白黒リスタート(2/24更新)

狂言巡

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雨の帰り道

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 塾から出て、初めて雨が降っている事に気がついた。ついてないと純平は溜め息を吐いた。0%の天気予報に反して、空は大粒の涙を流していた。もちろん傘は持っていない。ぱちぱちと拍手のような音でアスファルトを打つ雨音に、疲れは一気に倍増した。
 こんな時、後ろから可愛い女子生徒がそっと傘を差し出してきて、よかったらなんて言って。いやいや悪いよとか言っちゃって。でもとかモジモジされて。だったらアイス奢らせてとかね。
 完全に妄想だ。虚しい。そもそも自分がトイレに籠っている間、生徒は全員帰ってしまった。置き傘とか気の利いた物は無い。ゴロゴロと時たま光る空を見上げて、目の前を横切った相合傘のカップルを見て、今こそ落ちてこい雷! なんて心で叫んだ。駅やバス停まで走ったところでびしょ濡れでは乗れない。いっそ歩いて帰ろうかと考えて、たまにはいいかと思う。運動不足だしな。
 意を決して雨の中を歩きだす。酸性雨では禿げないという一説を信じて、頭皮に感じる刺激を振り払った。携帯電話だけは守らねばと朝食と昼食を買った際のコンビニ袋に貴重品と一緒に入れて、鞄に詰める。雨は意外に強く、あっという間に全身を濡らした。目も開けていられないが、風がないので辛くはない。こんな天候ゆえに、人影は疎らだ。たまに傘をさした同世代とすれ違う。
 完全に日が落ちる前に帰らないと風邪をひくな……。そう思っても、既に時刻は六時半を回っていた。それでもまだ若干明るいのに夏の訪れが近いのを感じる。まあ、八時までに家に着こうなんて絶対に無理だから、風邪はほぼ確定だ。昔から雨に濡れるのに弱い。小学生の時なんか、この季節になるたびに夕立ちで風邪をひいて親に怒鳴られたものだ。置き傘を持ち歩け! 一度だって持たなかったけれど。

「ははっ」

 思わず柄でもない感傷に浸って、このまま帰っても、実家ではないので夕飯なんて出来てないのだろうなとため息を吐く。ギリギリを通った軽トラに勢いよく水をかけられて気分は更に萎えた。だいぶ人通りの少ない道までやって来て、純平は一度立ち止まった。静かで暗い、住宅街。癖で手首を見て、そういえば時計はビニールに入れて鞄の中だと思い出す。
 雨脚は弱まってきたが、躰の冷えは酷くなる一方だった。早く家に帰りたい。重くなる足取りを忘れようと、小さく歌を口遊む。この間テレビで見たアカペラだ。手や足を使い、雨の音まで再現していた。なかなか軽快な音楽で、一度聞いただけで一部覚えてしまった。
 そこだけをただ繰り返して歩く。歌は不思議だ。よく知りもしない歌を、延々と同じ部分を繰り返しているだけなのに気持ちはやや高揚する。頭の中では大合唱だ。そんなこんなでちょっと声が大きくなっていたらしい。

「―――」

 軽快なリズム。突然コーラスになった音楽に目を剥いて振り向く。あまりにも場違いというか、信じ難い存在がそこに立っていた。

「……黒猫さん」

 名前を呟くのがやっとの純平を、相変わらず何を考えているか解らない眼で見つめている。君も歌ってたんだと聞きたい言葉は口から出なかった。そういや一緒にテレビ見てたな。彼女はレインコートを着て、大きな黒い傘を差していた。部室に置き忘れていた、純平の傘だ。持ってきてくれたのか。その言葉も言えなかった。

「……ありがと」

 やっと、それだけ言えた。思わぬ状況に、気恥ずかしさと驚きで鼓動が速くなっている。もう傘なんか差したって手遅れな程に濡れてしまったし、あと十分くらい歩けば寮に着く。少年少女はただ見つめあった。こういう時、何故か気まずくなるのは純平だけだ。黒猫の表情は変わらないので、何を考えているのか判らない。今、自分はどんな顔を彼女に晒しているんだろう。
 正直言えば嬉しかった。名前の通り気まぐれな猫のような優しさはいつも不器用だ。それが面倒臭くて、可愛いと錯覚する事もある。純平はとにかく帰ろうと背を向ける。後ろでバサッと音がした。ついで奏でられる旋律。テレビで見た時そのままの音楽が雨粒の音と一緒に聞こえてくる。思わず振り返りそうになってぐっと体に力を入れる。振り返ればきっと、機械仕掛けのようにこの歌は止まる。
 黒猫は今きっと傘をさしていない。声は、まっすぐ届いていた。たった一人のアカペラは記憶のものより寂しかったが、その分とても美しかった。やがて純平も口ずさむ。自然と声はユニゾンした。縦に並んだ男女が二人、雨の中傘もささずに歌をはもって歩く姿はさぞかし滑稽で、近所迷惑だった事だろう。純平は背中で彼女の声を受け止めながら、少しだけなら彼女を愛してもいいと思った。
 そういえば、後ろから来たという事は、一度塾まで行ったのか。そして自分を追って早足で歩いたのだろうか。そう思い当って、純平は歌の終わりと共に振り向いた。先程のは届いたのか判らなかったのでもう一度。

「ありがとう」

 彼女は少しだけ笑っただけで何も言わなかった。そしてやっぱり、傘は差さないまま立っていたのだった。
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