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Overcome All Those Violence/*蹂躙と不屈*/

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 ――あれ以来、なにもかもが変わってしまった。世界が――違って見えるのだ。
 興味のないはずの分厚い本を手にとって見たり、新書の棚でどんな本が売れているかをチェックしたり、いつもの雑誌コーナーで女性服の流行りを探ってみたり。帰りがけにマックで食事を済ませ人間観察なんかしてみたり。してみたいことが、やまのようにある。世界は、希望に、満ちていた。
 仕事のあいだは業務に集中する。でもそれ以外は、自分を、自由にした。ひとりで牛丼屋に入ったりもした。あれから一週間と一日。彼女は、充実した日々を過ごしている。
 お風呂に入り、さっぱりしたところでミニッツメイドを飲む。うん美味しい。果実の芳醇さが舌に残っているのを感じつつさくさくパジャマに着替える。実を言うと、お風呂に入るたび、杉崎真司に与えられた官能が、うずく。
 浴槽に使ったままあのエクスタシーを思い返し、自分の胸に触れてみる。――やわらかく。状態が整っているのが分かる。
 こんなのは、初めてのことだった。
 浴槽から出て、自分がいったいどんな状態なのか、確かめたことさえ、ある。ぬるぬるで、なんなく指を飲み込んでしまいそうな熟成度。ひとたび触れられたら腰を抜かしてしまうかもしれない。なんせ――駅のホームで抱きしめられ、右耳に息を吹きかけられた程度で『達した』のだから。
 彼女の一部は、それを汚らわしいことと、判断した。純粋に杉崎真司を愛しているのなら、色欲もなにも関係なしに、真摯な想いで彼に向き合うべきなのだ。
 貴重品を仕舞っているチェストの引き出しから『あるもの』を取り出し、テーブルのうえに乗せる。
 ちょこんとテーブルの前で正座し、小さな『それ』を手に取り、そっと祈る。
 ――今日も、杉崎さんが幸せでありますように……。
 それは、毎晩行う、彼女にとって、神聖な儀式だった。
 裏返すとやっぱり――笑ってしまう。
 そしてつい、呟いてしまうのだ。
『杉崎さん――』
 思い返すたびに胸が苦しくなる。会いたくなる。声が――聞きたい。
 あれから。十二回どころか千回以上はきゅんきゅんしている。なのに――
「杉崎さんの、嘘つき」
 沿線は一緒のはず。でもあれ以来彼に会えていない。通勤時間が異なるのだろう。
 名刺はもらった。なら電話をすればいいはず――なのに。
 彼女は思う。
 ここで電話なんかしちゃったら浮気者確定だ……。
 それとも男を簡単に乗り換える女? うわあ……。
 彼女は目線を持ちあげた。淡いカーテンの向こうに掛け布団を干したままだ。杉崎と出会った帰りにスマホで検索をし、酸素系漂白剤に漬け込んでみたものの、初動を失敗したゆえか濡れた状態で行ったせいかまだらに残ってしまい。約一週間でどうにか乾きはしたものの中の羽毛がくっついてしまっていて。匂いも取れず。この有様ではクリーニングに出しても駄目そうだ。でもなんだか諦めきれず、例えば日光に干せばふかふか感をたった一日で取り戻す布団の驚異的な蘇生能力を信じ、引き続き干しっぱなしである。会社員ゆえ留守にするのに一週間強放置。流石にそれはどうかと思うのだが。しかも一階だし。でもそれ以外にどうしようもない。やはり――買い換えるべきなのか。あのお布団にはお金で買えない価値がある。
『あらあらこの子ったら泣いちゃって、もう、……お父さんももらい泣きするんじゃないの。お嫁さんに行くんなら捨てちゃっていいのよ。お布団っていずれ傷んじゃうんだから。お母さんがあなたに大切にして欲しいのはね。あなたのなかに生まれた宝物のようなその気持ちなの。……まったく。引っ越しの疲れなんてどこへやらね。お母さん、とっても大切なものを目にしているわ。愛してくれるひとたちの涙、ね……』
「あー」彼女は眉根を寄せる。大切な両親及び杉崎を思い出した直後。彼氏のことを考えると、気分が鉛のように重たくなる。なんだろう。杉崎と喋った時間は僅か一時間足らずだったはずなのに。あんなにも胸がときめいた。告白すると、幸せだった。抱きしめられ、初めての絶頂へと導かれ――
 恋に、落ちた。落ちてしまった。
 ――出会う順番が逆だったら。
 なんて考えても、しょうがない。時間を巻き戻すことも運命を変えることもできないのだから。
 よって、彼女にできることといえば、テレビも音楽もつけず。こうして、あたたかな愛に包まれた『それ』を眺めながら、彼との思い出に浸ること、なのだったが。
 激しくインターホンが鳴らされる。続いてドアを乱暴に叩く音。反射的に彼女は玄関を振り返った。この時間に来る人間といえば――ただひとり。
 玄関口に向かう彼女の胸に嫌悪感と困惑が広がる。
(やだ――なんで今夜?)
