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九
座敷牢は頑丈にできていた。とてものこと、おいそれと開けることができるような代物ではない。牢の中にも何も道具はなかった。
「あーかいはなーとりまーしょかー」
身代わりの少年は先ほどからずっと歌を歌っている。鍵は大きな南京錠で、少し揺らしてみたがびくともしない。窓は一つだけあるが高く、鉄格子がはまっている。
たとえ今、この檻を出たとしても里の中だろう。村まで一人で行けるとは思えない。なんとかしてこの子と一緒に村に連れて行かれる必要がある。そして村に着いた後、庵から出してもらうことはできるか。この子だって庵から出て神社に行き、祭壇で舞って祝詞を唱えるまでしか一人で行動する暇はないだろう。一緒に外に出られるとしたらその時だけ。その間に何ができるか。
日が高くなってから宮司は戻ってきた。
「まだ男の名前は言う気になりませんか? 言えば出してあげますよ」
「……われも明日、大祭を見たい。この子がわれの身代わりになってくれるのなら、見届けたいのです。それが叶えば言います」
「……ふうん。宜しい。どうせその子の世話役を誰か頼まねばと思っていました。お前は司祭見習いになるのだし、ちょうど良い。明日はその子の世話をしてください」
どきんと胸が鳴った。まずは村に行ける。あとは運と自分とこの少年次第。炎と少年は座敷牢の冷たく硬い床に身を横たえて眠った。
夜が明けるとすぐに車に乗せられた。おとといここに連れてこられたときに乗ってきたのも車だったのだと炎は初めて気がついた。本物の馬を初めて見た。小一時間ほど揺られて、炎たちを乗せた馬車は神社に着いた。
着くなり、炎は庵に閉じ込められた。庵には外から閂がかかる。身代わりの少年は潔斎をさせると言って宮司が連れて行き、泉に入れられているようだった。少年も炎と同じくらい色が白い。遠目から見たらわれと見分けがつかないかも知れない。ふと、いつもはない沢山の人の気配を感じた。格子窓から外を見ると、ぞろぞろと見慣れない男たちが庵を囲んでいる。耳を澄ます。
「木の影に隠れてくれ。かなり用心深いやつらしい」
「禁足の地に入るなんてバカなやつだ」
「宮司様は来ると言っているが本当かの」
久治を捕まえようとしている。そんな! どうやって? でも来ないかもしれない。われは久治と逢わないと言った。久治が別れたと思ってくれれば今日もきっと来ない。炎は祈るような気持ちでいつも久治が走り出てくる茂みを見つめた。小半刻も経っただろうか。遠くに……
「炎!」
ああ!
「久治! 来るな! こちらに来るな‼︎ 逃げろ!」
声の限りに叫んだ。来てしまった。久治は踵を返したがもう遅かった。森に隠れていた男たちはぐるりと久治を囲んだ。
「久治か……」
「なんと。まさかお前が」
「わかっていると思うが、縄をかけさせてもらう。あとは宮司様次第だ」
久治は大人しく縛り上げられ、神社の方に引かれて行く。庵の横を通る。
「久治!」
久治がふと目を上げ、足を止めた。炎の泣き濡れた目と目が合った。
「……炎、俺はお前が好きだ」
「われもお前が好きだ! 好きだ………好き……久治……死なないで……」
久治は少し笑った。縄を引く男たちに促されて、また前を向いて歩き出した。
久治の姿が見えなくなってしばらくして、宮司が身代わりの少年を連れて戻ってきた。
「さて。この子に装束を着せてください。化粧も」
炎は何よりまず土間に頭を擦り付けた。
「お願いします! 久治を殺さないで下さい! 何でもします! どうか!」
「ふうん。でも決まりですからね。禁足の地に入った方が悪いのではないかな?そうは思わないか?」
「われが……われが来て欲しいと言ったから! 悪いのはわれです。殺すならわれを殺してください……久治は…」
