タダで済むと思うな

美凪ましろ

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第一部 復讐編

#01-06.破滅

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 あれからいくつの季節を数えただろうか。
 外はまだ肌寒いが、冬物のコートを出すと大仰に感じる。
 井口勝彦は、ジャケットを羽織り、電車に乗って勤務先へと向かった。

 不倫の、代償は、大きかった。
 産後のパワハラを虹子が記録し続けていたとは知らなかった。赤子に見向きもせずゲームに没頭したこと。産後の肥立ちが悪いにも関わらず、虹子に家事の一切を任せたこと。また、虹子が家事育児ヘルパーを頼んだ費用も、二人の口座ではない、虹子の口座から出したということ。
 離婚しても、どちらかに非がなければ、財産分与は半々のはずだが、一連の勝彦の行動が原因で、虹子の取り分が大幅に増えた。納得はいかないが、仕方あるまい。
 バッシングの嵐は、勝彦にも及んでいた。
 浮気相手である吉本直見が、被害を受けたのと同様に、勝彦も被害を受け、会社には居続けられなくなった。
 ただでさえ重い住宅ローン、それに養育費と慰謝料が加わってしまっては――元々一家で住んでいた分譲マンションは売却せざるを得なくなった。虹子のほうは、あのマンションには執着してはいないようだった。
 仕事も変えた。変えるたびに、ネットでリークされるので、人前で名前や顔を出す仕事には就けなくなった。
 営業職をしていたはずのおれが、事務員風情とは。
 勝彦は、かつて直見も就いていた、事務員の仕事を馬鹿にしていた。けれども、転職を繰り返し、仕事の見つからない彼は、養育費の支払いもあるので、働かざるを得ない。
 勤務先につくと挨拶をし、他の事務員の若い女の子たちにぶしつけな目線を投げかけられながらも、ロッカーに入り、着替える。
 と、何故か咳が出た。止まらない。どうしたのだろう。
 異変に気づいた同僚が近づいてくる。「おい、おまえ……どうした。まさかコロナとか言うなよ? ……マスクは?」
「いや、ありません」
「迷惑なことこのうえないな。……ほれ」
「ありがとうございます」
 礼を言い、新品のマスクを受け取り、装着した。
 咳をし続ける勝彦に冷たい視線が注がれた。上長の判断で彼は帰宅を要請され、病院へと向かった。
 電車に乗ると、かつて、住んでいた町を通り過ぎる。――あの頃は、よかった、と勝彦は思う。
 あの頃はなにも知らなかった。平和だった。
 ひとひとり生きていくのがどれほど大変なのか。勝彦は知りもしなかった。
 毎日、食事を作り、洗濯をし、かけがえのない家族の世話をすることがどれほど大変なのか。
 自活能力のない勝彦の部屋は荒れ放題だ。足の踏み場もないほど服が散らかっており、洗濯は、週に一度するのでやっと。シンクにも床にも、カップ麺の残骸が散乱している。お陰で服も汚れ放題だ。
 分譲マンションに長らく住んでいた勝彦の感覚からすると、アパートのファシリティはマンションを格段に下回る。風呂の追い炊き機能がない、浴室乾燥機能がない、水の浄水機能がない、ごみ捨ては朝起きていかなければならない……お陰でごみは溜まる一方だ。蛇口から出る水を飲めないことにもストレスを感じる。衣食住が大事だとよく言われる通りで、住居が不自由だと人間はここまでストレスを感じるものか――住居の与えうるストレスの大きさに、勝彦は驚嘆した。
 感染病が猛威を振るっており、電車のなかは殺伐といていた。マスクをしている人間が多く、咳をすればたちまち視線をぶつけられる。勝彦は、親子三人がいるのを見て、席を譲ったのだが、母親が露骨に嫌そうな顔をした。不快だった。
 さて自宅アパート近くの内科に辿り着き、診察を受ける。
 レントゲンも撮ったが、肺炎ではない、おそらく気管支炎との診断だった。
 念のため感染病の相談センターに電話すると、
「熱が7.5度以上の日が四日以上続けば検査は受けられますが。保健所では検査キットが不足しています。お医者様から診断を受けたとのことですからいましばらく、様子を見ていただければ、と」
 要するに手が回らないから検査を受けられない。
 仕方がなく、勝彦は、様子を見ることにした。
 翌朝も出社した。マスクもせず、激しい咳をし続ける勝彦に浴びせられる、電車のなかでの冷たい目線に耐えながら。
 ところが、出社した勝彦に対し、またも午後になると上司が、
「……きみ、コロナではないんだよね?」
「……はい?」勝彦はタイピングする手を止めた。「いえ。朝言ったじゃないですか。おれは、コロナの症状には当てはまらない。第一、おれ、どこにも出かけていませんから、うつるはずがないんですよ」
「それでも、井口くん……。ちょっと、咳が落ち着くまで、出社は控えて貰えるかい? マスクもしていないようだし……」
 このやり取りを、女子事務員たちが露骨に見ていた。まるで、――病原菌を見るような目で。
 勝彦はひとつ息を吐き、
「分かりました。でもこれ、有給って扱いになるんですか?」
「それはまた、追って検討する」
「……分かりました。お先に失礼します」
 ロッカーに寄り、会社を出た。
「――ちくしょう!」
 と、勝彦はビジネスバッグを床に叩きつけた。どいつも、こいつも……。おれは、コロナウィルスなんかじゃない。医者だってコロナじゃないから、おれに、薬をくれたんだ。なにを考えてやがる……!
 マスク。馬鹿か。どこ行っても品切れだろ。会社員であるおれが朝からドラッグストアに並べってのか。ふざ、けんな!
 苛々した気持ちのままバッグを拾い上げ、電車に乗る。咳が出るなら、手で押さえるのではなく、衣服で吸わせるようにする、それがエチケットなのだが――勝彦は知らなかった。
「……おい。あんた」
 激しく咳き込む勝彦に話しかける若者がいた。私服からするに、大学生といったところか。黒いマスクをしている。
「迷惑なんだよ。咳出んなら電車乗んなよ。――おっさん」
「んだとてめ。おれは仕事があんだ。文句でもあんのかこの、ガキが」
 そしてまた、勝彦が咳き込むと、若者が呆れたように、「濃厚接触とかまじ勘弁しろよ。おっさん。あーあ。まぁーたコロナかよ。K県で感染者が一名発見されました――てか」
「だーからおれはコロナじゃないっつの! おまえ、ふざっけんな! このクソガキが!」
「ちょっとあなたたちいい加減にしなさい。車掌を呼ぶわよ!」
 睨み合う勝彦と若者に危険を感じた誰かが非常ボタンを押した。電車は急停止する。アナウンスが流れる。――電車は急停止。急停止します――。
「ちょっとまじ勘弁して欲しいんだけど……急いでんのに」
 これ見よがしに若い女に言われたところで、知ったことか。気が付けば若者が背後から押さえられており、なお、勝彦に近づく者は誰も現れない。――コロナウィルスに感染していると、思っているのだ――勝彦は、血の気が引いた。
「だーからおれは。コロナウィルスじゃない! じゃない! 違うんだ――これはぁあああ!」
 本格的に咳き込み、絶叫をする勝彦を、人々は不気味がる。泣く女の子の目隠しをし、別車両へと連れていく母親。それを皮切りに、ばたばたと足音が続き、皆、移動する。大学生と、彼を押さえるサラリーマンと思われるスーツの男を除けば、無人の車両が出来上がった。
 車掌が仲裁に訪れるまで、勝彦は激しく叫び、激しく咳き込み、己の無罪を主張し続けた。

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