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白色イルカ
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教員採用試験二次試験の不採用の通知が届いたとき、それほど大きなショックは感じなかった。
「まぁ、そうだよな」という諦めに似た気持ちが一番最初に来て、「先生方に何と言おうか」という不安が次に来た。
僕の目の前はいつも白く霧がかかっているようだ。
僕は今の場所から一歩踏み出す勇気を持っていない弱虫者だ。
~白色イルカ~
大学生の春休みは長い。
そして暇なものである。
今日も目覚めた時間はお昼をとっくに過ぎていた。
朝食と昼食を兼ねたカップラーメンを食べるためにお湯を沸かしている間、ベランダで煙草に火をつける。
ゆっくりと煙を吸い込み、そして吐き出す。
白い煙がゆるゆると2月の空に溶けていく。
お昼を過ぎたこの時間帯でも風は冷たく、思わずスウェットの上から腕をさすった。
来年の今頃は、卒論の発表準備で忙しいのだろうか。
暇な春休みは今年で最後だろう。
カチリ、とお湯が沸いたことを知らせる音が部屋から聞こえた。
僕は半分程吸った煙草を灰皿に押し付けて、部屋へ戻ろうと踵を返した。
3年間ろくに掃除をしていないベランダの床がスリッパとの摩擦でざりりと音を立てる。
この部屋ともあと1年でお別れだ。
僕はアルバイトで塾講師をしている。
大学で学んでいる内容も教育関係のことなので、授業の練習にもなるかと思い、大学1年生の頃に始めた。
生徒の理解度を考えた授業の進行、生徒指導、理解が足りない生徒へのサポート……。
集団授業は学校の授業とあまり変わらないのではないか、と思う。
僕の体感の話だけれど。
それでも教員採用試験の二次試験で落ちてしまったのだから、偉そうなことは言えないのかもしれない。
塾のアルバイトに行く前に煙草を吸うのが好きだ。
なんとなく気分がリセットされる気がするから。
海沿いの公園から少し離れた所にある喫煙所がお気に入りで、この季節は夕日が海に沈んでいくのも見ることができる。
公園から子どもたちの声が微かに聞こえる。
ふと、先日塾の生徒に言われた言葉を思い出した。
「大人ってなんですか」、そう呟いたショートカットの女子生徒の声。
僕はなんと答えただろうか。
僕自身、大人になった実感がいまいちないので、彼女が求めていた答えとはズレた返答をしてしまったかもしれない。
大人ってなんなんだろうな。
ぼんやりと考えながら2本目の煙草に火を付けようとしたとき、1台の自転車が右手の方から走ってくるのが見えた。
この近くの高校生だろうか。
のんびりとしたスピードで走ってくる自転車を眺めていると、突如、自転車の主が急ブレーキをかけた。
詰襟の学生服を着た自転車の主は自転車を慌ただしく停めたかと思うと海の方へと走り出した。
これはやばい。
そう思って、煙草を放り投げて彼を追いかけた。
全力疾走なんていつぶりだろう。
明日は筋肉痛か。
彼が堤防に手をかけたとき、ようやく追いついてその腕を取った。
「危ないことするんじゃない!」
思わず口に出た言葉に、件の彼はキョトン、とした表情をし、次の瞬間からみるみる顔が赤くなっていく。
「すみません、僕自殺しようとした訳じゃないんです……。」
……今度はこちらが赤面する側だった。
お互いペコペコと謝り、少し話をすることにした。
少々気まずい雰囲気なので、何か飲み物を、と思い、近くの自動販売機で温かいココアとコーヒーを買った。
最近の高校生はどんなものを好むのだろう。
熱すぎるくらいの2つの缶を手に彼のいるベンチに戻る。
「どっちがいい?」
「えっと、コーヒーで」
意外と大人だ。
「さっきはすみませんでした」
缶の蓋を開けないまま、彼が切り出した。
「いや、こっちこそ誤解して悪かった。何かあったのかな?」
「イルカが……」
「イルカ?」
「はい、見えた気がしたんです」
それから水族館からイルカが逃げ出した、という話を聞いた。
それで彼が進路を県外受験にしようとしたことも。
「やっぱり変ですかね。ニュース1つで進路を考えるなんて」
「そんなことないと思うよ。その行動力は誇っていいことだと思う」
僕にはそんな行動力はないから。
若い行動力は羨ましい。
「井の中の蛙大海を知らず、って言うだろう?
