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灰色イルカ
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~イルカ組曲~
ひたひたと静かな月の光が水面に映り込み、微かに揺れている。
真夜中のプールサイドは影ひとつない。
刹那。
水面の月がぐにゃりと崩れたかと思うと、突如黒い影が空に舞った。
―――イルカだ。
水面の月が元の丸い形を取り戻すよりも速く、イルカは、ばしゃり、と音を立てて水中へ戻ったが、またすぐに浮かびあがってきて飛び跳ねる。
何度も。何度も。
高く。遠く。
~灰色イルカ~
目覚まし時計の音は、どんなに好きな音や音楽を設定しても、嫌な音に変わりはないだろう。
心地良い眠りから無理やり現実に引き戻されるのは誰だって嫌だと思う。
けたたましく鳴り続ける目覚まし時計のアラームをOFFにして、暖かいベッドから勢いをつけるようにして起き上がる。
そうでもしないと、二度寝というあたたかな悪魔に連れ去られそうになるからだ。
ベッドの脇のカーテンを少しめくると、夜明けはまだ遠く、真冬の重たい灰色をした空が広がっていた。
今日の天気が晴れなのか雨なのかもわからない。
カーテンを元に戻し、クローゼットを開け、ハンガーに掛かっているブレザー制服に袖を通した。
室内と同じくひんやりとしているそれに、思わず鳥肌が立つ。
ネクタイは後で締めることにして、部屋を出る。
握ったドアノブも冷たい。
冬は、あんまり好きじゃない。
どこもかしこも冷たいから。
リビングへと続くドアを開けると暖かな空気とともに、焼けたトーストとバターの優しい香りが僕の鼻をくすぐった。
「慎、おはよ」
「おはよう、姉さん。父さんたちは?」
先に朝食を取っていた姉に挨拶をして、いつもの確認をする。
多忙な両親と朝から顔を合わせることは少ない。
「さっき出発したよ。夜には会えるんじゃない? あ、お弁当はそこに置いてるって」
両親が不在なことに少しほっとしている自分に気づく。
カウンターの上に置いてある弁当箱を確認した後、食パンをトースターにセットし、インスタントコーヒーを淹れる。
「逃げちゃったんだって」
「何が?」
「イルカ。あの水族館の」
ふわふわと湯気を上げるコーヒーの入ったマグカップを手に、姉の向かいの席に着く。
両手でココアの入ったマグカップを包み込むように持ち、ちびちびと飲んでいた姉は、視線だけでテレビの方を指した。
流れているニュースを見る。
昨晩、近所にある水族館からイルカが一頭いなくなったらしい。
逃げ出した可能性もあるとのこと。
確かにあの水族館は海のすぐ傍にある。
イルカのショーをやっていたプールは、柵を飛び越えられればそこは海だ。
……飛び越えられれば、の話だが。
「逃げる必要なんてなさそうなのにね。あの水族館、寂れてきてはいるけど飼育されていればそれなりに快適だろうに」
「さあ。逃げ出したい理由でもあったんじゃないの?」
コーヒーをすすりながらてきとうに答えを返すと、意外にも姉は食いついてきた。
「逃げ出したい理由って?」
「それは……わからないけど」
「ふーん……。外の世界でも見たかったのかなあ」
