碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第二章 それは不幸なことじゃない

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「ごめんね。宮本(みやもと)先生には真咲のことちゃんとゆうといたから」

 私は鮭の骨を取り除けていた。この地方の焼き魚は全般に、塩が強い。
「二十人ですんで明日はよろしゅう頼んます、……やって。予約八名やったんにお母さん聞き違えたかと思うたわ」冷茶を含み母は一息つく。飲むものも飲んでなかったのだろう。まだ暗い目の覚めないうちから、かちゃかちゃと階下の台所で働く、商売をする家独特の気配が起こった。私はそれを、薄い掛け布団に丸まりながら感じた。「お役所のひとなんに急なことゆうもんなげね。事前に連絡あるだけましやっておじいちゃんはゆうとるけど仕入れも仕込みもあんねし。ほんに、三人で回せるかやって分からんわいね」
 でも断れないのが客商売の悲しいところ。学校と役所関係は主要な得意先。
 私の調理の腕前を知る母は、手伝うように言わない。
 転入する緑川高校に挨拶に行くといっても顔を出す程度のこと。今朝方電話を入れたところ、こちらの慌ただしさを察してか、担任の先生は「私は毎日来とります。お忙しいようでしたら別の日でも構いませんよ」と気さくに仰ったんだとか。

 せっかくですから娘さんだけ一度来てみませんか。転校する先がどんなんやか実際見てみんと不安もあることでしょう。盆でちょうど生徒ははけとりますんで、校内自由に見て回るんにはいいかもしれませんね。

「……えらい気ぃつく先生やったわ」ずいぶん若い感じなんに、と母は感心した様子。「それやってもやっぱし、真咲だけやと心細いやろか?」私はお味噌汁の椀から口を離し、ううん、と首を振った。
 ここで一人じゃやだって駄々を言うほど私はお子様じゃないし、人様の好意を無下にするほどにひねくれてもいない。
 担任の先生に声をかけるだけのミッションならばはじめてのおつかいよりも簡単だ。
 母が詫びるべき部分はもっとずっと違うところにあると思うけれど、それは言わずに置く。

 場所は聞いた通り。

 うちの二つ前の国道を道なりに駅まで進むとバスロータリーで左に折れて直進。ローカルな銀行の角を曲がってすぐそこだ。
 母の手書きの地図を一旦ポケットにしまう。
 ドラマで見る刑務所を彷彿させる長い塀を回り、影を縫い、建物の概要を確かめる。東京ドーム一個分は固い。三階建てで塀とお揃いの薄灰色で、同じ時期に建てられたのだろうか。教室らしい窓がいっぱいくっついているのは全て閉ざされて人影もなく、昼間で電気も点いてない。一見廃校。……よく見れば壁掛け時計の下にひびが入っている。大丈夫なのか。