 木曜日に彼が来るのはこれが初めてだ。
 仕事柄、水曜日が休みの彼は、何故かスーツ姿で一日中パチンコをしたのちに、彼女の部屋にやってくる。どうやら仕事があれば来ない傾向にあり、あの悪夢の翌週の水曜日は仕事だったのか、来なくて彼女はこころから救われた。もう、来ないのかと思っていた。来なくていい。自然消滅をこころから欲していたくらいだ。彼が来るのはいつも突然。予告も事後も声がけなどもせず、一方的な欲求を叩きつけるためだけに彼女の元を訪れるわけだ。
 ――もう、セフレなんて、――懲り懲りだ。
 歩き進むうちに胃のなかに怒りが走る。
 よりによって、弄ばれた直後を、淡い淡い恋によって救われたところなのだ。いまさら――会いたくなど、ない。
 拳を握り、玄関のドアを開く。もちろんチェーンはかけたままで。「――なによ。うるさくしないで」
「カーナ」酒を飲んだと一発で分かる目。「なんだよー。おれが来たんだからすぐあけてくれよー。はやくやらせてー」
「あんった……」怒りに彼女は声を押し殺す。「そこ。見てこなかったの? あんたのせいで掛け布団悲惨なことになっちゃったの。まだ干してんの。大迷惑してんの」
「ふっとんくらいでぐちゃぐちゃ言うなよ―」ドアの隙間から男が手を伸ばしてくる。狙うのは胸だ。彼女のなかで嫌悪感が燃え上がる。「触らないで!」
「なーに怒ってんの。どしたのおまえ。生理? ……なわけ、ねえか、ははっ」
 ――いったい誰のせいでピルを服用していると思っている。血管が切れそうになるのをこらえ、どうにか彼女は自分の意志を伝える。
「わ、かれましょう……、あたしたち……」
「はあ!?」男が狭い隙間に顔を突っ込んでくる。「なに言ってんのおまえ。あんたおれなしじゃ生きてけないからだでしょー」
「生きていけないのは、あんたよ。いつもいつも、……ひとりよがりのセックスばかり、しやがって。
 あたしは、全然、感じてない」
 ――勇気を出して初めて真実を口にする。やわらかくてあたたかな彼女の肉体に暴虐を加え続けた行動主体に対し。
「ほー」男のからだが遠のいた。
 だが違った。
「ふざっけんなよてめえ!」
 悲鳴すら出せず、彼女は数歩後ずさった。ドアを力任せに蹴られていた。ここまで――暴力的なひとだとは知らなかった。自分はいったいなにを見ていた。
「カーナーちゃん。あーけーて。おれと、いいこと、しよう?」
 男の浅黒い手が滑りこむ。がちゃがちゃとチェーンの根本を探る動きに彼女は戦慄した。
「やめて! 来ないで!」
 ベッドの傍に走りこみ充電中の携帯を探す。まだ電池が70%、がこだわっている場合ではない。手が震え、まともにタップできない。その間に、遠目でよく分からぬが男はなにか道具のようなものを取り出した。器用に引っ掛け、チェーンにかけると。
 ――がちゃり。
 絶望的な音が彼女の鼓膜を貫く。
「カナちゃん。おれ、案外、冷静なわけよ……」
 ドアを閉め、しっかりと鍵をかける。
 靴を脱ぎ、こちらに踏み込んで――来る。
「来ないで!」彼女は絶叫した。そしてスマホを見せつける。「来たら――警察呼ぶから!」
「なに言ってんのおまえ……」酒に酔っている割には足取りが確か。そのことがかえって不気味に感じられる。「おれが、おれの女になにしたって自由じゃねーかよ」
「不法侵入罪よ!」恐怖を振り切り、彼女は声を引き絞る。「あんた、勝手にひとんちに入って、いったいなに考えてんのよ。別れるって言ってるでしょう!」
 そうしているうちにどんどん追いやられている。後ろにはベッド。最悪の状況だ。