宮司が炎の頭を蹴り上げた。
「うるさい! お前と通じた男をわたしが生かしておくと思うのか! 絶対に殺してやる!」
「おね……がい……」
炎は奥の壁に叩きつけられ、鼻からの血が土間にぽたぽたと落ちる。どんなに、どんなに殴られてもいい。自分が死んでも構わない。でも久治が死ぬのだけは嫌だ。だから血を吐くような思いで久治に二度と逢わないと言ったのに。炎はもう一度宮司に向かって正座し頭を下げた。
「お願いします……」
「そうまであの男を庇うのか! そんなにあの男が恋しいか!」
宮司が拳を振りかぶった時、外から神主の声が聞こえた。
「宮司さま、龍の刻を周りました」
宮司は振り上げた拳をぶるぶる震わせながら下ろすと、よしわかった、と言った。
「二度と私に逆らわないと約束するか?」
「約束します」
「いいか、二度とあの男とは会わないと約束するか?」
「会いません」
「あの男はお前が知らない地に追放する。決して会わないような場所に。それでいいか?」
「はい」
「一度でも約束をたがえたら、私はあの男を今度こそ殺す。わかっているな?」
「はい」
「ではお前は私のものだ。一生だ!」
「はい」
宮司はそう言うと、庵を出て行った。炎は少年に装束をつけ、化粧をした。少年の服は白いお引きずりに被衣。白粉で鼻筋を描いて目尻と唇に朱をさす。
久治は生きられる。ほっとした。会えなくても構わない。どこかで生きていてくれればいい。鏡に自分の顔も写る。鼻血が口まで垂れて、頬が青黒くなってる。ひどい顔。これではいくら覆面を付けたとしても、神事には不似合いだろう。水瓶の水で顔を拭き、白粉で少し痣を隠す。
「きーれーい」
「お前もきれいだ」
われの代わりに死ぬ子。かわいそうに。この子もなんとかしてやりたいが……。
炎も臙脂色の狩衣と差袴を付ける。髪を一つに結んだ。
何があっても、われが強くある限り久治がどこかで生きているなら耐えられる。いつか巡り合えるかもしれない。
「人払いを」
久治は神社の端、禁足の森の出口からさほど離れていない小さな小屋に縛られたまま閉じ込められていた。忙しいはずの宮司が突然やって来たので驚いた。久治を見張っていた宮座たちが消えて行く。小屋の扉が開く。眩しさに目を眇める。
「出て来なさい」
言われるままに小屋を出る。心は不思議なほど凪いでいる。
「跪け」
石畳に膝をつける。苔が柔らかい。
「こんな薄汚い小作人の子が……」
宮司が久治を見下ろして吐き捨てるように言った。なんとでも言うがいい。
「炎はお前の命乞いをしました。蹴り飛ばしてやったが。お前の命を助けてくれるならなんでもすると。お前は生きたいですか?」
「炎が生きていてくれるなら」
宮司は先ほどの怒りがまたふつふつと湧いてきた。この二人を生かしておいたらいつかまた出会うのではないか。そういう空恐ろしさが、妙に落ち着いたこの、目の前の、少年から青年になったばかりの眼差しの強い若者にはあった。
なんとかしてこの男から殺さないでくれ、やめてくれと言わせたい。泣き叫び炎など知らないと言わせたい。そうでなければ意味がない。
「では炎が死ねばお前も死ぬのか?」
「死んでも構わない。そのつもりで……」
久治はふと口を閉ざした。そのつもりで。そのつもりで通った。そのつもりで炎を好いた。そのつもりで抱いた。そのつもりで契った。死んでも構わない。炎に恋したら命懸けなのは最初からわかっていた。この恋が叶ったなら思い残すことは何もない。
──好きだ!好きだ………好き……
ああ。愛しい言葉。最期に聞けて良かった。お前からはそんな言葉を身に余るほど貰ったと思える。
ただもし、もしも願いがあるとすれば、お前ともっと同じ時を過ごしたかった。もっと自由に。もっと長く。
宮司の黒衣の影から一振りの刀が取り出された。