『転校する先がどんなんやか実際見てみんと不安もあることでしょう』

 ――現時点で既に不安だ。私の通っていた私立よりひどく見劣りする。レンガ造りの洒落た外観で硬式テニス用のクレーコートも完備されてた。ここ、ラクロス部なんて絶対ない。玄関前の広大な駐車場に停められた車はたった三台。白いバンとカローラと誰が乗るのか、白の軽トラ。
 鉄の門扉は開かせて警備員の姿もない。セキュリティ的にどうなのだろう。
 突っ立ってると日光がシャツの背を滲ませる。日よけの場所がないのだ。日射しから逃れ逃れ無人の駐車場を突っ切り、なかへ入る。
「すずしー……」
 胸元を掴んで風を送る。行儀悪いけど本当に誰もいない。日陰。花瓶。石の床、開け放たれた空間の涼しさ。それでも何か、……臭う。腕を嗅ぐ。私じゃない。玄関臭と、なにか古本屋に迷い込んだ妙な匂い。左手に下駄箱がある、あそこからだろうか。フタのついていない、正方形に組まれた、簡素な下駄箱。入っている靴はスニーカーが主で数える程度。こんな時期に誰も来ない。したがって来客用のスリッパなど並べられておらず、空いている箱にランダムに突っ込まれてる。この、土足と内履きを同じ箱に無造作に入れるやり方がなんとなく気に障る。案の定、すのこの上などじゃりっじゃりだ。私はなるべく汚れてないのを選ぶ。うちのと同じ茶色い便所スリッパ。床の硬さがもろに伝わる、ずっと履いてるとかかとが痛くなるタイプ。今日は靴下を履いてきた。
 正面のパネルによれば、校舎の角に位置するのがこの職員玄関。右の廊下をずっと進んで左。ずっと進んで左。
 左からパネルを覗く奇妙な体勢になりながら復唱する。地図の読めない方向音痴はこんな風に苦労する。視点を地図に合わせられないのだ。地図をくるくる回してるひとを見かけるとああ仲間だと密かに思う。
 壁に手を触れながら歩くさまは、青い鳥でも探しに来た子ども。はたまたヘレン・ケラーを演じた北島マヤ。ハタから見ればさぞ奇妙に映ることだろう。ついでに窓からの直射日光も避けられるというか。
 幸い、職員室までは一本道。やがて、白い表示が見えてきた。
 ガラスばかりで開けていたこの学校、初めて開けてない場所に突き当たる。
 ノックをすると、すぐ返事が返ってきた。
「失礼します」
 どこだって職員室の風景は変わらない。整然と並んだ灰色の机に雑然と積み上がった書類の束。この学校が違うのは……私が後ろにした壁と並行するあちらの壁は一面が、緑いっぱいの腰高窓だということ。壁面絵画の開放感。この学校が誇れるのは唯一、あの庭だろう。遠目にもきちんと手入れされてる。
 一見誰の姿も見えない。そんなはずはなく。右にひっそりと来客用のスペース。小さく、ぱたぱた。耳をすませば扇風機の音も混ざって聞こえる。
 仕切戸の向こうに回ってみる。
 やっぱり、おじさんだった。
 いかにも校長室に置かれてそうな黒い皮のソファーにでっぷりと腰掛ける、横柄な感じのそのおじさんは、私が寄ろうとも新聞で顔を隠したままだった。レトロな扇風機が送る風にふさふさの髪をなびかせるままに、片手うちわで自身をあおぐ。足元は本当のこれが便所サンダル。
 気づかない様子。
「あの。すみません。宮本先生は……」
「んん?」驚かない辺り単に返事が面倒だっただけのようだ。「宮本先生か? おらんかったら生物室やろ」
 生物室と言われても。
 戸惑う気配を感じてか、新聞を下げてじろりと目をよこす。
「えーっとどちらさん?」
「九月からこちらに転校する、都倉真咲といいます」
 お世話になります、ってちゃんと頭下げたのに。
 新聞畳んで上から下まで眺める。おじさんの、値踏みする目線は毎回なんなのだろう。あんまり、いい気はしない。
 その値踏みとやらが終わると、そか、そやったか、と口の中でつぶやく。ボタンを掛け違えたようなどこか腑に落ちない面持ち。
 服が……いけなかっただろうか。白地にピンクのギンガムチェックのワンピース。改めて見るとノースリがお子様な感じ。制服くらい着てくればよかった。でもできあがりが間に合わなかった。ウエスト辺り祖母の手縫いで調整が必要だし。私はいまだに小学生と間違われる背の低さで、アトラクションの年齢制限だってたまに引っかかる。
 内田先生と名乗ったその先生は、「生物室やったら、こっから渡り廊下で向こうの校舎行って、三階の奥やぞ」と教えてくれた。
 渡り廊下、と向こうの校舎。分からない単語が二つ。無事にたどり着く自信はないけれど、玄関に戻ってパネルで確認すればどうにかなるだろう。お礼を言って、職員室を辞す。
 玄関への道をすこし戻ると、がさ、と紙袋が柱のでっぱりにこすれた。

 ――忘れてた。

 母から鳩サブレを渡すようことづかっていた。かさばるこんなのを何故忘れていた。きっと緊張していたんだ。
 スリッパ音がやけに廊下を響くのを気にしつつ急ぎ、職員室に戻る。ドアの前に立つと今度は自動で、開いた。
 自動のはずがない。

 そこからの動きはすべてスローモーションだった。

 あるはずの場所にないもの、確かめようとする手が虚しく空を切る。
 前傾する自分。視界が白く変化する。なにが起きたか分からないうちにぶつかる。
 痛い。
 固い。
 ポロシャツの胸だった。
 鼻から思いきし激突、バウンドして後ろによろめく。
 転ぶとき女の子は顔かばって両手をつきなさいと親から教わった。後ろにすっ転ぶときはどうしたらいいのだろう。
 などと迷っているうちに尻餅をつく。後ろ手をつく暇もなかった。
「あいった」
 舌を噛みかける。腰骨に響く鈍い痛み。持っていた紙袋は消えた。……ああ。そこに転がってる。なかがおじゃんだ。
 ぶつかってきた、いや、ぶつかられた男の人は動かない。使い込んだ白と青のズック。紺のツータックパンツは明らかにここの制服。生徒だ、何年生だろうか。
 なにげなく上に目をやると、

