実践的擬態 Practical disguise

黒遠

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 柔らかく唇が押し当てられる。大きな手が体をなぞる。肌と肌が重なる。気持ちがいい。髪に触れる。硬めの髪。熱い大きな体。抱き寄せる。ぎゅっと抱きしめられる。安心する。キスする。ひたいをくっつける。いつもこれするよね…。顔が見たい。あの黒い瞳を確かめたい。










 違う。くおんはもういない。










 はっと目を覚ます。まだ夢の残滓が体に残っている。手のひらにくおんの肩の感触がある。隣に人が寝ていることに気づいてどきっとする。泣きたくなる。これに慣れなくちゃいけない。まだ日は昇らない。スマホを見る。4時。
 ベッドから抜け出そうとしたら、凛も目を覚ました。「どうしたの?」

「目が覚めちゃって。寝てていいよ」

 凛の頭をそっと撫でると、また寝息を立てはじめた。

 凛はバイトで住宅展示場の受付をしていた子だった。年が近いと思ったのか、俺がちょろちょろ一日中展示場にいるのに気づいて声をかけてきた。あんたもバイト? このあとの打ち上げ来る?

 行くよ、と言うと手をひらひらさせてじゃあ後でねと言った。変な子だなと思った。

 打ち上げに行くと、その子はちゃんといて、ビールをジョッキで飲んでいた。ものすごい飲みっぷり。見ていて気持ちいいくらいだった。俺に気づいて隣の席にジョッキごと引っ越してきた。

「あんたは何のバイト?」
「俺バイトじゃないよ。設計士。入り口から3軒目の家の」
「えーっ! 何歳?」
「27」
「うっそ! 年上?」

 俺はその時、カナエとの設計事務所の立ち上げのため、新卒から勤めていた設計事務所を辞めて稲生に戻ってきたところだった。

 カナエはもともと稲生の大手の建設コンサルに勤めてたから、わりとギリギリまで退職しないことにして、俺が会社の登記の手続きや事務所の整備をやることになっていた。
 だから稲生の駅前をよくウロウロしていたのだけど、駅前のコーヒーショップでばったりまた彼女と会った。彼女が声をかけてきた。

「覚えてます? 展示場の」
「受付の。覚えてるよ」
「職場このへんなんですか?」
「まあ、そうだね。まだできてないんだけど」

 彼女は駅の近くのデザイン専門学校の三年生だった。ちょうどインターンシップ先を探していたようで、俺とカナエの事務所に興味をもってくれて、場所を教えると定期的に覗きに来るようになった。

 うちはまだ準備中でインターンシップの受け入れができないので、大学の先輩たちがやってる事務所を紹介したら、俺に近況メールが入るようにもなった。その近況メールがカラッとしてて面白くて、付き合ってみたいな、この子となら付き合えるかもしれないと思った。

 くおんとは三年前に別れた。くおんが結婚することになったから。

 俺は大学を卒業して北陸の小さな建築設計事務所に入った。くおんは修士を取ったので同じ時に東京のメーカーに就職した。本当は俺も関東で働きたかったけど、事務所の規模感ややってる設計の内容、職場の雰囲気があまりに理想的すぎて、ほかに行く気になれなかった。遠恋のはじまり。

 実務経験が二年ないと一級建築士を取れないから、とりあえずそれを目指していた。くおんの会社は大きくて、日本全国に支社があり、希望を出せば俺のいるところの近くで働くこともできるはずだった。
 別れるつもりはなかった。俺のとこは平日休みで、土日休みのくおんとは会えなかったけど、くおんからもたまに電話が来たし、メッセージも来た。相変わらずMAXで六文字くらいだったけど。夏休みと正月だけちょっとだけ会えた。

 でも、一年半くらいでくおんからめったに連絡が来なくなった。もともとめんどくさがりのくおんだから、ありえないことじゃなかった。ただ不安にはなった。

 二年目に入ってすぐ、くおんが平日に俺のいる街まで来た。会うのがひさびさでものすごく嬉しかったのを覚えている。
 全然そんな話になるなんて考えてなかった。近くのカフェに入ると、本当にくおんが待っていた。髪が伸びてた。少し痩せた感じがした。くおんは挨拶も満足にしないうちに、「結婚することになった」と言った。

 最初、何て言われたのかわからなかった。結婚することになった? くおんがぎゅっと眉根を寄せて、唇を噛んでいた。そういうこと。結婚するんだ。くおん。どこかの女の人と。

「おめでとう」

 なんとかそれだけ絞り出した。おめでたいんだよな、結婚て。連絡も減るわけだ。

「でも急だね」

 くおんはすごく辛そうな顔をしていた。いつからそんな話になってたんだろう。いつから俺は重荷になってたんだろう。

「できちゃったってやつで」

 泣きそうになった。絶対くおんの前で泣きたくなかった。

「お幸せに」

 涙がこぼれる前にいなくなりたくてすぐ席を立ったけど、くおんが手を掴んだ。結婚してもなんとかならないか。友達でいいから。

 なんとかならないか?
 なんとかってなんだよ?
 友達でいいから?

 めちゃくちゃになった頭の中がいきなりきれいになって、一つの感情だけが猛烈な勢いで噴き上がって来た。怒りだった。お前が先に恋人だって言ったんだろ?

「ともだち……?」

 この期に及んで友達ですって言う気なのか? 友達だったらなかったことになるのか? 俺とのことまでうやむやにするのか?

「ふざけるなよ? そんなのだめに決まってるだろ。なんとかならないかって、どんな関係を続けるつもりだよ。俺にも奥さんになる人にもあんまり……」

 もうだめだった。涙が堪えきれなかった。声の震えを抑えるので精一杯。

「あんまりにも失礼だと思わないのか! お前みたいなやつはこっちから願い下げだ! 二度と連絡してくんな!」

 気分は最悪だった。くおんの手を振り切って飛び出した。走りながら涙を拭いた。くおんは追ってこなかった。これで。これでおしまいだな。もういい。

 歩きながらなんとか涙を引っ込めて、家に戻った。
 スマホにくおんから着信がたくさん入っていた。着信拒否にした。メッセージもいくつも入っているのはわかったけど、見ないでブロックした。もうやめてほしい。これ以上何も見たくないし聞きたくない。もう俺の人生からいなくなってほしい。なんでこれまで付き合って来た女の子たちにしたように、静かに離れて行ってくれなかったんだ。


 しばらくはこのことが頭から離れなくて、職場でも何かあったのかと聞かれるくらいだった。
 少しずつ怒りが収まると、諦めに変わった。そもそもくおんはそういうやつなんだよ。女の子と恋に落ちて結婚する真っ当な人種。夫婦になって子供が生まれて。

 俺との方が気の迷いだったんだよ。半年で女の子と別れてたやつが、俺とは少なくとも六年続いたんだから、俺も変に勘違いしてしまったんだな。

 きっとくおんを寄り道させて苦しめたのは俺の方だったんだろう。
 
 これで良かったんだ。








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