 しかも、男のほうは、余裕を崩さない。「おれが、認めるとでも、思ってんの……?」
「じゃあ聞くけど。大吾(だいご)あんた、……あたしのこと、好き?」
「好きよ」男は薄笑いを浮かべる。「おまえのおまんこ大好き」
「そういうことじゃ、ないの……」あまりの憤怒でからだが震える。――やっぱり、この男は『違っていた』。自分はなにを見ていたのだ。
 彼女は思い返す。
『大丈夫?』
 彼は、見も知らぬ女性を思いやってくれた。
『とにかくお願い。自分の身は自分でちゃんと守ってね。きみは知的で美人で『太い』胸の持ち主で、どうにも魅力的、なんだから……』
 会って間もない、傷めつけられた彼女をあんなふうに気遣い、
『ぼくは、きみがどうしてもどうしてもぼくが欲しいって状態に至るまで、徹底的にきみのことを満たさなければならないんだ』
 彼女の意志を重んじてくれ、
『――十一回目にきみをきゅんきゅんさせるのは、このぼくだ』
 直情的に愛を、宣言した。
 いままでのはセックスなんかじゃ、ない。あれは結果論だ。本来、どうしても相手が欲しくて欲しくてたまらないからこそ。愛を伝えたいからこそ行う、清らかな行為であるはず。
 杉崎との交流を通じて彼女は気づいた。
【愛のある触れ合い】
【愛を伴わない一方的なセックス】――残酷なほどの、これらの違いを。
 ベッド際に追いつめられながらも彼女は声を張った。「セックスが目的で恋をするんじゃない! ――ひとを愛したいから。ひとを好きになるから。そういう思いが自然と声に行動に――出るものなの!」
 目を瞑っても鮮明に思い出せるのだ。――杉崎の声も髪のいろも彼女に触れるときの指の動きもすべてもが鮮明に。
『よろしくね――『カナ』ちゃん……』
 彼女は目に力を込め、目の前の男に訴えた。
「――あんたのはまるで真逆。あんたは、ただの、利己的な性欲に溺れた怪物よ」
「あそう」男の目が歪む。顔を回すとある一点で目線を止める。「――ん?」
 しまった、と彼女は思った。慌てて取ろうとするのだが、既に奪われていた。
 男は、小柄な彼女の手の届かない高いところにわざと持ち上げる。「なにこれ。R&S Corporation President 杉崎真司ぃ――? へーえ」ぴらぴらとそれを揺らし、「なーんか、おまえ、やっけに喋るなーって思ったら、こいつに入れ知恵でもされたのお?」
 彼女は、男に奪われることが我慢ならない。こころのなかにずっと大切にしている杉崎への想いが、汚されてしまう気がするのだ。「駄目! 返して!」
「いーよ。ほら――」
「あ――」
 彼女の目の前にそれが戻ってくる。
 愛おしい、お世辞にも綺麗とは言いがたいが走り書きされたあの文字――。
『杉、崎、さ――』
 こころのなかに彼への愛が蘇る。
 震え、涙ながらにそれを受け取ろうとした、そのとき。
「――なんてな」
 ぐしゃりと、目の前でそれが握り潰されていた。
 瞬間的に視界が、滲んだ。「酷い! なんてことするの!」
 彼女の剣幕に思うところがあるのか。「あそ。んならやるよ」ぽい、と投げ捨てる。彼女は慌ててそれを拾おうとする――のだが。
 またも、無慈悲にも足が、それを踏みつけていた。
 彼女は這いつくばり、太いその足首を掴んだ。「――どきなさい」
「あぁ?」とうえから男。
「ひとの――親切だとか誠意を踏みにじるあんたの足が許せないってあたしは言っているの!」
「男かよ」ぐり、ぐり、と踏みつけたまま足首を回す。彼女は止めようとするのだが力では敵わない。「おまえ。こいつとやっちまったから、おれ捨ててそいつのほう、走る、ってのね」
