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第十五章 マキが幸せでいてくれれば
(3)
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「うす」
息が、止まる。
伏せていた目をあげ、預けていた背を壁から離し、組ませていた長い足をほどく。
「長谷川からこいつを預かってる」彼は鍵を空に泳がす。「下田との打ち合わせが長引きそうだから、部室開けておけとな。おまえ、いまから行くのか」
先生を呼び捨てにしてる。
明らかに出待ちしてたのに。
そんなのより問題なのは、
「あ。うん……和貴と紗優は居残りがあるから、先に行っててって」
「そうか」
なんの意識も持たずに進む背中を。
こんなにも意識する。
二人で歩く、なんて――最後にこんなことがあったの、
いつだったっけ。
心臓が早鐘を鳴らすなんて、異常だ。
それどころか振り返りざまに笑いかけられる。
「――来週。二年の連中が修学旅行に行くのは知ってるか? ゴールデンウィークから続いて連休に入んだ。まったく、フザけてるよな」
フザけてるのは私のほうだ。
緊張する収縮するこんな、
話しかけられるだけで顔が、
「どうした」
赤くなる見られたくない気づかれたくない、
「熱でもあんのかおまえ」
「やっ、」
屈んで、覗き込まれるのが怖くて、
伸びてくる手を振り払ったそれは、
思いのほか派手な音を立てた。
周りの注意を引くのが分かった。
「ご、めん……本当。なんでもないから……」
「そうか」
すり抜けていく彼は。
ああ。
手のなかに鈍い痛みが残される。
なにをしたいのかが分からない。
離れられると、近づきたくなる。
近づかれると、遠ざけたくなる。
肩を並べることなど選べず。
突き進む彼の勇気を私は、眺めるだけとなる。
透明で分厚い壁が私と彼の間にそびえている。
「……どうやら入れ違いだったようですね。蒔田先輩」
「どけ。いま開ける」
悪びれもせず、言葉通り安田くんを手で退けて鍵をドアを開いた。
「川島くんて今日お休みなんだっけ」
話しかけたつもりが、
「修学旅行の準備とか、あるんだろうね。……懐かしいなあ」
彼はディスプレイから視線を譲らない。
「私ね、中学のときは北海道に行ったの。安田くんは行き先どこだった?」
「知りません」
「そっ……」
パソコンルーム一室に現在三名が入室。隣の安田くんはおろかお向かいさんも超沈黙者だしとどのつまり、気まずい。
タスクから話しかけられれば嬉しそうにするのに、
私からだと不服げで、無視されることもしばし。
で更に話しかけるのも、自分が対小学生に道徳をとくとくと説くヒスな女教師に思えてくるというか……
ため息を押し殺す。
各自黙々と打つ。
会話ゼロ。
空気が重たく感じるのは私の気持ちのせいだろうか。
「ねえ安田くん。サーバに議事録が二つあるんだけど、どっちか消していいよね。紛らわしいし……」
「バージョン2のほうです」
「分かった」
……タイピングで有能の程度が掴める気がする。
例えば隣の彼はピアノを奏でているようで。
耳を澄ませても――綺麗なものだ。スピードと精度といい、タッチそのものが。
不器用な自分と比べるとことさら。
感心しつつよそ見を止めにする。
「ちがっ」出し抜けに黙っていた彼が叫んだ。「違います消すの、1のほうですっ」
うわ、「ごめん、もう消しちゃった……」
「はあっ!?」
慌ててこっちに来てどんな操作をされても時既に遅し。
「しっかもこれ。更新かけたばっかなんでバックアップ取れてませんよ。なんてことしてくれてるんですか」
しっかもShiftDelete同時押しをした。ごみ箱にも残っていない。
「ごめん、なさい……」
「もういいです」
私のパソコンを諦めて安田くんは自席に戻る。
そのまま画面に戻るのが常だけれど、
「なんであなたのようなひとがこの部にいるんですかね」
敵意を含んだ、一瞥だった。
