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insider

第三話(5)愛す女

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 目の前で別れに目を潤ませる男になにが伝えられるだろうか。――友哉という男は、多恵子にとって、特別だった。愛する男そのものだった。
「傍から見たら、『このおばさんなにやってんの』――って話かもしれないけれど。あたし、あなたとのことを、誇りに思っている。誰に、なにを、言われようとも――」
 頬を刺す冬の外気。間違いなく、時は流れている。残酷なまでに。誠実に。
 緊張を抑え込み、多恵子は、胸のなかでふるえる真実を、告げようとする。
「あなたに出会えて、幸せだった。
 ……友哉。ありがとう。
 あたしに、こんな気持ちを教えてくれて……」
 多恵子は思い返す。何度絶頂に導かれただろう。
 宝物のように丹念に愛しこまれ、幾度となく女としての存在意義を見出した。
 宝物のような時間を、友哉はくれたのだ。
 愛人ではない。恩人だった。
「あなたの、幸せを祈っているわ……友哉。
 自分で信じた道を進んでね。
 この先ずっと、あたしはあなたの味方だから……どんな、なにがあろうとも」
「多恵ちゃん」
 まっすぐ、友哉が多恵子へと歩み寄り、その頬に手を添える。そして――
 想いを、重ねた。
 吐く息が白い。その白い息が一体となり、いま、この一瞬、誰のものでもない、多恵子は、友哉だけのものとなり果てる――その感覚も。鼓動も。
 ぎゅっと多恵子を抱き締めると友哉が、
「愛している。……さよなら」
 聞き違えだったろうか? 味わったと思った友哉のぬくもりがたちまち離れていく――この界隈で、別れを惜しむ恋人たちなど、珍しくもなんともないのか、別段、彼らに好奇の視線を投げかける者はいない。友哉の美貌に見惚れる女たちを除いて。
 人混みに紛れていく友哉の背中に、多恵子は叫んだ。
「――あたしも!」
 振り返った友哉のすらっとした肢体が浮かび上がって見えた。彼は手を振り、なにかを言って笑った。――さよなら、と言ったのであろう。
 視界が、滲んだ。いまならもう、あのひとのことも、自分のことも――それから友哉のことも、赦せる気がしていた。
 自分の進んだ道が、間違っていないと気づいたいまなら。

 * * *

「さーて。書きますか。頑張りましょう」
 執筆前に一声かけてからパソコン前で作業を開始する。――友哉と別れて間もなく、多恵子は、元々その手の小説が好きなのがあって、生まれて初めてロマンス小説を執筆し、Webで公開した。
 最初は、思うような数字を出せず苦しんだ。いまも勿論苦しい――が。
 それ以上に、顔も知らない人間に見て貰えることの幸せを感じている。
 いままで、自分がされてきたように、幸せにする作業がしたい。――それが、多恵子の願いだった。
 自分の名前同様、誰かに恵みを与えられる人間でありたい。
 執筆してまだ一年。猛者の多いこの界隈ではまだまだひよっこといったところだ。一度軽くバズったときなどは散々ヒーローをディスられて苦笑いしてしまった。彼女も粘着質な読者サイドに回っていたことがあるから、気持ちは分からないでもない。
 思うようにいかないのが、憎らしいのだ。
 多恵子自身も、スマホが普及した辺りから、せっかちになったのを感じている。
 待てない。違うことが、許せない。いつか友哉が語っていたではないか。
『人間は、さらけ出す生き物なんだよ。多恵ちゃん。
 赦し、赦されて生きていくんだ――』
 たとえ散々読者にキャラをクズだのチョロイン呼ばわりだのされても、自分だけは彼らの味方になってやろう。何故なら、彼らは自分が生み出した愛おしい分身なのだから。化身とも言う。
 小説を書くようになってから、友哉の言う意味がよく分かるようになった。――とある小説家の言を借りると、小説を書くこととは即ち、日本橋のうえで素っ裸になることに等しい――と。激同。
 やれやれこんなナルな作者うぜーな、と思いつつ、でも、今夜はちょうど友哉と出会って一年が過ぎた日。仕事も小説も自分のメンテナンスも頑張る自分にご褒美をと。ハーゲンダッツの新しい味にした。
 冬の、さっむーい時期に暖房を強めてひーひー言いながら食べるアイスがたまらない。
 そして、一日の終わりに、日課としている、友哉のブログを覗いた。どうやら、友哉もあれ以降なにやら気持ちの変化があったのか。ブログを開設し、たちまちコメント欄は炎上状態だ。彼を支持する層と、非難しまくる層。ママタレのブログなんかも見ていると思うが、そんなに嫌いなら見なければいいのに。世の中には精神的に毒となる要素を積極的に取り込む不可思議なマゾヒストだらけなのだなあと――半ば感心しつつ傍観している。
 友哉は暇人なのか。毎日、短めのブログを更新している。その日のタイトルは――
『忘れられないひと』
「えっ」
 期待してクリックをすると、彼女の目に飛び込むのは――

『この子です』

 奇しくも、記事に貼られた写真は、多恵子が食べていたアイスと同じもの。

(うっそっ!)

 コメント欄は相変わらず炎上状態だ。タイトル詐欺だろ。女殺しがなに好感度あげにかかってる。売春野郎。タヒね。
 けれども、改めて多恵子は感じる。この広い東京で、偶然巡り合い、同じ日に、同じものを選ぶ奇跡は、天文学的確率であろう。
 もう――友哉と会うことはない。自分は、提供される側ではなく、提供する側に回った。それはこの一年をかけて、多恵子が築き上げてきた意地とプライドで構成された城である。――けれど。
 せっかくなので。
 予備に買っておいたアイスを、冷凍庫から取り出して、PC前でぱくつく。

「あたしも、忘れられなんないよー。ばぁーか。友哉ぁー」

 ぐず、ぐず、と泣けてくるのだが――は。いかんこれではいかん! と作家魂に火がついてしまう。――泣いてなんかいらんない! 友哉が戦っているのに! そうだ! このことをネタにしよう! 友哉に、いつか分かるように、彼にしか分からないエピソードを盛り込み、小説にするのだ。
 そのためには、もっともっと腕を磨いて人気者にならなくては。――うぅーん腕が鳴る。
 画面を前にふと多恵子は考え込む。
「――タイトル、なににしよう?」
 セカンドバージン。友哉は二度目。なら――ロストバージンサービスなんかどうだろう! ――うん、いい!
 既にそのサービスが存在することを存在することを知らず、多恵子が椅子から転げ落ちるのはこの数分後。いつまで経っても色あせぬ友哉への愛を感じながら、アイスを頬張っていたときだった。

 *
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