「命乞いをしてみろ。炎など知らないと言え。そうすればお前の命は助けてあげます。そうでなければその首を落とす」
──久治……死なないで……
泣き濡れた色違いの瞳。いいんだ。死なない者などいない。お前がいない世界なら、生き長らえても死んでいるのと変わらない。
──炎、お前の命も今日限りならば俺は死んでお前を待とう。俺はお前を必ず見つける。魂だけになろうと、必ずまた出会ってみせる。その時は、その時こそ、心ゆくまで共にありたい。
「首を切るがいい。もとより覚悟の上だ」
宮司は怒りで鳥肌が立つほどだった。この男、まだ言うか。炎との約束を守る気など最初からない。炎には遠くにやったと言っておけばよい。必ずこいつは殺す。でもそれではこの怒りは晴らせない。どうにかしてこの男を屈服させたい。
「炎は一生を私に捧げると約束しましたよ。お前ではない。お前は炎が今日死ぬと思っているだろうが、私が炎を死なせない。私にはそれができるのだ! 炎は私と共に生きる! お前ではない!」
俯いた久治の顔を見たくて、宮司は刀の切先で久治の顎を持ち上げた。久治は笑っていた。
「何が可笑しい!」
宮司が刀を振り上げた。久治は笑顔のままだった。
「炎を殴らないでやってくれ」
「うるさい!」
刀が勢いよく振り下ろされた。ごとん、と首が落ち、体からさあとあたりに血が飛んだ。宮司は正座したままの久治の体を足で蹴って横倒しにした。石畳に血が流れ、砂利に染みて行く。
「はっ…はっ…」
宮司は血に染まった刀の刃を袖で拭くと、鞘に納めた。指に血が付く。それも黒衣で拭いた。この色の衣で良かった。そうでなければ血が目を引いただろう。時間がない。
炎の庵に着くと、二人は準備を終えていた。炎は臙脂色の衣を着て髪を結っており、気の触れた少年は白い衣で被衣を被っている。これからの手順を教えなければならない。
「よし。それでは、私はこれから一足先に神社に行き、祝詞をあげます。お前たちは半刻ほどしたら二人で神社まで来なさい。わたしが神楽を舞うように言うので、その子に鈴を持たせなさい。鈴を持てば舞うようにしつけている。鎮石はお前たちの後から宮座の者が運び出す。神楽が終わる頃に石が神社に届くので、それをその子に抱かせなさい」
「はい」
嫌がったら突き落としなさい。
宮司はさらりと言った。炎はぞっとした。この男は人を殺すことを何とも思っていない。改めて男を見上げた。背の高い、優しげな顔。少し機嫌を損ねるとすぐに崩れる。襟だけ白く覗く黒衣。
その時、炎はそのわずかに狩衣から覗く白い襟に、赤い模様が付いていることに気がついた。花?いや、今朝はなかったものだ。
血?
どきんと心の臓が鳴った。宮司はくるりと向きを変えて庵を後にする。何か悪いことが起こっている。
炎はあたりを見回して、庵の近くに誰もいないことを確かめると、外に出た。閂をかけて少年が出られないようにする。
「少しだけ一人でいておくれ。すぐに戻るから」
神社への道を走る。今までほとんど走ったことなどなかった。久治の胸に飛び込む時だけ。足が痛む。もつれる。でも早く確かめなければ。神社の裏に出ると、炎は人気のない方に進んだ。ここに来たのは初めてだ。人の気配が多いところが境内だろう。久治を閉じ込めておくとしたら目立つところではきっとない。じめじめとした石畳が続く。小さな小屋が目に入る。血の匂いがする。
体が横たわっている。この服に見覚えがある。
「あ、あ……そんな」
血の跡を目で追う。黒い髪がこちらを向いている。
「そんな……」
炎は震える手でそれを持ち上げた。
久治。
久治の生首だった。まだ温かい。血が切り口からぽたぽたと滴り落ちた。安らかな顔をしている。
──俺はお前が好きだ。
「きゅう……じ……」
炎は生首を搔き抱いてその場に蹲った。熱い涙が溢れ出した。
逢へるときだに。
うつくしきこと尽くしてよ……
もう一度言って。久治。お前が愛しいと。抱いていたいと。もう一度……。
