逡巡に、道耕は少しだけ視線を上げて春猫の耳元を見つめる。耳に下げたイヤリング。王冠の形をしたそれが銀色に輝いている。額に触れた温もりが、そうっと離れた。道耕の肩に手を置いたままの春猫が微笑むのが判る。唇へのキスをした後の、照れた様子はこの時にはない。 遅れて顔をあげた道耕と、春猫の視線が交わる。その唇と同様、柔らかく微笑む瞳に見えるのは、恋よりももっと深くて穏やかな何かだ。道耕は黙って視線を下げる。次に春猫が言う言葉はもう理解っている。
「道耕、今日もお前が好きだったぞ」
「はい」
囁きの声が告げ、道耕が受けると肩から重みが消える。途端に風の吹き抜ける感覚が肌を襲い、道耕は我知らず自分の腕を掴む。この手が掴みたいのは、もっと別のものだ。自覚していても手は伸ばせず、そして望む手が差し伸べられる事もない。 三分と少し遅れて、春猫が乗るバスがやって来た。少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。一歩離れた春猫は静かに道耕を見つめ、それから背を向けた。
「また明日な」
「お疲れ様です」
振り返り際の微笑。二年の付き合いで既に見慣れているはずなのに、美しいと思う。こんなに綺麗な人を見た事がない。この後の人生の中でどんなに美しい人を見たとしても、あれ程の深い感動を受け事はないと思う。 白い肌、金髪碧眼、長身痩躯、喋らなければまさに女王様と陰で揶揄されている事など、まるでとるに足りない。そんな言葉では彼女の側面さえも語る事など許されない。そう思った。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。昇降口に春猫が足を掛けて、一番後ろ席に座った。道耕が一歩下がると、乾いた空気の音と共に扉が閉まる。排ガスの匂いを撒き散らしながら離れていく。 それを心に留めながら、道耕は踵を返す。夕焼けが濃い。陽はじきに沈む。完全に日が落ちればもう少し過ごしやすくなるだろう。だが道耕が家に帰るまで夕日はしつこく頬や首筋をじりじりと焦がしてくる。 その赤から逃れるように、歩き出す自分の爪先を見つめる。
額への優しいキスよりも、もっと欲しいものがあるのに。温もりの消えた肩が普段より重く感じた。
春猫の長い指が、静かに重く肩に置かれる。母親が我が子にするように、春猫は僅かに身を屈めて道耕の額に接吻づける。居た堪れないと思う程、居心地は悪くない。ただ身の置き場のない、手持ち無沙汰な感覚に囚われる。 心が燃えるような昂揚があるでもなく、かといって従順に己の唇で受け入れる程しおらしくもなれない。
幽かな反発とも抵抗ともとれない逡巡に、道耕は少しだけ視線を上げて春猫の耳元を見つめる。耳に下げたイヤリング。王冠の形をしたそれが銀色に輝いている。額に触れた温もりが、そうっと離れた。道耕の肩に手を置いたままの春猫が微笑むのが判る。唇へのキスをした後の、照れた様子はこの時にはない。 遅れて顔をあげた道耕と、春猫の視線が交わる。その唇と同様、柔らかく微笑む瞳に見えるのは、恋よりももっと深くて穏やかな何かだ。道耕は黙って視線を下げる。次に春猫が言う言葉はもう理解っている。
「道耕、今日もお前が好きだったぞ」
「はい」
囁きの声が告げ、道耕が受けると肩から重みが消える。途端に風の吹き抜ける感覚が肌を襲い、道耕は我知らず自分の腕を掴む。この手が掴みたいのは、もっと別のものだ。自覚していても手は伸ばせず、そして望む手が差し伸べられる事もない。 三分と少し遅れて、春猫が乗るバスがやって来た。少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。一歩離れた春猫は静かに道耕を見つめ、それから背を向けた。
「また明日な」
「お疲れ様です」
振り返り際の微笑。二年の付き合いで既に見慣れているはずなのに、美しいと思う。こんなに綺麗な人を見た事がない。この後の人生の中でどんなに美しい人を見たとしても、あれ程の深い感動を受け事はないと思う。 白い肌、金髪碧眼、長身痩躯、喋らなければまさに女王様と陰で揶揄されている事など、まるでとるに足りない。そんな言葉では彼女の側面さえも語る事など許されない。そう思った。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。昇降口に春猫が足を掛けて、一番後ろ席に座った。道耕が一歩下がると、乾いた空気の音と共に扉が閉まる。排ガスの匂いを撒き散らしながら離れていく。 それを心に留めながら、道耕は踵を返す。夕焼けが濃い。陽はじきに沈む。完全に日が落ちればもう少し過ごしやすくなるだろう。だが道耕が家に帰るまで夕日はしつこく頬や首筋をじりじりと焦がしてくる。 その赤から逃れるように、歩き出す自分の爪先を見つめる。
額への優しいキスよりも、もっと欲しいものがあるのに。温もりの消えた肩が普段より重く感じた。
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