君はカエルじゃないし、海に、というか外の世界に出ても死にやしない。
世界はとても広くて。君にはそれを知る権利も方法だってある。
自分の思った通りに進んでみて、失敗しても、そこから学べばいい。
あは、ごめんね。説教くさくなってしまったね」
「……いえ、ありがとうございます。
なんだか先生みたいですね」
ドキリ、とした。
無責任に教師紛いのことを口走って、幻滅されただろうか。
彼がようやくコーヒーの蓋を開けて、そのまま一気に中身を飲み干した。
「少し自信が持てました。幼なじみに偉そうに宣言しておいて、やっぱりちょっと不安だったんです。自分の選択は本当に正しいのか、って」
彼がこちらを見て、ようやく目があった。
真っ直ぐな綺麗な目だった。
「やってみます。やる前から諦めてちゃ何も変わりませんからね。やる気出てきました」
彼は立ち上がって、大きく伸びをした。
夕日が差して後光のようになっているその姿がやけに眩しかった。
「帰って勉強します。幼なじみに次のテスト勝たなきゃいけないんで」
「……そっか。頑張って」
「はい! お話聞いて下さってありがとうございました。あと、コーヒーも」
彼が自転車で颯爽と駆けていくのを僕はぼんやりと眺めていた。
なんて眩しいことだろう。
手の中のココアは蓋を開けられることのないまま、ぬるくなっている。
「若いっていいなぁ」
ぼそりと出た独り言に驚き、怖くなった。
僕だって、彼とそんなに離れてないじゃないか。
僕は、何ができるだろう。
改めて2本目の煙草に火を付ける。
夕日が目に眩しい。目を閉じる。
思考から目覚めたのは2本目の煙草が指を焦がしそうになるくらいに燃えた頃だった。
僕は、僕に出来ることは、1つずつ確実に積み上げていくことだけ。
そうだ。
大学受験を1度失敗したときだって、それしかできないと思って、積み上げていったじゃないか。
時計を見る。
授業にはまだ早いがもう塾へ向かおう。
そして今日の授業の予習をしよう。
僕は歩き始める。
彼のようにはいかないけど、できるだけ颯爽と。
僕の未来は、まだ真っ白な霧がかかっている。
でもその先が見たい、その先へ行きたい、と今は強く思えるのだ。
「まぁ、そうだよな」という諦めに似た気持ちが一番最初に来て、「先生方に何と言おうか」という不安が次に来た。
僕の目の前はいつも白く霧がかかっているようだ。
僕は今の場所から一歩踏み出す勇気を持っていない弱虫者だ。
~白色イルカ~
大学生の春休みは長い。
そして暇なものである。
今日も目覚めた時間はお昼をとっくに過ぎていた。
朝食と昼食を兼ねたカップラーメンを食べるためにお湯を沸かしている間、ベランダで煙草に火をつける。
ゆっくりと煙を吸い込み、そして吐き出す。
白い煙がゆるゆると2月の空に溶けていく。
お昼を過ぎたこの時間帯でも風は冷たく、思わずスウェットの上から腕をさすった。
来年の今頃は、卒論の発表準備で忙しいのだろうか。
暇な春休みは今年で最後だろう。
カチリ、とお湯が沸いたことを知らせる音が部屋から聞こえた。
僕は半分程吸った煙草を灰皿に押し付けて、部屋へ戻ろうと踵を返した。
3年間ろくに掃除をしていないベランダの床がスリッパとの摩擦でざりりと音を立てる。
この部屋ともあと1年でお別れだ。
僕はアルバイトで塾講師をしている。
大学で学んでいる内容も教育関係のことなので、授業の練習にもなるかと思い、大学1年生の頃に始めた。
生徒の理解度を考えた授業の進行、生徒指導、理解が足りない生徒へのサポート……。
集団授業は学校の授業とあまり変わらないのではないか、と思う。
僕の体感の話だけれど。
それでも教員採用試験の二次試験で落ちてしまったのだから、偉そうなことは言えないのかもしれない。
塾のアルバイトに行く前に煙草を吸うのが好きだ。
なんとなく気分がリセットされる気がするから。
海沿いの公園から少し離れた所にある喫煙所がお気に入りで、この季節は夕日が海に沈んでいくのも見ることができる。
公園から子どもたちの声が微かに聞こえる。
ふと、先日塾の生徒に言われた言葉を思い出した。
「大人ってなんですか」、そう呟いたショートカットの女子生徒の声。
僕はなんと答えただろうか。
僕自身、大人になった実感がいまいちないので、彼女が求めていた答えとはズレた返答をしてしまったかもしれない。
大人ってなんなんだろうな。
ぼんやりと考えながら2本目の煙草に火を付けようとしたとき、1台の自転車が右手の方から走ってくるのが見えた。
この近くの高校生だろうか。