「杉崎さんとはそういう関係にないわ」いますぐ名刺を取り戻そうとしても無駄だ。彼女は立ち上がり、きつく男を睨み据える。「彼と話したのはたったの五十九分間。――でも。そのたった一時間足らずで、あたしは『分かった』の」
「分かったってなにが」意外にも男は食いついてくる。
「愛の正体」と彼女はなめらかに答える。
 理解していないだろう男に伝えても無駄であろうことを知りつつも、頭と口を動かす。
「大切だからひとは、触れたいの。
 愛おしいからその気持ちが自然と、行動に出るの」
 ……どうしてもここで杉崎が思い出される。声を震わせぬよう彼女は意識した。
「行為が目的なんじゃない。恋をしてお互いの気持ちを確かめ合うってプロセスがあってそのさきに行為があるの」
「……さっきと同じこと言ってんじゃん」
「かもね」と彼女は皮肉げに笑う。「分からず屋の誰かさんに、分かるように噛み砕いてなんべんも説明したげてるわけよ。交渉事って労力を要するからね……」
「ふーん……」男は顎をつまみなにか考えている様相。――こいつは、馬鹿じゃない。外では敏腕の営業担当。切れ者だということも知っている。でその反動があの強引なセックスと来た。おそらく――彼の外での顔に騙された女性も多いに違いない。そう彼女は判断する。
 しばしの黙考ののち。
「分かった」と彼は顔を起こした。彼女は本気で驚いた。「おまえの言うとおりだ。――別れる」
 彼女の衝撃度は膝から崩れ落ちてしまうほどだった。
 その彼女の肘に手をかけ、彼は、「ただし」と言い足す。
「最後に、一度だけ、おまえの望むような、本気で愛のあるセックスをすること。――これが、条件」
 彼女は目を見開いて男を見つめた。――いままでにない瞳がそこにはあった。
「いやよ」彼女は首を振る。「なんで、いまさら、そんなの――」
 ここで彼女は言葉を切った。
 男の背中の向こうにある、握り潰された『彼』の純粋性が目に入ったのだ。
 可能性を、検討する。……男は、一介のサラリーマンだ。守るべき生活も社会的ポジションもある。だが、裏で凶暴な顔を隠し持つ。もし、――その刃が、杉崎真司に向けられたとしたら? 男は杉崎の名刺を見ている。HPも持っている会社だ。場所を割り当てるのはたやすい。かつ、さきほどの暴虐を思い返す。あれを、ほかの誰かにもぶつけぬ保障など――できないではないか。
 彼女は震えながらその結論をはじき出した。
 ――盾となるのは自分しかいないのだ。
 珍しく、男がなにも言わずに見守っていた。彼女が思考を走らせていることが分かっているのだろう。
 意を決し、彼女は口を開いた。「いいわ」
 しかし、人差し指を一本立て、
「けれど。こちらも条件をつけさせてもらう」
 なぁに、と男の口が動くのを見届け、
「――あたしね。あんたにどんななにをされたって、絶対に、声なんか、出さない。一言も、絶対に」
「それがマスターできたらおまえはなにが欲しいの」
「杉崎真司の、一生涯の身の安全」一語一句をはっきりと彼女は発音した。「……あんたが、彼に、絶対に手出しはしないと。彼を危険な目になど遭わせないことを、約束して欲しい」
「……分かった。約束する」酒はもう抜けたのか。思いのほか神妙な顔で男が頷く。「それとは別に、なんか希望とかある? どーゆープレイがいいとか……やっぱ正常位?」
「事後は、二度と、お互い、顔を合わせない」彼女は、男を無視する。「――見かけたとしても、他人の顔を貫く」
「うん。まだあるか?」
「写真や動画撮るとか、なしで……」