え? とか間の抜けた言葉だかを返したと思う。
「長谷川先輩はソフトとハード両方に詳しい。プログラミングも組めるんですよね。教えるのもそこらの教師よりも上手です。それにひきかえ、……あなたといったら知識も言動も素人以下。完全に足手まといですよ」
……
タスクの凄さは知ってる。
でも。
あのレベルに追いつけなくっても、頑張ってみようとか、ここにいたいって気持ちだけじゃあ、……駄目なのかな。
「それとも」
なめらかなタッチで打ち続ける安田くんがふと、
「色目でも使っているつもりですか」
全身の血が逆流するかと思った。
「……待って、なに言って……」
「感情が透けて見えるようなんですよ」
画面から目を離さず、タイプ音を奏で、
なにをこのひとは言おうとしているのだろう。
「分かりやすい人だねって言われることはありません? 桜井先輩辺りにでも、からかいながら……」
動く口が嫌だ、
見てるだけの自分が嫌だ、
それ以上は、
「教えてあげましょうか、僕が確信していることを。あなたは――」
彼のいる前で、
「うるせえっ!」
耳を塞いだ私には、
別の怒号が響いた。
「……くそ。いい所まで行ったんだがな……間違えて隣クリックしちまった」
恐る恐る声の正体を確かめる。
「てめえらがぎゃーぎゃー騒ぐからだぞ。俺の『マインスイーパ』初勝利がお預けだ……」
……マキ。
そんなに好きなんですかマインスイーパ。
顔覆って項垂れてるしそんな、大げさな。
「おい安田」
瞬間的に寒気を覚えた。
指の隙間から覗く瞳の威圧に。
背筋が冷えるほどの迫力をもろに向けられ、安田くんの顔色が変わる。
「いまのはおまえの指示ミスだろ。てめえさしおいてなに勝手にキレてやがる」
「だって蒔田先輩っ。こ、このひとっ」
「……言い訳を聞くのは嫌いなんだ。他を当たってくれ」
背もたれに背を預けふんぞり返る。
禍々しさを放つマキから視線を外せず、安田くんが生唾を飲む音をいやに大きく聞いた。
「蒔田先輩は、……い。いつからそんなになったんですか」
「ああ?」
気圧されていたかに見えた。
が彼は、震えを克服し、きっぱりと言い切った。
「サッカー辞めて桜井先輩と。このひととつるむようになってから、なんにも夢中になれないただの腑抜けになったんじゃないですかっ!」
「ちょっと」
言っていいことと悪いことがある。安田くんを殴りたい。
「……俺の話が関係あんのか」椅子を立ちかけた私をマキの静かな声が制した。「なあ安田。部活見学んときにプリント撒かれただろ。あれに、部の四箇条が載ってるのは知ってるか?」
四箇条? ってああ、なんかタスクがモットー作りましょうって言って作ってた。私は賛成した。
「内容は覚えていませんけども、プリントは手元に……」
てか。
プレゼンマキは寝てたくせによく言うよ。
「パソコン部のモットーはこの四つ」
かばんから探る安田くんの様子を確かめながらマキは言う。
清く
正しく
美しく
思いやりを
「あれはな、俺ら四人のことを指してんだ」
ここで。
前かがみに座り直すマキが、私に――微笑みかけていた。
得意げに片方の眉をあげて、口の端をわずかに緩めるあの表情で。
「清くは俺」と親指で自身を指す。「正しくが和貴で美しくは宮沢。三つじゃ一つ足りねえから長谷川は足した」
美しくだなんて、紗優に教えてあげたら喜ぶかな。
「長谷川が都倉のことを考えた時に、真っ先に浮かんだのが思いやりという言葉だったそうだ」
それってどういう……。
私が首かしげる一方でマキは安田くんに話しかけている。
「おまえがこいつをシカトしていたのは知っている。だが一つ訊く。一度でもこいつのほうからおまえをシカトしたことがあったか」
安田くんに目が行く。
プリントを手にしたまま、動けない――
さっきまでの、
追求されたときの、
思考の停止した自分を見ている。
「てめ。あったのかって訊いてんだろっ」
その勢いが、
空気を振動させ、
震えが肘に伝染し、守るように両の肘を抱え込んだ。
