キンモクセイ

黒遠

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キンモクセイ

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 その移動販売車は、街の広場に木曜日の昼過ぎになると現れる。

 ぼくは今日もその姿を確認して、ちょっと安心する。そのクリーム色の幌のついたミントグリーンの車の中で、いろんな国のいろんなコーヒーを豆から挽いて作ってくれるのだ。
「どうも」
「こんにちは、いつものブレンド?」
「うーん、冒険してみようかな。アイスでおすすめのありますか?」
「苦いのと酸味があるのとどっちが好きですか。ブレンドは若干酸味が強め」
「なら酸味があるほうかな」
「では今日は特別にエチオピアの豆を挽いてあげましょう。お値段は据え置きだよ」
「やった」

 時間がかかるのを知っている僕は、そっとあたりを見回す。会話の糸口を探す。ぼくの知らない卓上ストーブみたいなものに向かっている人の背中に。車内に染みついたコーヒーの香りのほかの、甘い匂いに気づく。

「何か花のにおいがする」
「え? ああ、キンモクセイ。道路の向かいで咲いてるんだけど、ここまで香ってくるんですよ」
「これがキンモクセイの花のにおいなんですか? 知らなかった。こんな良い匂いなんだ」
「そうそう」
「ばあちゃんがトイレのにおいっていうから」
「何それ?」
「キンモクセイはトイレのにおいって。だからどんな匂いなんだろうって思ってた」
「ハハハ、ひどい言いがかり」
「どうしてそんなこと言ったのかなあ?」
「どうしてでしょうね? トイレの近くに植える習慣でもあったんですかね?」

 コポコポと今度はコーヒーの香りが立つ。細く美しいドリップポットからお湯が静かにフィルタに落とされる。

「近くに植えてにおいをカバーするとか?」
「ありそうですね……」

 ふとその人は唇を引き結んでしまう。ぼくも慌てて口を閉じる。最後の雫が落ちそうになる瞬間、するりとその人はドリッパーを引き上げた。

「あ、すみません。いつもつまらない話しちゃって」
「そんなことないですよ、お客さんと話すの楽しいですよ。楽しみにしてるんです。ちょっとね、最後だけ集中しないといけないから黙っちゃうけど」

 ぼくはそれを聞いてほっとする。社交辞令でないことを神に祈る。
 その人はまだ熱いできたばかりのコーヒーをゆっくりと氷がたっぷり入ったカップに注いでいく。

「ミルクは入れますか?」
「何も入れないで飲んでみてもいいですか?」
「もちろん! お客さんわかってますね」

 その顔は柔らかく笑っている。ぼくは開閉式のテーブルに置かれたそのカップを受け取り、そっと口をつける。苦味より先にすっと酸味が抜けていく。

「ああ、本当だ。軽いけど薄くない感じで好きです」
「苦いのが好きな人多いけど、酸味が強いのも悪くないでしょう」

 じゃあまた、と僕はその、冷たい琥珀色の液体を持って歩き出す。その人はぼくに軽く手を振って微笑み、流れるように車の奥に目を移した。また来週。

 ああ、今週も。

 今週もその人と話すことができた、と思う。

 笑顔で別れることができた、と思う。その人にとって自分は、ただのコーヒー好きの客の1人に過ぎないとわかっている。あの人はほかの場所できっと、色々な常連さんと、もっと楽しく話すんだろうと思う。コーヒーのことや、他のことについて。ぼくは自分が本当はコーヒーのことなんて全然わからないのが恥ずかしくなる。いつかあの人はこの広場になんかきっと来なくなってしまうんだろう。ぼくにはなにも繋ぎ止めるものがない。

 ふと強く甘い花の香りがして顔を上げる。小さなオレンジ色の花をいっぱいに付けた木が真横にあった。これがキンモクセイ。コーヒーが甘くなりそうなほどに強い香り。

 来週も咲いているかな。この花は。

 来週もまた、来てくれるだろうか。せめて冬が来るまでは。何の話をしようか。あの人が笑ってくれるような話がしたい。接客なんか抜きにして、つい笑ってしまうといい。


 この現象は、ぼくを目眩がするほど幸せにし、逃げたくなるほど苦しくする。









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