姉はイルカが盗まれた、という可能性は考えていないようで、逃げ出した(仮定)イルカに思いを馳せているようだ。
理由なんて追及されるとも思ってなかったので少し焦った。
トースターが食パンが焼けたことを告げる軽やかな音を立てた。
これ幸いとばかりに、僕は席を立つ。
「そういえばどうするの?」
「何を?」
「進路。面談のお知らせ冷蔵庫に貼ってあったよ」
「……。そうだったかもね」
素知らぬふりをしてバターを塗ったトーストを齧る。
僕は今高校2年生だ。春からは受験生、になる。
受験。受験。受験。
学校生活だけでなく、日常生活の中でも耳にする機会が増えたこの言葉を、僕はまだぼんやりと曖昧なままで捉えていた。
「別に答えたくないならそれでもいいんだけどさ。ちゃんと父さんたちと話しなよ?」
「……わかった」
僕らの両親は教師をやっている。
進路関係のことについて尋ねるなら一番近い適任者に違いない。
だけど、僕はまだ、進路について何一つ両親に相談したことはなかった。
「いってきます」
小さくなった残りのトーストをぬるくなったコーヒーで流し込み、席を立つ。
ガチャン、という食器を置く音が、思いの外、シンクに響いた。
姉がちらりとこちらを見るのが視界の端でわかる。
しかし僕は、それに気づかなかったふりをして、リビングを出て、玄関に向かった。
忘れ物がないかを確認し、つま先を玄関の床に打ち付けるようにしてスニーカーを履く。
ドアを開けると、2月の容赦ない凍てつく風が頬を掠め、鼻の奥を駆けぬけ、暖かい家から外に出るのを躊躇わせた。
これだから冬は嫌いだ。
マフラーを顔が半分隠れるように巻き直し、通学に使っている自転車を車庫から引き出す。
ひんやりと冷たいハンドルを握りしめ、ペダルに足を掛けた。
自転車を漕ぎながらふと、いなくなったイルカがこの寒さで死んでしまうのではないか、と考えた。
姉の言っていたように外の世界を見たくて逃げ出したとしたら、寒さで死んでしまうなんてあまりにも非情ではないか。
早朝の道路は人通りすら車もまばらで、灰色の重たい空は僕の思考をぐるぐると回す。
今の僕には将来についての明確な目標がない。
高校受験は経験したけど、それは家から一番近い高校を選んだだけで、それ以外の理由はない。
高校まではきっとそれでもいい。
けれど大学に進学するとなるとどうだろう。
大学受験のための勉強をさせられているような高校とは違って、大学は完全に専門分野の研究をすることになる。
明確な目標のない僕は、いったいどんな理由で大学に進学すればいいのだろう?
それとも、大学に進学すれば、目標が見つかったりするのだろうか?
難しい。一体どうしたらいいのだろう。
また朝のイルカのニュースが頭によぎる。
イルカは、どうして水族館を逃げ出したのだろう。
外の世界を見たかったから?
今の生活に嫌気が差したから?
水族館の外の世界はそんなにも魅力的だったのか?
「寒さで死んでしまうかもしれないのに」
思わず考えていることを口に出してしまってハッと周りを見渡す。
……誰もいない。良かった。
そう、外に出たら寒さで死んでしまうかもしれない。
それなのに、イルカは外の世界を見ることを選んだ。
……もし。
もし、死ぬかもしれないとわかっていて、それでもなお、現状から飛び出すことを選んだとしたら?