「おれね」男は彼女の頭の後ろに手を添える。「いままで一度だって、そんなことをしたことがなかったんだぜ。ライブ感がたまらんっつうか、そんときそんときを、味わっていたの」
「まるで別人ね」冷たく彼女は男を見据える。「そんなふうにできるんだったら、どうしていまのいままでしなかったの」
 すると既に彼はもうスタートしていた。迷わず彼女の首筋を吸いあげ、「……外で気ぃ張ってるぶん、なかで憂さ晴らししないと、やってらんないのよ。惚れた女には……」
 からだを撫で回されながらも強気に彼女は言い返す。「……世のなかがあんたみたいな男ばっかりだったら、大変なことになるわね」
「そうだね」と男は彼女の背中に手を回す。彼女の首筋の浮いた青白い血管を舌でちろちろとトレースし、「そういうのが個性ってわけ。……なあ。このままここでする? それとも、ベッドのうえがいい?」
 彼女は敢えてなにも言わない。すると男は、
「分かった。ベッドね」と言い、彼女をベッドのうえへと誘導したのだった。

 * * *

 世界は――静まり返っていた。
 ただ、男の唇が立てる音のみが響く。
 彼女のからだは男の唾液まみれだ。舐められていないところなど、からだじゅう、どこにも残っていない。
 どうやら男は『分かった』のか。全身吸いあげたのちに彼女の前に回り込み、彼女の弱いところを、柔らかなタッチで舌で転がしていく。
 導こうとする目的が明らかな動きである。
 複雑な気持ちとともに彼女は顔を持ちあげる。男が彼女のからだを見つめる表情は真剣そのもので嘘がない。こちらには一切目を向けないほどの集中力。……最中の男の顔など、いまのいままで見たことがなかった。
 やがて男は彼女のやわらかなそこを寄せるようにし、顔を揺らし素早く交互に舐め回す。引っ張っては飲み込み、勢い良く離す動作を繰り返す。彼女のその丸みを愛おしみ、愛でるように。時折、顔をあげて優しく首筋を舐めあげ、顎先にまで到達すると口を開いて包み込み、その後、自分の唾液で濡れているにも関わらず、頬をゆっくりゆっくりと回して円を描き、愛おしむ動きを与える。
(や――)
 ベッドを掴む手に力をこめる。腰が引けてしまうのはどうにもならない。顔を背け息を押し殺す。――思えば。男と対面することなど、最中においては皆無、だった。するときは必ず後ろから。最初から最後まで激しく突くのが彼のセオリーだった。
 それに、こういうときに必ず男は彼女の状態を彼女の望まないかたちで言葉を用いて表現した。
 それがいまはどうだ。
 別人のように静かに――女のからだを、ただ貪る。
 まるで彼が、本気で彼女を、愛しているかのように。
 そして男はやや主張を始めるそこを、まるで女が男に腰を振ることで愛されるときと同じように息を、頬が細まるほどに強く強く吸い込み、音を立てる。男の動きが激しくなる。あまりにもいままでの『激しさ』とは種類が違った。彼女は、気を抜けば持って行かれそうな自分を感じ、ベッドに爪を立てて必死で抗う。
『杉崎さん――! 杉崎さん杉崎さん!』
 本当に、これをして欲しいのはこの男ではないのだ。違うのだ。なのに――
 呪わしい。
 異常なまでに丁寧に丹念に、執拗に女を愛しこむ彼の手腕が彼女を蹂躙する。
 いままで、やさしく撫であげるかやさしく包み込む動きだったのが一転。すべての指の腹を使って一気に着実なリズムで揉み込み、まるでおれがおまえを愛していると言わんばかりに強く頂きを吸う。狂おしいほどに。
(あ、あ、あ――)
 とうとう、歯を食いしばるだけではこらえきれず、脱ぎ捨てられていた自分の衣服を引っ掴み、口のなかに押し込んだ。
(駄目――!)