椅子が蹴り飛ばされる。
言動を確かめる前に気配が私の背後を駆け抜ける。
「待てこら」
彼の声を振り切り、
けたたましくドアを開き、
足音が廊下へ逃れていった。
な、
……にを固まっていたのか私は。
「や、すだくん、待ってっ」
「放っとけ」
「でも! 追いかけたほうが……」
「頭冷やさねえと駄目だろあれは」
さっきまでとは一変。
落ち着き払い、マウスパチパチいじってるけども私は、……あんな剣幕を目の当たりにしていまだ動悸が収まらない。
一つ、息を吐いて足元を見る。
「けど安田くんね、かばん置いてってる。あとからここに戻ってくるの、……相当気まずいよ」
出ていくときにもろとも蹴り飛ばしたのだろう。
かばんと。なかから飛び出した……下敷きプリント教科書ノートペンケースがそこらじゅうに散乱してる。
気の毒な状態を膝をついてひとつずつ拾っていく。
「……これって」
「どうした」
いいのかと迷いが働いた。
けど。これは。
なんだかんだ言いつつも拾い集める、被写体である彼に私はそれを見せた。
「……俺か?」
「俺だね」
私の手にする写真には。
ゴールに背を向けてヘディングをする少年が写る。中学生の頃と見た。
深緑のユニフォームの胸に海野と五番の文字が入っている。
「お兄さんじゃないのは見れば分かる……五番はディフェンダーの背番号だよね。ペナルティエリアのこんな深い位置でクリアするのってボランチよりかディフェンダーのほうが率は高いでしょう」
第一身長が高い。
「おまえ、詳しいな」
「フランスワールドカップに向けて付け焼刃の知識身につけようとしてるのって私だけじゃないと思うよ」
舌を巻くマキを見てみたいなって期待がうずいた。
こんな小さな写真一枚を二人で覗くことがどれほどの接近値を伴うのかを気づくべきだった。
なんの気もなく目線をあげる。
細い、顎先が私の額にくっつきそうだった。ひげの剃ったのが分かる。
そして眉間の辺りに彼の呼吸を感じた。
熱く、湿った。
唇に目が移る。薄い、ほのかな紅をまとった、
すこし、縦にひびが入っている。
咄嗟に、身を引く。
やや驚いたように開いた、
眼鏡越しの黒い、宝石みたいな双眸が私を捉えていて、
冷たくて美しい彼の輪郭を捉えられる。
ガラスケースの向こうではない、
いますぐにでも触れられる距離にそれはある。
触れ、たい。
「おまえ、」
手を伸ばせば、
欲しいものも、
どうしようもなく焦がれる正体も。
ほんのちょっとの勇気さえ許されれば、
それだけで――
「安田くんは写真が趣味のようですね」
額だか喉だかにしたたかおでこをぶつけた。
でっかい声が、……誰って、……
「い。いいい、つからそこに」
「『四箇条』の辺りからです」優艶に笑む彼はいつの間に、私の手中から消えた写真を拾い、おやまあ蒔田くん可愛いですねえなんて呑気に言っちゃってる。
痛ってーなーと顎だかさすってるのを後ろに聞きながら、泡を食った私は尻もちから抜けだせず。
「突然ですみませんけども、本日の部活はお休みにしました」
「え、なんで」
「僕の都合に加えてもう一つの事情がありまして……」原因は同一なのですがね、と私の頭上からマキへと手渡す。「パソコンが使えないと中々調べものに時間を要します……個人情報を明かすのも主義ではありませんが、最低限に留めましょう。さて」
片膝を払い、教卓に進んでパソコンの電源を入れる。
マキに続いて私も傍に寄るが、……何桁あるんだろう。
パスワードが読み取れないスピードだ。
「僕は、安田くんの行き先に心当たりがあります。おそらくここでしょうという場所が」
Enter。
マウスは使わない主義だ、音もミュート。
「蒔田くんがお持ちのその安田くんのかばんを、僕から手渡すべきか。蒔田くんから安田くんのご実家に届けて頂くかそれとも……」
「決まってる!」
マキからかばんを奪い取った。
「私から渡す! 安田くんには言いたいことがあるから!」
驚きに瞳孔が開いた。