外の世界。それは未知の世界。
生きるか死ぬかもわからないような、そんな世界。
「……。」
考えごとをしていたらいつの間にか学校に着いていた。
けっこうなスピードで自転車を漕いでいたようで、校舎にも人はまばらだ。
教室のドアを開けると、隅の席で幼馴染みの佳奈が参考書を開いて勉強をしていた。
彼女は小さい頃から真面目で成績も優秀だった。
もっと上の高校に進んでもよかっただろうに、何故か僕と同じ高校に進んだ。
そんな彼女が僕に気づいて顔を上げる。
結ってある黒く長い髪の毛がそれに合わせてさらりと持ち主の背中に零れる。
「おはよう、慎。どうしたの?今日は早いね」
「おはよう。ちょっと考えごとしてて」
「考えごと?」
「うん」
自分の机に荷物を置いて、佳奈の席へと近づく。
佳奈はきょとん、とした顔でこちらを見ている。
「僕、県外の大学に行くよ」
「……え?」
佳奈の大きな目が零れそうなほど大きく開いたのを見て、僕は、何となく誇らしい気持ちになっていた。
~桃色イルカへ続く~
ひたひたと静かな月の光が水面に映り込み、微かに揺れている。
真夜中のプールサイドは影ひとつない。
刹那。
水面の月がぐにゃりと崩れたかと思うと、突如黒い影が空に舞った。
―――イルカだ。
水面の月が元の丸い形を取り戻すよりも速く、イルカは、ばしゃり、と音を立てて水中へ戻ったが、またすぐに浮かびあがってきて飛び跳ねる。
何度も。何度も。
高く。遠く。
~灰色イルカ~
目覚まし時計の音は、どんなに好きな音や音楽を設定しても、嫌な音に変わりはないだろう。
心地良い眠りから無理やり現実に引き戻されるのは誰だって嫌だと思う。
けたたましく鳴り続ける目覚まし時計のアラームをOFFにして、暖かいベッドから勢いをつけるようにして起き上がる。
そうでもしないと、二度寝というあたたかな悪魔に連れ去られそうになるからだ。
ベッドの脇のカーテンを少しめくると、夜明けはまだ遠く、真冬の重たい灰色をした空が広がっていた。
今日の天気が晴れなのか雨なのかもわからない。
カーテンを元に戻し、クローゼットを開け、ハンガーに掛かっているブレザー制服に袖を通した。
室内と同じくひんやりとしているそれに、思わず鳥肌が立つ。
ネクタイは後で締めることにして、部屋を出る。
握ったドアノブも冷たい。
冬は、あんまり好きじゃない。
どこもかしこも冷たいから。
リビングへと続くドアを開けると暖かな空気とともに、焼けたトーストとバターの優しい香りが僕の鼻をくすぐった。
「慎、おはよ」
「おはよう、姉さん。父さんたちは?」
先に朝食を取っていた姉に挨拶をして、いつもの確認をする。
多忙な両親と朝から顔を合わせることは少ない。
「さっき出発したよ。夜には会えるんじゃない? あ、お弁当はそこに置いてるって」
両親が不在なことに少しほっとしている自分に気づく。
カウンターの上に置いてある弁当箱を確認した後、食パンをトースターにセットし、インスタントコーヒーを淹れる。
「逃げちゃったんだって」
「何が?」
「イルカ。あの水族館の」
ふわふわと湯気を上げるコーヒーの入ったマグカップを手に、姉の向かいの席に着く。
両手でココアの入ったマグカップを包み込むように持ち、ちびちびと飲んでいた姉は、視線だけでテレビの方を指した。
流れているニュースを見る。
昨晩、近所にある水族館からイルカが一頭いなくなったらしい。
逃げ出した可能性もあるとのこと。
確かにあの水族館は海のすぐ傍にある。
イルカのショーをやっていたプールは、柵を飛び越えられればそこは海だ。
……飛び越えられれば、の話だが。
「逃げる必要なんてなさそうなのにね。あの水族館、寂れてきてはいるけど飼育されていればそれなりに快適だろうに」
「さあ。逃げ出したい理由でもあったんじゃないの?」
コーヒーをすすりながらてきとうに答えを返すと、意外にも姉は食いついてきた。
「逃げ出したい理由って?」
「それは……わからないけど」
「ふーん……。外の世界でも見たかったのかなあ」
姉はイルカが盗まれた、という可能性は考えていないようで、逃げ出した(仮定)イルカに思いを馳せているようだ。
理由なんて追及されるとも思ってなかったので少し焦った。
トースターが食パンが焼けたことを告げる軽やかな音を立てた。