 息が、止まりそうになった。

 こんな綺麗な人、見たことがない。

 冷たい、深い黒の瞳に見据えられて、素直に鼓動が認める。眼鏡がすごく似合う。細身の銀縁。斜めに流したアシンメトリーな前髪が理知的な印象を増幅させる。
 例え不快げに眉を歪ませていても、相手を恍惚とさせるに十分な威力だった。
 小さく開いた『あ』のかたちで固まっている、薄く紅のさす唇の色、……白肌とのコントラストが歌舞伎俳優みたい。
 とその口が、動く。
「なんだ。中学生か?」
「ちょ」
 慌てて裾を払い立ち上がる。前と後ろ。紙袋も勿論拾う。
「中学生って」
 何か言ってやるつもりで正面に立つと、首の角度がえらいことになった。
 ――祖父より背が高い。
「違うのか」
 このひと、声もすごく綺麗。低くって涼やかな。
 一瞬聴覚までも魅了されるが、気を強く持つ。
「違います」
 ぶつかられたら自分が悪い悪くないに限らず、謝るってのが筋というもの。(私はタイミングを逸した)しかも中学生呼ばわりって。
 拳を固め、「あ。あのね……」と言いかけたところを。
 邪魔が入った。
 ううん、邪魔というか。

 もう一度後ろに転げたっておかしくはなかった。
 戸口に手をかけ、ひょいと顔を覗かせる存在に。

 なにこの子。目がびっくりするくらい大きい。瞳孔の周りの虹彩が琥珀。まつげ長い。肌きれい。日本人? 精巧に作られた西洋人形みたい。ウェーブがかった髪がロングだったら完璧なのに。
 私の姿を認めると、その子は口角を弓なりにあげる。ただの口の動き一つに釘づけの自分がいる。
 こんな反応もまとめるみたいに、ふふ、と息をこぼす。

「鼻、真っ赤になってるけどキミ、このうどの大木とぶつかった?」

 ――男の子だ。

 あんまりにも美人で女の子だと思った。よくよく見れば喉仏が男の子のそれだ。
 うどとは余計だ、と不快げに言う黒髪のほうに向き直る彼の、私は喉仏を凝視してしまう。「マキってばさあ、無駄にでっかいんだからちゃーんと気をつけなきゃ駄目じゃん」
「無駄とはなんだ。だいたい、前も見ねえで突っ込んできたのはこの中学生だぞ」
 私のなかに苛立ちめいたものが生まれる前に。
 美少年は職員室から身を出す。彼と完全同じ制服だ。もう一度私の目を覗き込むと、首をかしげる。
「中学生、……うにゃ、小学生?」
「知るか」
「かわいそうに。緑高(りょっこう)に来たばっかりにね」
 ふっと瞳を細める。目線の高さを合わせるおまけつきで。
「ごめんね、怖がらせちゃって。キミ、会いに来たんでしょ」色々と違うんだけど。思わず頷きかける説得力。「お兄さんかなーお姉さんかなー名前。教えて? 三年生? よかったら教室連れてってあげるよ」 
「知ってんのか。誰の妹だ」
 ううん、と首を振り、しなやかな伸びをする動きが猫っぽい。「いいよねー、兄妹って。僕も妹が欲しかったなー」
「いたらロリコンだったろうがな」
「ロリコンじゃなくてシスコンね」動きを止め、マキって時々単語に弱いよね、とちょっと呆れ顔をする。「んでもし。仮にいたらさぁ、美少女姉妹とか言われんだ絶対に。それも嫌だ」
「普通自分で言わねえよ、美少女って」
「たまに間違われるからね。いまだに」
「女装似合うんじゃねえのか。学祭のネタとして一つどうだ」
「勘弁してよ」
 黒髪の彼は眉間にしわが寄りっぱのくせに、意外にも二人の間でテンポよく会話が成立している。
 ところで私は完全に突っ込むタイミングを見失った。
 これ以上続いたらどうしようと思った頃合いに、
「おいお前ら、なーにをそこで騒いでおる。職員室やぞっ」
 黒髪の彼が道を退く。さっきの恰幅のいい先生だ。私を見つけると、おお、と声をあげる。
「ちょーどよかった。転校生やぞ。お前ら一緒のクラスなんのやから仲良くしたれや」
 黒髪はやや眉を歪めた程度だが、茶髪は喉の奥を丸見えにして大きく口を開いた。
 そんな彼らに対し。

「二年四組に編入する都倉真咲です。よろしくお願いします」

 こんな笑顔が出るのかと恐ろしくなるくらいの営業スマイルで私はニッコリと微笑んだ。
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