 ――悪魔にだけは魂を売り渡さない。
 いくらそう祈っても。願っても。――嫌いで付き合いはじめた男ではなかった。優しい顔を見せることもあった。長い髪を珍しくもお団子に結い上げてみると『いいじゃん』と目を細めて笑った。いつもに比べるとそのときは優しかった。『えっろ』と連発され、やたらうなじを吸われた。
 突然、耳にキスをされて驚いて見返すと『ほんと、――可愛いのなおまえ』ぽんぽん、と頭を撫でられた。
 ひどく求めたあと。たった一度だけれど。ごめんね、と言って髪を梳いたこともあった。
 彼女の目に涙が盛りあがる。意味が――分からない。いままでさんざん弄んでおいて、なんで、この期に及んで、愛のあるセックスなんかにトライするんだろう。大迷惑だ。そんなの、ほかの女にやってくれればいいのに。
 こんなときに限って彼のすこしでも優しかったところ、触れ方、言葉、そのすべてがたったいま、彼女のこころのなかに散らばめられ、いまの彼のひどく優しい愛し方を媒介して彼女を徹底的に痛めつけていく。
 彼は、彼女の両膝に手をかけた。割り広げ、中心にあるそこを、――
(いや! 駄目、それ――)
 間違いなくそこは。いくら『彼氏』になにをされても濡れなかったはずのそこは。
 そして一切沈黙しているのは、その音を強調させるためなのだと。彼女は確信した。精神的にも聴覚を用いて陥落させるのが男の目的なのだと。
 ふー、と長く息を吹きかけられ、浮かせた彼女の背中に鳥肌が走る。直後、親指と中指をくっつけるようにし、しぶとくそこを愛撫していく。
「――ん。ぐ。ぐぅ……」脳の血管が千切れそうになりながらも彼女は、耐えた。耐え切れず頭を抱え込もうとしたそのとき、彼の手が、彼女の弱さを摘まむ。
 彼女は涙を振り切り、逃れようと腰を揺らした。――のだが。男の左手が白い内ももを固定し、それが、許されない。
『――いきなよ、カナ』
 男の声が聞こえた気がした。彼女は首を振る。絶対に――負けない、と。
 するとそこを彼の指が飲み込んでいく。――指など挿れられるのは初めてだ。
(駄目、いや。いや……!)
 彼女の声は届かず。男の動きはより強度を増す。自分の股のあいだから耐えがたい音が奏でられる。挙句なかを探ろうと内壁をこすりあげる動きが与えられる。
(杉崎さん。杉崎さん杉崎さんお願い助けて……!)
 いやだいやだこんなのはいやあたしあなたの顔が――
 彼女が眉根を寄せ必死に愛する男の名を叫んだとき――
『カナちゃん』
 確かに、『彼』の声が聞こえた。
 彼女は『その世界で』目を開いた。冷たい、丸い大理石のうえに立っていた。カナの記憶が正しければここは――一面白の世界。空も足元も見えるすべてが。どこを見回しても白――なのだが。先を歩く男が居る。そう、『HOUSE』へと向かって。
(――杉崎さん!)
 振り返るとやはり――彼だった。綺麗に整えられた襟足。そして明るい髪のいろ。気づくとこちらへ駆け出してくる。自分だけがはだかで彼はあの日と同じスーツ姿、だがそんなことは構いやしなかった。差し伸べられる大きな白い手を、ためらいもなく掴む。――あまりに官能的だった恋人繋ぎ。皮膚が重なりあうだけで彼女は蕩けそうになる。
(あ――)
 すべてが彼女のなかで集約する。彼は目を合わせ彼女に笑いかける。
『きみがめちゃくちゃ可愛いから、びっくりしちゃったんだよ』
 愛おしい。彼女は彼を自分から抱きしめにいった。大切な大切な愛おしい男を。
 彼女のやわらかな胸に顔を埋めたのちに彼は照れくさそうに笑いそして顔をあげる。――星のかがやきを全面にたたえたあのうす茶色い瞳で。――おれ、……やらしい男でごめん。あのね。今度教えて。
 おっぱい、     なの……?
(え……?)
 最愛の男と愛の目線を絡め繋がり想いを確かめ合った瞬間、――からだの中心を激しく突き抜けるものがあった。
 全身が、――大きく震える。異常なほどに。ゆっくりと、緩慢に。
 愛する男にのみ示したそこが開ききったのが分かる。ここでようやく、「ああ……」と誰かが息を漏らした。――そこでいま誰がなにをしているのを彼女は理解した。
 彼女は傍観している『エイプリル』『サラ』及び『グランマ』に呼びかけた。
(――お願い! 最初で最後のお願い。――あたしは、いまから自分を『閉ざす』から。ちょっとでもいいから力を貸して……!)
