イルカ組曲

紫乃

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桃色イルカ

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 ―――小学生の頃、通信簿にこんなことを書かれたことがある。

佳奈かなさんは何事にも全力で、一生懸命取り組む子です。」

 違うんだよ、先生。
 今なら言うことができる。

 私は、手を抜く、ということができない不器用な生徒なだけだ。


 ~桃色イルカ~

 2月のある朝、私はいつも通りに早めに登校して、塾の課題を片していた。
 早朝の誰もいない教室は、私がシャープペンシルを走らせる音だけが響いていて、その音が心地よく感じる程には集中できて良い。

 朝のホームルームが始まるまであと30分程。
 そろそろ他の生徒たちが登校してくる時間帯だ。

 ―――と思っていたところで教室のドアが開く音がした。

「おはよう、しん。どうしたの? 今日は早いね」

 教室に入ってきたのはクラスメイトで幼なじみの慎だった。
 いつもホームルームが始まるギリギリに登校してくる彼にしては珍しい。
 何か用事でもあるのだろうか。

「おはよう。ちょっと考えごとしてて」

「考えごと?」

「うん」

 彼は心ここにあらず、という感じで自分の机に鞄を置いて、こちらに近づいてきた。
 どうしたんだろう。
 いつもなら学校で話しかけてくることは少ないのに。

 ―――告白、とか?
 いやいやいや、それはないか。
 もし、もし、そうだったら嬉しいけど。


「僕、県外の大学に行くよ」

「……え?」


 世界から音が消えたような心地だった。

 確かに私たちは高校2年生で、もうすぐ3年生になる。
 クラスメイトの口から進路の話が出てきてもおかしくない。

 でも、私はとても驚いていた。

 進路の話が出てきたのが、他でもない、幼なじみの、慎の口からだったから。


「……そうなんだ。いつ決めたの?」

「さっき」

「随分、急だね。何かあったの?」

「イルカのニュース見て、決めた」


 口がカラカラなことを彼に気づかれてはいないだろうか。
 何でもないような顔をして会話をしているが、シャープペンシルを握ったままの手の平には汗が滲んでいる。

「……イルカ?」

「そこの水族館からイルカがいなくなった、ってやつ。見てない?」

 私は首を振る。

「そっか」


 彼は決意表明だけで満足したのか、自分の席へと戻っていった。
 残された私の頭の中は、クエスチョンマークでいっぱいだった。


 つまり彼は、イルカが逃げ出したというニュースを見て、自分のこれからの進路を決めてしまったのか。

 偶然流れてきたニュースの、小さな話題一つで。


 イルカがいなくなったことと、進路に何の関係があるのだろう。
 それとも彼の中ではつながっているのだろうか。



 その日の授業はうまく集中できなかった。
 ちゃんとノートを取っているし、先生たちの話も理解しているけれど、頭の中は朝の慎との会話でいっぱいだった。



 私と慎は小学校からの付き合いだ。
 今まで私は、彼が本気で何かに取り組んだところを見たことがない。
 決して不真面目なわけではない。
 けれど、どこかゆったりと構えていて、何をするにも余力を残している、そんな印象。


 私とは対照的だった。
 私は何でも一生懸命にしないといけないと思っていて、実際にそうしていた。
 そんな性分のせいで、よく怪我もしたし、特に中学生の頃は真面目すぎるとよくからかわれた。

 でも。
 全力で遊ばないと楽しくなかった。
 全力で勉強しないと面白くなかった。
 手を抜いてしまえば、途端に興味を失ってしまう。
 そんな極端な子どもだった。

 だから子ども心にいつも余裕がある慎が羨ましかったし、そんな彼が格好よく見えていた。
 恋心も抱いていた。

 いや、過去形じゃない。
 今も、適度に何でもそつなくこなす彼を羨ましいと思うし、好きだ。

 そんな彼が真剣な顔で「県外の大学に行く」というのだ。
 これは、勘だけど、彼は本気だ。



 放課後、まっすぐ家に帰る気になれなくて、海岸沿いの遊歩道を歩いてみる。
 冷たい潮風が私のポニーテールを容赦なく弄る。

 休み時間に友人から聞いたイルカのニュースを思い出す。
 水族館のプールから逃げ出したという可能性のあるイルカ。

 もしかしたら海に逃げられたのかしら。
 目を凝らして水平線の付近を眺めてみるが、あいにく動く影は見つけられない。

 イルカが逃げ出したいと思った(仮定)ように、慎もこの街から逃げ出したいと思っていたのだろうか。
 それとも、イルカのように広い世界を見たいと思ったのだろうか。
 ……わからない。

 ただひとつわかることは、きっかけさえあれば人は簡単に変わってしまうということ。

 ううん。それは違う。
 慎がきっかけさえあれば本気になれる人だったんだ。
 ……私がそれに気付かなかっただけだ。
 少し寂しいような、悔しいような気持ちがこみあげてくる。


 慎は変わった。
 じゃあ、私はどうしよう?


「よし」


 気合を入れるように小さく呟いて、コートのポケットからスマートフォンを取り出す。
 かじかむ指で慎へと電話をつなぐ。
 思ったより早く彼は電話に出た。

「どうした?」

「あのね、今日の朝県外の大学に行くって言ってたでしょう?」

「うん」

「それ、本気?」

「本気だよ」

「……そっか。勉強しなきゃね」

「そうだね」

「じゃあ、今度の学年末試験、勝負しない? 競争相手がいた方がモチベーション上がるでしょう?」

「それは嬉しいけど……」

「勝った方に負けた方からご褒美」

「……わかった。負けないから」

「私だって」


 その後、他愛のない話を一つ二つして電話を切る。

 私の体温で少し温かくなったスマートフォンを胸に抱く。

 学年末試験は今月末。
 もちろん私は手を抜く気はない。

 そして、もし勝ったら、慎に告白したい。
 今年も含めてずっと渡せなかったチョコレートも、もう一回用意しよう。

 慎が踏み出した一歩に比べれば些細な一歩だけれども、私だって前に進みたい。

 潮風を大きく吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
 吐き出した吐息が白い煙になって柔らかく空に溶けていく。

 スキップして帰りたいような、そんな晴れやかな気持ちだった。



 ~藍色イルカに続く~
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