「許さない……許さない!」
「あーかいはなーとりまーしょかー」
身代わりの少年は先ほどからずっと歌を歌っている。鍵は大きな南京錠で、少し揺らしてみたがびくともしない。窓は一つだけあるが高く、鉄格子がはまっている。
たとえ今、この檻を出たとしても里の中だろう。村まで一人で行けるとは思えない。なんとかしてこの子と一緒に村に連れて行かれる必要がある。そして村に着いた後、庵から出してもらうことはできるか。この子だって庵から出て神社に行き、祭壇で舞って祝詞を唱えるまでしか一人で行動する暇はないだろう。一緒に外に出られるとしたらその時だけ。その間に何ができるか。
日が高くなってから宮司は戻ってきた。
「まだ男の名前は言う気になりませんか? 言えば出してあげますよ」
「……われも明日、大祭を見たい。この子がわれの身代わりになってくれるのなら、見届けたいのです。それが叶えば言います」
「……ふうん。宜しい。どうせその子の世話役を誰か頼まねばと思っていました。お前は司祭見習いになるのだし、ちょうど良い。明日はその子の世話をしてください」
どきんと胸が鳴った。まずは村に行ける。あとは運と自分とこの少年次第。炎と少年は座敷牢の冷たく硬い床に身を横たえて眠った。
夜が明けるとすぐに車に乗せられた。おとといここに連れてこられたときに乗ってきたのも車だったのだと炎は初めて気がついた。本物の馬を初めて見た。小一時間ほど揺られて、炎たちを乗せた馬車は神社に着いた。
着くなり、炎は庵に閉じ込められた。庵には外から閂がかかる。身代わりの少年は潔斎をさせると言って宮司が連れて行き、泉に入れられているようだった。少年も炎と同じくらい色が白い。遠目から見たらわれと見分けがつかないかも知れない。ふと、いつもはない沢山の人の気配を感じた。格子窓から外を見ると、ぞろぞろと見慣れない男たちが庵を囲んでいる。耳を澄ます。
「木の影に隠れてくれ。かなり用心深いやつらしい」
「禁足の地に入るなんてバカなやつだ」
「宮司様は来ると言っているが本当かの」
久治を捕まえようとしている。そんな! どうやって? でも来ないかもしれない。われは久治と逢わないと言った。久治が別れたと思ってくれれば今日もきっと来ない。炎は祈るような気持ちでいつも久治が走り出てくる茂みを見つめた。小半刻も経っただろうか。遠くに……
「炎!」
ああ!
「久治! 来るな! こちらに来るな‼︎ 逃げろ!」
声の限りに叫んだ。来てしまった。久治は踵を返したがもう遅かった。森に隠れていた男たちはぐるりと久治を囲んだ。
「久治か……」
「なんと。まさかお前が」
「わかっていると思うが、縄をかけさせてもらう。あとは宮司様次第だ」
久治は大人しく縛り上げられ、神社の方に引かれて行く。庵の横を通る。
「久治!」
久治がふと目を上げ、足を止めた。炎の泣き濡れた目と目が合った。
「……炎、俺はお前が好きだ」
「われもお前が好きだ! 好きだ………好き……久治……死なないで……」
久治は少し笑った。縄を引く男たちに促されて、また前を向いて歩き出した。
久治の姿が見えなくなってしばらくして、宮司が身代わりの少年を連れて戻ってきた。
「さて。この子に装束を着せてください。化粧も」
炎は何よりまず土間に頭を擦り付けた。
「お願いします! 久治を殺さないで下さい! 何でもします! どうか!」
「ふうん。でも決まりですからね。禁足の地に入った方が悪いのではないかな?そうは思わないか?」
「われが……われが来て欲しいと言ったから! 悪いのはわれです。殺すならわれを殺してください……久治は…」
宮司が炎の頭を蹴り上げた。
「うるさい! お前と通じた男をわたしが生かしておくと思うのか! 絶対に殺してやる!」
「おね……がい……」