 ――ったく。しょうがないなあ。と染め上げた金髪をかきあげ『エイプリル』。
『まあ――頑張りましょう。すこしでもちからになれるように……』
 目を塞がれたまま『グランマ』に従う『サラ』。下手をすればフロイトの言う『原光景』だ。見ないで正解。
 彼女たちが胸のなかに降りるとあたたかさが加わり――力がみなぎってくる。
(――杉崎さん)
 最後に彼女は涙を流した。たったいま、一瞬でも逢瀬を叶えられた。それだけで充分だった。
「こんなふうにいくんだな、おまえって……」
 男の声が近づいてくる。
「……せっかくなら声、聞きたかったぜ」
 彼女は目を開いた。怖いものなどもうなにもなかった。
 すると見知らぬその男は彼女の頭の後ろに手を回し、彼女の顔を近くに寄せ、
「ったく。ここまでしても、駄目なのかよ」苦しげに笑う。直後――。

 * * *

 激しく彼女の姿を追い求めた。
 分かっている。もう、彼女は自分のことなど見ていないことを。――当然だ。
 あれだけ、傷つけてしまったのだから。だから、いまこそ――たっぷりと愛を与える。頭から水をかぶせるかのようにおびただしい愛を。――というのに。
 ある程度は成功したと思う。それは分かった。感触が、いままでとはまったく、違った。
 だが彼女は最後まで。意志を貫いた。その理由は分かっていた。
 ――愛ゆえ。
 最愛の男を守りぬくために身を差し出す女の献身。
 ――昭和の大河ドラマじゃあるめえし、と笑いたくなるのだが――。
 できなかった。
 いままでにないほどの感情が、自分のなかで膨らんでいくのが分かった。
 皮肉にもそのタイミングは、自ら持ちかけた別れの直後。取引の条件として身を呈す彼女を初めて愛そうと試みることであり、彼は、自覚するのだった。
 ――おれは、この女を、愛している、と。
 仮にもし。どんな手を使っても。どうにかしてからだだけを手に入れたとしても。この女がこころを受け渡さないことは確実だった。
 まっしろで。やや汗ばんで一部赤く染まりつつあるその肉体が彼の目に眩しかった。
 初めて、真正面から彼女のからだを抱きしめる。愛おしい膨らみを撫でる。口に、含む。口許を引き結び、彼女が一度きり首を振る。あの艶めかしい、あの瞬間にだけ見せる女の尊さはどこにも残っていなかった。彼女は平静だった。もう――潮時だ。
 彼女の弱いところを舐めあげた。顎を上下させ、何度も、何度も。歯を顎を舌を唇を駆使し。願わくはもう一度あの清らかさを、と願ったのだが。
 固く握りしめる小さな手を見た。
 無駄なことが、分かった。
 屈せず、戦う華奢な女の真っ白なからだが、急に愛おしく思えてきた。
 だから、潤んだそのやわらかな唇を、塞いだ。吸いあげた。かたい自分の胸を使いやわらかな彼女の胸をこすりあげる動きを混じえても返ってくるものがなにも、なかった。
 業を煮やし、舌を絡ませる。彼女は応じなかった。初めてのキスだった。なのに最後になってしまった。いままでしなかったことが悔やまれた。女が欲しかった。
 それから、ティッシュでそこを拭ってやった。性的な感じを混じえてみても、彼女は眉一つ、動かさなかった。
 名残惜しさを感じつつも、彼女の元を離れ、身支度を整える。
 ドアを開いたときに一言だけ吐いた。
「……強情っ張りめが」
 聞こえているかどうかはこの際どうでもよかった。
 そして彼は、彼の世界へと帰っていった。

 * * *

 彼女は、ゆっくりと目を開いた。
 熱いシャワーでからだを洗い流したかった。記憶を――消したかった。
 悔しかった。悲しかった。あんなことをできるのなら最初からすればいいのに――といくら思っても無駄だった。
 最後だから、なのだ。
 愛しているわけでは、ない。
 あんなのは、愛ではない。彼女は認めたくない。
 涙を拭いた彼女は、ひとまず、バスルームに向かった。その頃には、三つのことを、決めていた。
 ひとつ。明日のお昼休みに美容室に電話予約を入れる。
 ふたつ。お布団を買い換える。
 みっつ目は――
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