それでもまたいつもの微笑みを戻し、マキのほうを見やりタスクはワンワードを口にする。
「屋上です」
息が、止まる。
伏せていた目をあげ、預けていた背を壁から離し、組ませていた長い足をほどく。
「長谷川からこいつを預かってる」彼は鍵を空に泳がす。「下田との打ち合わせが長引きそうだから、部室開けておけとな。おまえ、いまから行くのか」
先生を呼び捨てにしてる。
明らかに出待ちしてたのに。
そんなのより問題なのは、
「あ。うん……和貴と紗優は居残りがあるから、先に行っててって」
「そうか」
なんの意識も持たずに進む背中を。
こんなにも意識する。
二人で歩く、なんて――最後にこんなことがあったの、
いつだったっけ。
心臓が早鐘を鳴らすなんて、異常だ。
それどころか振り返りざまに笑いかけられる。
「――来週。二年の連中が修学旅行に行くのは知ってるか? ゴールデンウィークから続いて連休に入んだ。まったく、フザけてるよな」
フザけてるのは私のほうだ。
緊張する収縮するこんな、
話しかけられるだけで顔が、
「どうした」
赤くなる見られたくない気づかれたくない、
「熱でもあんのかおまえ」
「やっ、」
屈んで、覗き込まれるのが怖くて、
伸びてくる手を振り払ったそれは、
思いのほか派手な音を立てた。
周りの注意を引くのが分かった。
「ご、めん……本当。なんでもないから……」
「そうか」
すり抜けていく彼は。
ああ。
手のなかに鈍い痛みが残される。
なにをしたいのかが分からない。
離れられると、近づきたくなる。
近づかれると、遠ざけたくなる。
肩を並べることなど選べず。
突き進む彼の勇気を私は、眺めるだけとなる。
透明で分厚い壁が私と彼の間にそびえている。
「……どうやら入れ違いだったようですね。蒔田先輩」
「どけ。いま開ける」
悪びれもせず、言葉通り安田くんを手で退けて鍵をドアを開いた。
「川島くんて今日お休みなんだっけ」
話しかけたつもりが、
「修学旅行の準備とか、あるんだろうね。……懐かしいなあ」
彼はディスプレイから視線を譲らない。
「私ね、中学のときは北海道に行ったの。安田くんは行き先どこだった?」
「知りません」
「そっ……」
パソコンルーム一室に現在三名が入室。隣の安田くんはおろかお向かいさんも超沈黙者だしとどのつまり、気まずい。
タスクから話しかけられれば嬉しそうにするのに、
私からだと不服げで、無視されることもしばし。
で更に話しかけるのも、自分が対小学生に道徳をとくとくと説くヒスな女教師に思えてくるというか……
ため息を押し殺す。
各自黙々と打つ。
会話ゼロ。
空気が重たく感じるのは私の気持ちのせいだろうか。
「ねえ安田くん。サーバに議事録が二つあるんだけど、どっちか消していいよね。紛らわしいし……」
「バージョン2のほうです」
「分かった」
……タイピングで有能の程度が掴める気がする。
例えば隣の彼はピアノを奏でているようで。
耳を澄ませても――綺麗なものだ。スピードと精度といい、タッチそのものが。
不器用な自分と比べるとことさら。
感心しつつよそ見を止めにする。
「ちがっ」出し抜けに黙っていた彼が叫んだ。「違います消すの、1のほうですっ」
うわ、「ごめん、もう消しちゃった……」
「はあっ!?」
慌ててこっちに来てどんな操作をされても時既に遅し。
「しっかもこれ。更新かけたばっかなんでバックアップ取れてませんよ。なんてことしてくれてるんですか」
しっかもShiftDelete同時押しをした。ごみ箱にも残っていない。
「ごめん、なさい……」
「もういいです」
私のパソコンを諦めて安田くんは自席に戻る。
そのまま画面に戻るのが常だけれど、
「なんであなたのようなひとがこの部にいるんですかね」
敵意を含んだ、一瞥だった。
え? とか間の抜けた言葉だかを返したと思う。
「長谷川先輩はソフトとハード両方に詳しい。プログラミングも組めるんですよね。教えるのもそこらの教師よりも上手です。それにひきかえ、……あなたといったら知識も言動も素人以下。完全に足手まといですよ」