これ幸いとばかりに、僕は席を立つ。
「そういえばどうするの?」
「何を?」
「進路。面談のお知らせ冷蔵庫に貼ってあったよ」
「……。そうだったかもね」
素知らぬふりをしてバターを塗ったトーストを齧る。
僕は今高校2年生だ。春からは受験生、になる。
受験。受験。受験。
学校生活だけでなく、日常生活の中でも耳にする機会が増えたこの言葉を、僕はまだぼんやりと曖昧なままで捉えていた。
「別に答えたくないならそれでもいいんだけどさ。ちゃんと父さんたちと話しなよ?」
「……わかった」
僕らの両親は教師をやっている。
進路関係のことについて尋ねるなら一番近い適任者に違いない。
だけど、僕はまだ、進路について何一つ両親に相談したことはなかった。
「いってきます」
小さくなった残りのトーストをぬるくなったコーヒーで流し込み、席を立つ。
ガチャン、という食器を置く音が、思いの外、シンクに響いた。
姉がちらりとこちらを見るのが視界の端でわかる。
しかし僕は、それに気づかなかったふりをして、リビングを出て、玄関に向かった。
忘れ物がないかを確認し、つま先を玄関の床に打ち付けるようにしてスニーカーを履く。
ドアを開けると、2月の容赦ない凍てつく風が頬を掠め、鼻の奥を駆けぬけ、暖かい家から外に出るのを躊躇わせた。
これだから冬は嫌いだ。
マフラーを顔が半分隠れるように巻き直し、通学に使っている自転車を車庫から引き出す。
ひんやりと冷たいハンドルを握りしめ、ペダルに足を掛けた。
自転車を漕ぎながらふと、いなくなったイルカがこの寒さで死んでしまうのではないか、と考えた。
姉の言っていたように外の世界を見たくて逃げ出したとしたら、寒さで死んでしまうなんてあまりにも非情ではないか。
早朝の道路は人通りすら車もまばらで、灰色の重たい空は僕の思考をぐるぐると回す。
今の僕には将来についての明確な目標がない。
高校受験は経験したけど、それは家から一番近い高校を選んだだけで、それ以外の理由はない。
高校まではきっとそれでもいい。
けれど大学に進学するとなるとどうだろう。
大学受験のための勉強をさせられているような高校とは違って、大学は完全に専門分野の研究をすることになる。
明確な目標のない僕は、いったいどんな理由で大学に進学すればいいのだろう?
それとも、大学に進学すれば、目標が見つかったりするのだろうか?
難しい。一体どうしたらいいのだろう。
また朝のイルカのニュースが頭によぎる。
イルカは、どうして水族館を逃げ出したのだろう。
外の世界を見たかったから?
今の生活に嫌気が差したから?
水族館の外の世界はそんなにも魅力的だったのか?
「寒さで死んでしまうかもしれないのに」
思わず考えていることを口に出してしまってハッと周りを見渡す。
……誰もいない。良かった。
そう、外に出たら寒さで死んでしまうかもしれない。
それなのに、イルカは外の世界を見ることを選んだ。
……もし。
もし、死ぬかもしれないとわかっていて、それでもなお、現状から飛び出すことを選んだとしたら?
外の世界。それは未知の世界。
生きるか死ぬかもわからないような、そんな世界。
「……。」
考えごとをしていたらいつの間にか学校に着いていた。
けっこうなスピードで自転車を漕いでいたようで、校舎にも人はまばらだ。
教室のドアを開けると、隅の席で幼馴染みの佳奈が参考書を開いて勉強をしていた。
彼女は小さい頃から真面目で成績も優秀だった。
もっと上の高校に進んでもよかっただろうに、何故か僕と同じ高校に進んだ。
そんな彼女が僕に気づいて顔を上げる。
結ってある黒く長い髪の毛がそれに合わせてさらりと持ち主の背中に零れる。
「おはよう、慎。どうしたの?今日は早いね」
「おはよう。ちょっと考えごとしてて」
「考えごと?」
「うん」
自分の机に荷物を置いて、佳奈の席へと近づく。
佳奈はきょとん、とした顔でこちらを見ている。
「僕、県外の大学に行くよ」
「……え?」
佳奈の大きな目が零れそうなほど大きく開いたのを見て、僕は、何となく誇らしい気持ちになっていた。
~桃色イルカへ続く~
応援ありがとうございます!
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