炎は奥の壁に叩きつけられ、鼻からの血が土間にぽたぽたと落ちる。どんなに、どんなに殴られてもいい。自分が死んでも構わない。でも久治が死ぬのだけは嫌だ。だから血を吐くような思いで久治に二度と逢わないと言ったのに。炎はもう一度宮司に向かって正座し頭を下げた。
「お願いします……」
「そうまであの男を庇うのか! そんなにあの男が恋しいか!」
宮司が拳を振りかぶった時、外から神主の声が聞こえた。
「宮司さま、龍の刻を周りました」
宮司は振り上げた拳をぶるぶる震わせながら下ろすと、よしわかった、と言った。
「二度と私に逆らわないと約束するか?」
「約束します」
「いいか、二度とあの男とは会わないと約束するか?」
「会いません」
「あの男はお前が知らない地に追放する。決して会わないような場所に。それでいいか?」
「はい」
「一度でも約束をたがえたら、私はあの男を今度こそ殺す。わかっているな?」
「はい」
「ではお前は私のものだ。一生だ!」
「はい」
宮司はそう言うと、庵を出て行った。炎は少年に装束をつけ、化粧をした。少年の服は白いお引きずりに被衣。白粉で鼻筋を描いて目尻と唇に朱をさす。
久治は生きられる。ほっとした。会えなくても構わない。どこかで生きていてくれればいい。鏡に自分の顔も写る。鼻血が口まで垂れて、頬が青黒くなってる。ひどい顔。これではいくら覆面を付けたとしても、神事には不似合いだろう。水瓶の水で顔を拭き、白粉で少し痣を隠す。
「きーれーい」
「お前もきれいだ」
われの代わりに死ぬ子。かわいそうに。この子もなんとかしてやりたいが……。
炎も臙脂色の狩衣と差袴を付ける。髪を一つに結んだ。
何があっても、われが強くある限り久治がどこかで生きているなら耐えられる。いつか巡り合えるかもしれない。
「人払いを」
久治は神社の端、禁足の森の出口からさほど離れていない小さな小屋に縛られたまま閉じ込められていた。忙しいはずの宮司が突然やって来たので驚いた。久治を見張っていた宮座たちが消えて行く。小屋の扉が開く。眩しさに目を眇める。
「出て来なさい」
言われるままに小屋を出る。心は不思議なほど凪いでいる。
「跪け」
石畳に膝をつける。苔が柔らかい。
「こんな薄汚い小作人の子が……」
宮司が久治を見下ろして吐き捨てるように言った。なんとでも言うがいい。
「炎はお前の命乞いをしました。蹴り飛ばしてやったが。お前の命を助けてくれるならなんでもすると。お前は生きたいですか?」
「炎が生きていてくれるなら」
宮司は先ほどの怒りがまたふつふつと湧いてきた。この二人を生かしておいたらいつかまた出会うのではないか。そういう空恐ろしさが、妙に落ち着いたこの、目の前の、少年から青年になったばかりの眼差しの強い若者にはあった。
なんとかしてこの男から殺さないでくれ、やめてくれと言わせたい。泣き叫び炎など知らないと言わせたい。そうでなければ意味がない。
「では炎が死ねばお前も死ぬのか?」
「死んでも構わない。そのつもりで……」
久治はふと口を閉ざした。そのつもりで。そのつもりで通った。そのつもりで炎を好いた。そのつもりで抱いた。そのつもりで契った。死んでも構わない。炎に恋したら命懸けなのは最初からわかっていた。この恋が叶ったなら思い残すことは何もない。
──好きだ!好きだ………好き……
ああ。愛しい言葉。最期に聞けて良かった。お前からはそんな言葉を身に余るほど貰ったと思える。
ただもし、もしも願いがあるとすれば、お前ともっと同じ時を過ごしたかった。もっと自由に。もっと長く。
宮司の黒衣の影から一振りの刀が取り出された。
「命乞いをしてみろ。炎など知らないと言え。そうすればお前の命は助けてあげます。そうでなければその首を落とす」
──久治……死なないで……
泣き濡れた色違いの瞳。いいんだ。死なない者などいない。お前がいない世界なら、生き長らえても死んでいるのと変わらない。