……
タスクの凄さは知ってる。
でも。
あのレベルに追いつけなくっても、頑張ってみようとか、ここにいたいって気持ちだけじゃあ、……駄目なのかな。
「それとも」
なめらかなタッチで打ち続ける安田くんがふと、
「色目でも使っているつもりですか」
全身の血が逆流するかと思った。
「……待って、なに言って……」
「感情が透けて見えるようなんですよ」
画面から目を離さず、タイプ音を奏で、
なにをこのひとは言おうとしているのだろう。
「分かりやすい人だねって言われることはありません? 桜井先輩辺りにでも、からかいながら……」
動く口が嫌だ、
見てるだけの自分が嫌だ、
それ以上は、
「教えてあげましょうか、僕が確信していることを。あなたは――」
彼のいる前で、
「うるせえっ!」
耳を塞いだ私には、
別の怒号が響いた。
「……くそ。いい所まで行ったんだがな……間違えて隣クリックしちまった」
恐る恐る声の正体を確かめる。
「てめえらがぎゃーぎゃー騒ぐからだぞ。俺の『マインスイーパ』初勝利がお預けだ……」
……マキ。
そんなに好きなんですかマインスイーパ。
顔覆って項垂れてるしそんな、大げさな。
「おい安田」
瞬間的に寒気を覚えた。
指の隙間から覗く瞳の威圧に。
背筋が冷えるほどの迫力をもろに向けられ、安田くんの顔色が変わる。
「いまのはおまえの指示ミスだろ。てめえさしおいてなに勝手にキレてやがる」
「だって蒔田先輩っ。こ、このひとっ」
「……言い訳を聞くのは嫌いなんだ。他を当たってくれ」
背もたれに背を預けふんぞり返る。
禍々しさを放つマキから視線を外せず、安田くんが生唾を飲む音をいやに大きく聞いた。
「蒔田先輩は、……い。いつからそんなになったんですか」
「ああ?」
気圧されていたかに見えた。
が彼は、震えを克服し、きっぱりと言い切った。
「サッカー辞めて桜井先輩と。このひととつるむようになってから、なんにも夢中になれないただの腑抜けになったんじゃないですかっ!」
「ちょっと」
言っていいことと悪いことがある。安田くんを殴りたい。
「……俺の話が関係あんのか」椅子を立ちかけた私をマキの静かな声が制した。「なあ安田。部活見学んときにプリント撒かれただろ。あれに、部の四箇条が載ってるのは知ってるか?」
四箇条? ってああ、なんかタスクがモットー作りましょうって言って作ってた。私は賛成した。
「内容は覚えていませんけども、プリントは手元に……」
てか。
プレゼンマキは寝てたくせによく言うよ。
「パソコン部のモットーはこの四つ」
かばんから探る安田くんの様子を確かめながらマキは言う。
清く
正しく
美しく
思いやりを
「あれはな、俺ら四人のことを指してんだ」
ここで。
前かがみに座り直すマキが、私に――微笑みかけていた。
得意げに片方の眉をあげて、口の端をわずかに緩めるあの表情で。
「清くは俺」と親指で自身を指す。「正しくが和貴で美しくは宮沢。三つじゃ一つ足りねえから長谷川は足した」
美しくだなんて、紗優に教えてあげたら喜ぶかな。
「長谷川が都倉のことを考えた時に、真っ先に浮かんだのが思いやりという言葉だったそうだ」
それってどういう……。
私が首かしげる一方でマキは安田くんに話しかけている。
「おまえがこいつをシカトしていたのは知っている。だが一つ訊く。一度でもこいつのほうからおまえをシカトしたことがあったか」
安田くんに目が行く。
プリントを手にしたまま、動けない――
さっきまでの、
追求されたときの、
思考の停止した自分を見ている。
「てめ。あったのかって訊いてんだろっ」
その勢いが、
空気を振動させ、
震えが肘に伝染し、守るように両の肘を抱え込んだ。
椅子が蹴り飛ばされる。
言動を確かめる前に気配が私の背後を駆け抜ける。
「待てこら」
彼の声を振り切り、
けたたましくドアを開き、
足音が廊下へ逃れていった。
な、