のんびりとしたスピードで走ってくる自転車を眺めていると、突如、自転車の主が急ブレーキをかけた。
詰襟の学生服を着た自転車の主は自転車を慌ただしく停めたかと思うと海の方へと走り出した。
これはやばい。
そう思って、煙草を放り投げて彼を追いかけた。
全力疾走なんていつぶりだろう。
明日は筋肉痛か。
彼が堤防に手をかけたとき、ようやく追いついてその腕を取った。
「危ないことするんじゃない!」
思わず口に出た言葉に、件の彼はキョトン、とした表情をし、次の瞬間からみるみる顔が赤くなっていく。
「すみません、僕自殺しようとした訳じゃないんです……。」
……今度はこちらが赤面する側だった。
お互いペコペコと謝り、少し話をすることにした。
少々気まずい雰囲気なので、何か飲み物を、と思い、近くの自動販売機で温かいココアとコーヒーを買った。
最近の高校生はどんなものを好むのだろう。
熱すぎるくらいの2つの缶を手に彼のいるベンチに戻る。
「どっちがいい?」
「えっと、コーヒーで」
意外と大人だ。
「さっきはすみませんでした」
缶の蓋を開けないまま、彼が切り出した。
「いや、こっちこそ誤解して悪かった。何かあったのかな?」
「イルカが……」
「イルカ?」
「はい、見えた気がしたんです」
それから水族館からイルカが逃げ出した、という話を聞いた。
それで彼が進路を県外受験にしようとしたことも。
「やっぱり変ですかね。ニュース1つで進路を考えるなんて」
「そんなことないと思うよ。その行動力は誇っていいことだと思う」
僕にはそんな行動力はないから。
若い行動力は羨ましい。
「井の中の蛙大海を知らず、って言うだろう?
君はカエルじゃないし、海に、というか外の世界に出ても死にやしない。
世界はとても広くて。君にはそれを知る権利も方法だってある。
自分の思った通りに進んでみて、失敗しても、そこから学べばいい。
あは、ごめんね。説教くさくなってしまったね」
「……いえ、ありがとうございます。
なんだか先生みたいですね」
ドキリ、とした。
無責任に教師紛いのことを口走って、幻滅されただろうか。
彼がようやくコーヒーの蓋を開けて、そのまま一気に中身を飲み干した。
「少し自信が持てました。幼なじみに偉そうに宣言しておいて、やっぱりちょっと不安だったんです。自分の選択は本当に正しいのか、って」
彼がこちらを見て、ようやく目があった。
真っ直ぐな綺麗な目だった。
「やってみます。やる前から諦めてちゃ何も変わりませんからね。やる気出てきました」
彼は立ち上がって、大きく伸びをした。
夕日が差して後光のようになっているその姿がやけに眩しかった。
「帰って勉強します。幼なじみに次のテスト勝たなきゃいけないんで」
「……そっか。頑張って」
「はい! お話聞いて下さってありがとうございました。あと、コーヒーも」
彼が自転車で颯爽と駆けていくのを僕はぼんやりと眺めていた。
なんて眩しいことだろう。
手の中のココアは蓋を開けられることのないまま、ぬるくなっている。
「若いっていいなぁ」
ぼそりと出た独り言に驚き、怖くなった。
僕だって、彼とそんなに離れてないじゃないか。
僕は、何ができるだろう。
改めて2本目の煙草に火を付ける。
夕日が目に眩しい。目を閉じる。
思考から目覚めたのは2本目の煙草が指を焦がしそうになるくらいに燃えた頃だった。
僕は、僕に出来ることは、1つずつ確実に積み上げていくことだけ。
そうだ。
大学受験を1度失敗したときだって、それしかできないと思って、積み上げていったじゃないか。
時計を見る。
授業にはまだ早いがもう塾へ向かおう。
そして今日の授業の予習をしよう。
僕は歩き始める。
彼のようにはいかないけど、できるだけ颯爽と。
僕の未来は、まだ真っ白な霧がかかっている。
でもその先が見たい、その先へ行きたい、と今は強く思えるのだ。
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とても読みやすかったです(^^)
国語の教科書に採用されそうな良い作品だと思います(^^)
他にも作品も見たいのでお気に入り登録させてもらいました。
良かったら私の作品も観てくださいね(^^)////
花雨さん、拙作を見つけてくださってありがとうございます。
お褒めの言葉までいただけて嬉しいです。
普段はノベルアップ+で活動しています。
他の作品はほぼそちらにあるので、興味がありましたら覗いてみてくださいませ。
はい、後日にはなるかと思いますが、お伺いします。