──炎、お前の命も今日限りならば俺は死んでお前を待とう。俺はお前を必ず見つける。魂だけになろうと、必ずまた出会ってみせる。その時は、その時こそ、心ゆくまで共にありたい。
「首を切るがいい。もとより覚悟の上だ」
宮司は怒りで鳥肌が立つほどだった。この男、まだ言うか。炎との約束を守る気など最初からない。炎には遠くにやったと言っておけばよい。必ずこいつは殺す。でもそれではこの怒りは晴らせない。どうにかしてこの男を屈服させたい。
「炎は一生を私に捧げると約束しましたよ。お前ではない。お前は炎が今日死ぬと思っているだろうが、私が炎を死なせない。私にはそれができるのだ! 炎は私と共に生きる! お前ではない!」
俯いた久治の顔を見たくて、宮司は刀の切先で久治の顎を持ち上げた。久治は笑っていた。
「何が可笑しい!」
宮司が刀を振り上げた。久治は笑顔のままだった。
「炎を殴らないでやってくれ」
「うるさい!」
刀が勢いよく振り下ろされた。ごとん、と首が落ち、体からさあとあたりに血が飛んだ。宮司は正座したままの久治の体を足で蹴って横倒しにした。石畳に血が流れ、砂利に染みて行く。
「はっ…はっ…」
宮司は血に染まった刀の刃を袖で拭くと、鞘に納めた。指に血が付く。それも黒衣で拭いた。この色の衣で良かった。そうでなければ血が目を引いただろう。時間がない。
炎の庵に着くと、二人は準備を終えていた。炎は臙脂色の衣を着て髪を結っており、気の触れた少年は白い衣で被衣を被っている。これからの手順を教えなければならない。
「よし。それでは、私はこれから一足先に神社に行き、祝詞をあげます。お前たちは半刻ほどしたら二人で神社まで来なさい。わたしが神楽を舞うように言うので、その子に鈴を持たせなさい。鈴を持てば舞うようにしつけている。鎮石はお前たちの後から宮座の者が運び出す。神楽が終わる頃に石が神社に届くので、それをその子に抱かせなさい」
「はい」
嫌がったら突き落としなさい。
宮司はさらりと言った。炎はぞっとした。この男は人を殺すことを何とも思っていない。改めて男を見上げた。背の高い、優しげな顔。少し機嫌を損ねるとすぐに崩れる。襟だけ白く覗く黒衣。
その時、炎はそのわずかに狩衣から覗く白い襟に、赤い模様が付いていることに気がついた。花?いや、今朝はなかったものだ。
血?
どきんと心の臓が鳴った。宮司はくるりと向きを変えて庵を後にする。何か悪いことが起こっている。
炎はあたりを見回して、庵の近くに誰もいないことを確かめると、外に出た。閂をかけて少年が出られないようにする。
「少しだけ一人でいておくれ。すぐに戻るから」
神社への道を走る。今までほとんど走ったことなどなかった。久治の胸に飛び込む時だけ。足が痛む。もつれる。でも早く確かめなければ。神社の裏に出ると、炎は人気のない方に進んだ。ここに来たのは初めてだ。人の気配が多いところが境内だろう。久治を閉じ込めておくとしたら目立つところではきっとない。じめじめとした石畳が続く。小さな小屋が目に入る。血の匂いがする。
体が横たわっている。この服に見覚えがある。
「あ、あ……そんな」
血の跡を目で追う。黒い髪がこちらを向いている。
「そんな……」
炎は震える手でそれを持ち上げた。
久治。
久治の生首だった。まだ温かい。血が切り口からぽたぽたと滴り落ちた。安らかな顔をしている。
──俺はお前が好きだ。
「きゅう……じ……」
炎は生首を搔き抱いてその場に蹲った。熱い涙が溢れ出した。
逢へるときだに。
うつくしきこと尽くしてよ……
もう一度言って。久治。お前が愛しいと。抱いていたいと。もう一度……。
「許さない……許さない!」
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