……にを固まっていたのか私は。
「や、すだくん、待ってっ」
「放っとけ」
「でも! 追いかけたほうが……」
「頭冷やさねえと駄目だろあれは」
さっきまでとは一変。
落ち着き払い、マウスパチパチいじってるけども私は、……あんな剣幕を目の当たりにしていまだ動悸が収まらない。
一つ、息を吐いて足元を見る。
「けど安田くんね、かばん置いてってる。あとからここに戻ってくるの、……相当気まずいよ」
出ていくときにもろとも蹴り飛ばしたのだろう。
かばんと。なかから飛び出した……下敷きプリント教科書ノートペンケースがそこらじゅうに散乱してる。
気の毒な状態を膝をついてひとつずつ拾っていく。
「……これって」
「どうした」
いいのかと迷いが働いた。
けど。これは。
なんだかんだ言いつつも拾い集める、被写体である彼に私はそれを見せた。
「……俺か?」
「俺だね」
私の手にする写真には。
ゴールに背を向けてヘディングをする少年が写る。中学生の頃と見た。
深緑のユニフォームの胸に海野と五番の文字が入っている。
「お兄さんじゃないのは見れば分かる……五番はディフェンダーの背番号だよね。ペナルティエリアのこんな深い位置でクリアするのってボランチよりかディフェンダーのほうが率は高いでしょう」
第一身長が高い。
「おまえ、詳しいな」
「フランスワールドカップに向けて付け焼刃の知識身につけようとしてるのって私だけじゃないと思うよ」
舌を巻くマキを見てみたいなって期待がうずいた。
こんな小さな写真一枚を二人で覗くことがどれほどの接近値を伴うのかを気づくべきだった。
なんの気もなく目線をあげる。
細い、顎先が私の額にくっつきそうだった。ひげの剃ったのが分かる。
そして眉間の辺りに彼の呼吸を感じた。
熱く、湿った。
唇に目が移る。薄い、ほのかな紅をまとった、
すこし、縦にひびが入っている。
咄嗟に、身を引く。
やや驚いたように開いた、
眼鏡越しの黒い、宝石みたいな双眸が私を捉えていて、
冷たくて美しい彼の輪郭を捉えられる。
ガラスケースの向こうではない、
いますぐにでも触れられる距離にそれはある。
触れ、たい。
「おまえ、」
手を伸ばせば、
欲しいものも、
どうしようもなく焦がれる正体も。
ほんのちょっとの勇気さえ許されれば、
それだけで――
「安田くんは写真が趣味のようですね」
額だか喉だかにしたたかおでこをぶつけた。
でっかい声が、……誰って、……
「い。いいい、つからそこに」
「『四箇条』の辺りからです」優艶に笑む彼はいつの間に、私の手中から消えた写真を拾い、おやまあ蒔田くん可愛いですねえなんて呑気に言っちゃってる。
痛ってーなーと顎だかさすってるのを後ろに聞きながら、泡を食った私は尻もちから抜けだせず。
「突然ですみませんけども、本日の部活はお休みにしました」
「え、なんで」
「僕の都合に加えてもう一つの事情がありまして……」原因は同一なのですがね、と私の頭上からマキへと手渡す。「パソコンが使えないと中々調べものに時間を要します……個人情報を明かすのも主義ではありませんが、最低限に留めましょう。さて」
片膝を払い、教卓に進んでパソコンの電源を入れる。
マキに続いて私も傍に寄るが、……何桁あるんだろう。
パスワードが読み取れないスピードだ。
「僕は、安田くんの行き先に心当たりがあります。おそらくここでしょうという場所が」
Enter。
マウスは使わない主義だ、音もミュート。
「蒔田くんがお持ちのその安田くんのかばんを、僕から手渡すべきか。蒔田くんから安田くんのご実家に届けて頂くかそれとも……」
「決まってる!」
マキからかばんを奪い取った。
「私から渡す! 安田くんには言いたいことがあるから!」
驚きに瞳孔が開いた。
それでもまたいつもの微笑みを戻し、マキのほうを見やりタスクはワンワードを口にする。
「屋上です」
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